小さな者を軽んじるな 2015年3月01日(日曜 朝の礼拝)

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小さな者を軽んじるな

日付
説教
村田寿和 牧師
聖書
マタイによる福音書 18章10節~14節

聖句のアイコン聖書の言葉

18:10 「これらの小さな者を一人でも軽んじないように気をつけなさい。言っておくが、彼らの天使たちは天でいつもわたしの天の父の御顔を仰いでいるのである。
18:11 (†底本に節が欠落 異本訳)人の子は、失われたものを救うために来た。
18:12 あなたがたはどう思うか。ある人が羊を百匹持っていて、その一匹が迷い出たとすれば、九十九匹を山に残しておいて、迷い出た一匹を捜しに行かないだろうか。
18:13 はっきり言っておくが、もし、それを見つけたら、迷わずにいた九十九匹より、その一匹のことを喜ぶだろう。
18:14 そのように、これらの小さな者が一人でも滅びることは、あなたがたの天の父の御心ではない。」マタイによる福音書 18章10節~14節

原稿のアイコンメッセージ

 マタイによる福音書18章には、キリストの教会がどのような交わりであるべきかが教えられています。今朝は、1節から14節までをお読みしましたが、私たちはすでに、1節から9節までを学びました。弟子たちの、「いったいだれが、天の国でいちばん偉いのでしょうか」という質問に対して、イエス様は一人の子供を弟子たちの真ん中に立たせて、こう言われました。「はっきり言っておく。心を入れ替えて子供のようにならなければ、決して天の国に入ることはできない。自分を低くして、この子供のようになる人が、天の国で一番偉いのだ」。ここでの「子供」は低い者の典型として言及されています。当時の社会において、子供は取るに足らない者、つまらない者の代表的な存在でありました。それゆえ、イエス様は、「自分を低くして、この子供のようになる人が、天の国で一番偉いのだ」と言われたのです。天の国では子供のように自分を小さな者とする人が、一番大きな者であるということであります。いやそもそも、心を入れ替えて子供のようにならなければ、決して天の国に入ることはできないのです。私たちは、この子供のようになって自分を低くし、天の国に入り、天の国でいちばん大いなる者とされたお方が、イエス様御自身であることを知っております。フィリピの信徒への手紙2章に記されているように、キリストは神の身分でありながら、僕の身分になり、人間と同じ者になられました。人間の姿で現れ、へりくだって、死に至るまで、それも十字架の死に至るまで従順であられたのです。イエス様が十字架の死に至るまで神様に従順であったのは、イエス様が完全に御自分を低くなされたからです。このため、神様はキリストを高く上げ、あらゆる名にまさる名をお与えになったのであります。謙遜な者に恵みを与えられる神様は、十字架の死に至るまでへりくだられたイエス様を、天国で一番偉大な者となされたのであります。私たちは、このキリストの聖霊を与えられることによって、心を変えられ、自分が神様の御前に低い者、小さな者であることを認めることができたのです。そして、イエス・キリストにあって、天の国に入れられ、神様から大いなる者たちとして、重んじられているのです。それゆえ、私たちは、イエス様の名のゆえに、互いを大いなる者として受け入れ合わなければならないのです。キリスト教会の交わりとは何か?それはキリストの名のゆえに、互いを大いなる者として受け入れ合う交わりであるのです(フィリピ2:3参照)。イエス様は5節で、「わたしの名のためにこのような一人の子供を受け入れる者は、わたしを受け入れるのである」と言われましたが、それは小さな者である私たち一人ひとりの内に、聖霊においてイエス・キリストがおられるからです。キリストを信じる私たちは、互いの内にキリストがおられることを信じて、互いをキリストのように受け入れ合うことが求められているのであります。

 続けて、イエス様は、御自分を信じるこれらの小さな者の一人でもつまずかせてはならないことを教えられました。「つまずく」とは、罪へと誘惑すること、さらにはイエス・キリストを信じないようにさせてしまうことであります。私たちは、その具体例として、コリントの信徒への手紙一の8章に記されている、偶像に備えられた肉の問題について学びました。偶像の神などいないという知識をもっている人々は、偶像の神殿の席につき、偶像に備えられていた肉を平気で食べておりました。けれども、今までの偶像になじんできた習慣にとらわれている弱い人たちは、偶像の肉を食べることによって、自分たちがキリストから離れ、再び偶像の支配下に置かれてしまうのではないかと考えていたのです。パウロは、その弱い人々をつまずかせないように知識のある人たちを諭すのです。なぜなら、その弱い人々のためにもキリストは死んでくださったからであります。それゆえ、弱い人たちをつまずかせることは、キリストに対して罪を犯すことであり、自分をもつまずかせてしまうことであるのです。キリストの教会とはどのような交わりか?それは私たち一人ひとりのためにキリストが死んでくださったことを思い起こして、互いの救いのために配慮し合う交わりであるのです。

 ここまではすでに学んだことの復習でありましたが、今朝は10節から14節までを学びたいと願います。

 10節をお読みします。

 「これらの小さな者を一人でも軽んじないように気をつけなさい。言っておくが、彼らの天使たちは天でいつもわたしの天の父の御顔を仰いでいるのである。」

 「これらの小さな者」とは、「イエス様を信じるこれらの小さな者」のことであります。私たちはキリストの聖霊を与えられ、神様の御前に自分は小さな者であることを認めさせていただいた者たちであります。それゆえ、私たちは自分の行いによるのではなく、イエス・キリストへの信仰によって救われるという福音を信じることができたのです。ですから、本来、私たちは全員、小さな者であるはずです。その小さな者たちの集まりにおいて、なぜ、小さな者の一人を軽んじることが起こるのでしょうか?それは、私たち人間には、互いを比較し、順位をつけたがる傾向があるからだと思います。小さな者たちの群れである教会においてであっても、その小さな者たちの中で、互いを比較し、順位をつけたがる傾向があるのです。私たちには、自分を兄弟姉妹よりも大きな者とし、兄弟姉妹を自分よりも小さな者として軽んじてしまう傾向があるのです。その私たちに対して、イエス様は、「わたしを信じる小さな者を一人でも軽んじないように気をつけなさい」と言われるのであります。

