小さい者をつまずかせるな 2015年2月22日(日曜 朝の礼拝)
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小さい者をつまずかせるな
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- 村田寿和 牧師
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マタイによる福音書 18章6節~9節
聖書の言葉
18:6 「しかし、わたしを信じるこれらの小さな者の一人をつまずかせる者は、大きな石臼を首に懸けられて、深い海に沈められる方がましである。
18:7 世は人をつまずかせるから不幸だ。つまずきは避けられない。だが、つまずきをもたらす者は不幸である。
18:8 もし片方の手か足があなたをつまずかせるなら、それを切って捨ててしまいなさい。両手両足がそろったまま永遠の火に投げ込まれるよりは、片手片足になっても命にあずかる方がよい。
18:9 もし片方の目があなたをつまずかせるなら、えぐり出して捨ててしまいなさい。両方の目がそろったまま火の地獄に投げ込まれるよりは、一つの目になっても命にあずかる方がよい。」マタイによる福音書 18章6節~9節
メッセージ
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マタイによる福音書18章には、教会についてのイエス様の教えが記されています。
イエス様は、16章において、「わたしはこの岩の上にわたしの教会を建てる」と言われましたけれども、18章において、教会がどのような交わりであるのかを教えられるのです。教会とは、「召し出された者たちの群れ」でありますが、イエス様によって召し出された者たちがどのような群れを形作るべきであるのかを教えられるのです。
前回、私たちは1節から5節までを学びました。そこで教えられたことは、「自分を低くして、この子供のようになる人が、天の国で一番偉いのだ」ということでありました。「いったいだれが、天の国でいちばん偉いのでしょうか」と問う弟子たちに、イエス様は自分を低くする者こそ、天の国で一番大いなる者であると教えられたのです。このイエス様の教えの背後には、旧約聖書の教え、「神は高慢な者を敵とし、謙遜な者には恵みを与えになる」という教えがあります(箴言3:34、ヤコブ4:6、一ペトロ5:5参照)。天の国とは、神の国でありまして、神様が王として御支配される領域を指します。その天の国において、神様はへりくだる人に恵みをお与えになるのです。イエス様は、神の御子でありながら、私たちと同じ人となってくださり、へりくだって、十字架の死に至るまで従順であられました。それゆえ、神様はイエス様を復活させ、天へとあげられ、すべての名にまさる名をお与えになったのです(フィリピ2:6~11参照)。このように、神様は御自分の御前に完全にへりくだられたイエス様に恵みをお与えになられたのです。イエス様は御自分を低くすることによって、天の国で一番大いなる者とされたのです。そのイエス様を信じて、天の国に入ること、これが私たち人間に求められているへりくだりであります。神様が供えてくださった天の国の道は、私たちが神の掟を一生懸命守ることによってではなく、自分が低い者、小さい者であることを認めて、イエス・キリストを信じることであるのです。イエス・キリストを信じて、教会の一員とされた私たちは、イエス・キリストの信仰を与えてくださった神様の恵みによって天の国に入れられ、神様から大いなる者と見なされています。それゆえ、私たちは、イエス・キリストの名のゆえに、互いに受け入れ合うことが求められているのです。
ここまでは、前回お話したことでありますが、続く今朝の御言葉には、子供のような小さい者をつまずかせないようにとのイエス様の教えが記されています。
6節をお読みします。
「しかし、わたしを信じるこれらの小さな者の一人をつまずかせる者は、大きな石臼を首に懸けられて、深い海に沈められる方がましである。」
「わたしを信じるこれらの小さな者」とは、弟子たちの真ん中に立たせられた文字通りの子供ではなく、子供のように自分を低くして、イエス様を信じた者のことであります。すなわち、私たち一人一人のことがここで言われているのです。イエス様は、御自分の名のために私たちが互いに受け入れるように言われましたが、ここでは、互いをつまずかせないようと言われています。ここで「つまずき」と訳されている言葉は、「罪への誘惑」とも訳すことができます。ですから、「わたしを信じるこれらの小さな者の一人をつまずかせる者」とは、「わたしを信じるこれらの小さな者の一人を罪へと誘う者」のことであるのです。また、罪の最たるものはイエス様を信じないことでありますから、罪へ誘惑するとは、イエス様を信じないようにさせることでもあります(ヨハネ16:9参照)。すなわち、「つまずかせる者」とは「罪へと誘惑する者」であり、さらには「イエス様を信じないようにさせる者」のことであるのです。イエス様を信じている者を罪へと誘惑し、イエス様を信じないようにさせてしまう。そのような者は、「大きな石臼を首に懸けられて、深い海に沈められる方がましである」とイエス様は言われるのです。大きな石臼を首に懸けられて、深い海に沈められたらどうなるでしょうか?死んでしまいますよね。しかし、イエス様は、御自分を信じる小さな者の一人をつまずかせるよりも、大きな石臼を首に懸けられて、深い海に沈められる方がその人にとって益になると言われるのです。これは誇張法でありますね。イエス様は大げさな表現を用いて、御自分の言いたいことを印象づけておられるのです。「わたしを信じる小さな者をつまずかせる者には、大きな石臼を首に懸けられて、深い海に沈められるよりも、もっと厳しい刑罰が待っているぞ。だから、誰も、わたしを信じる小さな者をつまずかせないように注意しなさい」とイエス様は警告されているわけです。
では、小さな者を罪へと誘うつまずき、さらにはイエス様を信じさせないようにさせるつまずきは、どこから来るのでしょうか?それは、私たち教会を取り巻いている世からであるのです。イエス様は7節でこう言われます。
「世は人をつまずかせるから不幸だ。つまずきは避けられない。だが、つまずきをもたらす者は不幸である」。
ここでの「世」は、神様によって造られながら、神様を信じようとしない世のことであります。私たち教会を取り巻いている日本社会は、まさに世であります。イエス様は、つまずきは世から来る。それゆえ、世はわざわいであると言うのです。このイエス様の御言葉は考えてみますと当然のことであります。なぜなら、世とは神様の敵であるサタン、悪魔が力を振るう領域をも意味するからです。イエス様は、十字架の死と復活によって悪魔を滅ぼされましたけれども、まだ、悪魔はほえたける獅子のように、選ばれた者たちを食い尽くそうと捜し回っているのです。悪魔が力を振るう罪の世にあって、つまずきは避けられない。悪魔は、人々を誘惑し、罪を犯させ、さらにはイエス・キリストを信じないようにと、キリストの教会をも誘惑するのです。このように、つまずきは世からもたらされるのでありますが、それは世の教えに染まった者によって、教会にもたらされるわけです。つまずきは避けられないのでありますが、しかしだからと言って、つまずきをもたらす者には罪がないかと言えば、そうではありません。イエス様は、つまずきをもたらす者は不幸であると言われるのです。ですから、私たちは、自分がつまずきをもたらす者となっていないか、自分自身をよく吟味する必要があるのです。そのような自己吟味を促す言葉として、イエス様は8節、9節でこう言われます。
「もし片方の手か足があなたをつまずかせるなら、それを切って捨ててしまいなさい。両手両足がそろったまま永遠の火に投げ込まれるよりは、片手片足になっても命にあずかる方がよい。もし片方の目があなたをつまずかせるなら、えぐり出して捨ててしまいなさい。両方の目がそろったまま火の地獄に投げ込まれるよりは、一つの目になっても命にあずかる方がよい。」
ここでもイエス様は誇張法を用いておられます。イエス様は、私たちが実際に、手や足を切り落としてしまうことや、目をえぐり出して捨ててしまうことを命じておられるわけではありません。イエス様がここで言われたいことは、手や足を捨ててしまうほどの覚悟をもって、また目をえぐり出してしまうほどの覚悟をもって、つまずきを避けることであります。このイエス様の御言葉の背後には、手や足や目といった体の器官に罪の誘惑が宿るという考え方があります(5:27~29参照)。それゆえ、イエス様は、「もし片方の手か足があなたをつまずかせるなら、それを切って捨ててしまいなさい」と、また、「もし片方の目があなたをつまずかせるなら、えぐり出して捨ててしまいなさい」と言われるのです。このイエス様の御言葉を聞いて、話が変わっているのではないかと思われたかも知れません。6節では、イエス様を信じる小さな者の一人をつまずかせることが話題になっていたのに対して、8節、9節では、私たち自身のつまずきが話題となっているからです。「わたしを信じるこれらの小さな者の一人をつまずかせる者」から、「あなたをつまずかせるなら」と話題が変わっているように思えるのです。けれども、そうではありません。なぜなら、小さな者の一人をつまずかせる者は、自分自身をつまずかせる者であるからです。小さな者の一人をつまずかせる者は、実は自分自身をつまずかせてしまうのです。このことを、具体的に教えてくれているのが、コリントの信徒への手紙一の8章に記されている御言葉であります。ここでは少し長いですが、8章1節から13節までをお読みします。新約の309ページです。
偶像に供えられた肉について言えば、「我々は皆、知識をもっている」ということは確かです。ただ、知識は人を高ぶらせるが、愛は造り上げる。自分は何か知っていると思う人がいたら、その人は、知らねばならぬことをまだ知らないのです。しかし、神を愛する人がいれば、その人は神に知られているのです。そこで、偶像に供えられた肉を食べることについてですが、世の中に偶像の神などなく、また、唯一の神以外にいかなる神もいないことを、わたしたちは知っています。現に多くの神々、多くの主がいると思われているように、たとえ天や地に神々と呼ばれるものがいても、わたしたちにとっては、唯一の神、父である神がおられ、万物はこの神から出、わたしたちはこの神へ帰って行くのです。また、唯一の主、イエス・キリストがおられ、万物はこの主によって存在し、わたしたちもこの主によって存在しているのです。