 なぜ、イエス様を信じる小さな者を一人でも軽んじてはならないのか?その理由として、イエス様は彼らの天使についてお語りになります。「言っておくが、彼らの天使たちは天でいつもわたしの天の父の御顔を仰いでいるのである」。旧約聖書の中に、神様が天使を遣わして御自分の民を守ってくださるという信仰が記されています。例えば、詩編91編11節には、「主はあなたのために御使いに命じて/あなたの道のどこにおいても守らせてくださる」と記されています。このような信仰は、当時の律法学者たちも共有しておりました。しかし、律法学者たちが教えるところによれば、天使がついているのは義人だけであり、神の御顔を仰ぐことができるのは、その中でも限られた天使だけであったのです。しかし、イエス様は、「わたしを信じる小さな者の一人一人に天使がついており、彼らのための必要を神様に願い出ている」と言うのです。イエス様を信じる私たち一人ひとりにいわゆる守護天使がおり、私たちのために神様にとりなしておられるというのです。言い換えるならば、神様は、イエス様を信じる私たち一人ひとりに御使いをつけてくださり、私たちを御自分との交わりの内に守っておられるということであります。

 私たち改革派教会では、あまり天使について論ずることはありませんけれども、それは、天使にまさるお方として、御子イエス・キリストが天において、私たち一人ひとりのために執り成してくださっているからであります。ヘブライ人への手紙1章に記されているように、私たちには天使にまさるお方として御子イエス・キリストがおられるのです。ですから、私たちは今朝、私たち一人ひとりのために、天においてイエス・キリストがいつも父の御顔を仰いでおられることを覚えたいと思います。そのようにして、互いを軽んじることがないように注意したいと願います。

 12節から14節までをお読みします。

 「あなたがたはどう思うか。ある人が羊を百匹持っていて、その一匹が迷い出たとすれば、九十九匹を山に残しておいて、迷い出た一匹を捜しに行かないだろうか。はっきり言っておくが、もし、それを見つけたら、迷わずにいた九十九匹より、その一匹のことを喜ぶだろう。そのように、これらの小さな者が一人でも滅びることは、あなたがたの天の父の御心ではない。」

 ここでイエス様は、「迷い出た羊」のたとえ話をされております。旧約聖書において、神様が羊飼いに、神の民であるイスラエルが羊の群れにたとえられますが、ここでもイエス様はそのことを念頭において、このたとえを語っておられるのです。これと同じようなたとえ話がルカ福音書の15章にも記されています。マタイ福音書とルカ福音書とでは、様々な点が異なるのですが、一つだけ申し上げるならば、ルカ福音書では、九十九匹が残される場所が「野原」であるのに対して、マタイ福音書では、「山」であるという点であります。マタイ福音書において、「山」はイエス様から教えを受ける場所であり、復活のイエス様と出会う場所であります。ですから、「山」はイエス・キリストを信じる者たちの群れである「教会」を表していると考えられるのです。イエス様は、「迷い出た羊のたとえ」を通して、教会の交わりから、主にある兄弟姉妹の一人が迷い出てしまったら、私たちがどうすべきであるのかを教えられるのです。すなわち、その一人を捜し出すように、全力を尽くすべきであることを教ておられるのです。これは、牧師だけに言われていることではありません。イエス・キリストを信じるすべての者が、教会の交わりから迷い出た一人を見いだすために全力を尽くすべきであるのです。

 イエス様は、「はっきり言っておくが、もし、それを見つけたら、迷わずにいた九十九匹より、その一匹のことを喜ぶだろう」と言われました。このイエス様の御言葉について、ある研究者は、次のように記しています。「なぜなら、失われる危険は、自分に属するものに対する愛を弱めるどころか、かえって呼び起こすからである」。私たちは、自分たちが、日曜日にキリストの教会として集まり、礼拝をささげていることを当然のように考えてしまいます。しかし、当然のように礼拝に来ていた人が来なくなってしまったとき、そのことが当然のことではなかったことに気づかされるのではないでしょうか。そして、私たちの心にその人が再び教会に来て、一緒に礼拝をささげることができるようにとの祈りが生まれるのです。失われてしまうのではないかという危険を前にして、その人に対するキリストの愛が私たちのうちにも呼び起こされるのです。そうであれば、私たちはその一人を、キリストの教会の交わりへと連れ戻すために、あらゆる努力をすべきであるのです。そして、何より、私たちは、「イエス様を信じる小さな者の一人が滅びることは、私たちの天の父の御心ではない」ということを心に刻むべきであるのです。なぜなら、「神は、その独り子をお与えになったほどに、世を愛された。独り子を信じる者が一人も滅びないで、永遠の命を得るためである」からです(ヨハネ3:16)。

 ここで、イエス様は、「わたしの天の父の御心ではない」とは言われませんでした。イエス様は、「あなたがたの天の父の御心ではない」と言われたのです。このことは、私たちが神様を父とし、イエス様を長兄とする神の家族であることを示しています。イエス様を信じる小さな者、それはイエス様にあって兄弟姉妹とされた者たちであるのです。その兄弟姉妹を軽んじてはいけない。もし、教会の交わりから迷い出てしまうことがあるとするならば、全力をもって見つけ出さなければいけない。それが私たちの天の父の御心であるのです。

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