しかし、この知識がだれにでもあるわけではありません。ある人たちは、偶像になじんできた習慣にとらわれて、肉を食べる際に、それが偶像に供えられた肉だということが念頭から去らず、良心が汚されるのです。わたしたちを神のもとに導くのは、食物ではありません。食べないからといって、何かを失うわけではなく、食べたからといって、何かを得るわけではありません。ただ、あなたがたのこの自由な態度が、弱い人々を罪に誘うことにならないように、気をつけなさい。知識を持っているあなたがたが偶像の神殿で食事の席に着いているのを、だれかが見ると、その人は弱いのに、その良心が強められて、偶像に供えられたものを食べるようにならないだろうか。そうすると、あなたの知識によって、弱い人が滅びてしまいます。その兄弟のためにもキリストが死んでくださったのです。このようにあなたがた、兄弟たちに対して罪を犯し、彼らの弱い良心を傷つけるのは、キリストに対して罪を犯すことになるのです。それだから、食物のことがわたしの兄弟をつまずかせるくらいなら、兄弟をつまずかせないために、わたしは今後決して肉を口にしません。
ここでパウロは、コリントの教会から送られてきた質問状について答える仕方で、偶像に供えられた肉について記しています。偶像に供えられた肉について、コリントの教会の中で議論があったのです。知識を持っている人たちは、偶像の神などいないのだから、気にせずに食べたらよいと考えておりました。そして、実際、彼らは偶像の神殿で食事の席についていたようです。しかし、今までの偶像になじんできた習慣にとらわれている弱い人たちは、偶像に供えられた肉を食べると、再び偶像との交わりを持つことになるのではないかと考えていたのです。そのような弱い人たちにとって、偶像に供えられた肉を食べることは、イエス・キリストから離れて、偶像の支配下に置かれてしまうことであったのです。それゆえ、パウロは、9節で、「ただ、あなたがたのこの自由な態度が、弱い人々を罪に誘うことにならないように、気をつけなさい」と記しているのです。この「弱い人々」を「小さな人々」と置き換えるならば、ここでパウロが記していることが、今朝のイエス様の教えの具体的な適用であることが分かります。偶像になじんできた習慣にとらわれている弱い人々のことを忘れて、偶像に供えられた肉を食べるならば、そのことが、弱い人々にとっては罪への誘惑となるのです。さらには、イエス・キリストを信じないようにさせてしまうのです。ここで、罪の誘惑にさらされているのは、弱い人々であります。しかし、12節を読みますと、罪を犯すことになるのは、知識を持っているあなたがたであるのです。「このようにあなたがたが、兄弟たちに対して罪を犯し、彼らの弱い良心を傷つけるのは、キリストに対して罪を犯すことなのです」。ここでも話題が、弱い人々の罪から知識を持っている人々の罪へと移っております。パウロは、弱い人々がつまずくならば、その弱い人々をつまずかせたあなたがたもつまずくことになる、キリストに対して罪を犯すことになると言うのです。なぜ、パウロはそのように記したのか?その理由が11節に記されています。「そうなると、あなたの知識によって、弱い人が滅びてしまいます。その兄弟のためにもキリストが死んでくださったのです」。弱い人をつまずかせることがキリストに対して罪を犯すことになるのは、その弱い兄弟たちのためにもキリストが死んでくださったからであるのです。イエス・キリストが命を捨てて救ってくださった兄弟姉妹をつまずかせることは、イエス・キリストに対して罪を犯すことであり、自らに滅びを招くことであるのです。
では、今朝の御言葉に戻ります。新約の34ページです。
今朝の御言葉において、イエス様は、御自分を信じる小さな者の一人をつまずかせることが、どれほど大きな刑罰に値するかを誇張法によって教えられました。また、その刑罰を避けるために私たちがなすべきことを誇張法によって教えられました。しかし、わたしは思うのです。もし、私たちが小さな者の一人のために、イエス様が命を捨ててくださったことを忘れるならば、すべては空しいのではないかと。私たち一人一人に注がれているイエス様の愛を忘れるならば、私たちは小さな者をつまずかせ、さらには自分自身をもつまずかせる危険があるのです。ですから、今朝の御言葉の一番のポイントは、6節の「わたしを信じる」というイエス様の御言葉にあるのではないかと思います。私たちは小さな者たちでありますが、しかし、イエス様を信じる小さな者たちであります。それは、イエス様から愛されている小さな者たちであるということなのです。このことを互いに確認して、キリストの愛を土台とする教会としての交わりを形作っていきたいと願います。