香油を注がれたイエス 2015年11月08日(日曜 朝の礼拝)
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香油を注がれたイエス
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- 村田寿和 牧師
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マタイによる福音書 26章1節~13節
聖書の言葉
26:1 イエスはこれらの言葉をすべて語り終えると、弟子たちに言われた。
26:2 「あなたがたも知っているとおり、二日後は過越祭である。人の子は、十字架につけられるために引き渡される。」
26:3 そのころ、祭司長たちや民の長老たちは、カイアファという大祭司の屋敷に集まり、
26:4 計略を用いてイエスを捕らえ、殺そうと相談した。
26:5 しかし彼らは、「民衆の中に騒ぎが起こるといけないから、祭りの間はやめておこう」と言っていた。
26:6 さて、イエスがベタニアで重い皮膚病の人シモンの家におられたとき、
26:7 一人の女が、極めて高価な香油の入った石膏の壺を持って近寄り、食事の席に着いておられるイエスの頭に香油を注ぎかけた。
26:8 弟子たちはこれを見て、憤慨して言った。「なぜ、こんな無駄遣いをするのか。
26:9 高く売って、貧しい人々に施すことができたのに。」
26:10 イエスはこれを知って言われた。「なぜ、この人を困らせるのか。わたしに良いことをしてくれたのだ。
26:11 貧しい人々はいつもあなたがたと一緒にいるが、わたしはいつも一緒にいるわけではない。
26:12 この人はわたしの体に香油を注いで、わたしを葬る準備をしてくれた。
26:13 はっきり言っておく。世界中どこでも、この福音が宣べ伝えられる所では、この人のしたことも記念として語り伝えられるだろう。」マタイによる福音書 26章1節~13節
メッセージ
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今朝は、マタイによる福音書26章1節から13節より御言葉の恵みにあずかりたいと願います。
1節に、「イエスはこれらの言葉をすべて語り終えると、弟子たちに言われた」とありますように、今朝の御言葉から新しい区分に入ります。24章、25章に記されていた世の終わりについての教えを終えて、物語へと移ります。その物語とは十字架の死と復活の物語であり、マタイによる福音書のいわばクライマックスであります。マタイは、十字架の死と復活の物語を、イエス様の御言葉から書き始めます。「あなたがたも知っているとおり、二日後は過越祭である。人の子は、十字架に付けられるために引き渡される」。イエス様はこれまでにも三度、御自分の苦難の死について予告してこられました。20章17節から20節には次のように記されておりました。「イエスはエルサレムへ上って行く途中、十二人の弟子だけを呼び寄せて言われた。『今、わたしたちはエルサレムへ上って行く。人の子は、祭司長たちや律法学者たちに引き渡される。彼らは死刑を宣告して、異邦人に引き渡す。人の子を侮辱し、鞭打ち、十字架につけるためである。そして、人の子は三日目に復活する』」。このように、イエス様は御自分が十字架につけられるために引き渡されることを予告していたわけですが、今朝の御言葉では、そのことが「過越祭」と結び付けられて言われております。イエス様が十字架につけられるのは過越祭においてであるのです(出エジプト12章参照)。イエス様が他の日ではなく、過越祭に十字架に引き渡されるのは、過越祭においてほふられる小羊がイエス様の贖いを指し示すものであるからです。イエス様は、世の罪を取り除く神の小羊として、過越祭のときに、十字架のうえでほふられるのです。
イエス様が弟子たちに、御自分が十字架につけられるために引き渡されると言われていたころ、祭司長たちや民の長老たちは、カイアファという大祭司の屋敷に集まり、計略を用いてイエス様を捕らえ、殺そうと相談しておりました。「祭司長たちや民の長老たち」は、21章23節以下で、イエス様に、「何の権威でこのようなことをしているのか。だれがその権威を与えたのか」と問うた者たちであります。彼らは、ユダヤの最高法院の議員でありまして、イエス様の言葉じりをとらえて罠にかけようとしたのですが、逆にイエス様から言い込められてしまったことが、21章、22章に記されておりました。その彼らが、最高法院の議長である大祭司カイアファの屋敷に集まって、イエス様をだまして捕らえ、殺そうと相談していたのです。しかし、彼らは、「民衆の中に騒ぎが起こるといけないから、祭りの間はやめておこう」と言っていたのです。イエス様は、「二日後の過越祭に、人の子は十字架につけるために引き渡される」と予告しておりましたが、そのイエス様を十字架へと引き渡す祭司長たちや民の長老たちは、民衆の中に騒ぎが起こることを恐れて、「祭りの間はやめておこう」と言っていたのです。では、なぜ、イエス様が祭りの間に、十字架につけられることになるのでしょうか?それは、14節以下に記されておりますように、十二人の一人であるイスカリオテのユダが、祭司長たちにイエス様を引き渡すことをもちかけるからです。そのようにして、イエス様は、二日後の過越祭に十字架につけられるために引き渡されることになるのです。
祭司長たちや民の長老たちが計略を用いてイエス様を捕らえ殺そうと相談したことと、イスカリオテのユダがイエス様を引き渡そうと企てたことに挟まれるようにして、イエス様がベタニアで女から香油を注がれたお話が記されています。そのことを踏まえて、6節以下を見ていきたいと思います。イエス様は、エルサレムの郊外にあるベタニアに宿を取っておりましたが、この日は、重い皮膚病の人シモンの家におられたと記されています。「重い皮膚病」については、レビ記の13章に記されておりますが、宗教的な汚れと見なされておりました。重い皮膚病を患っている人はイスラエル共同体から追放され、客を迎えることなどできませんでした。ですから、「重い皮膚病の人シモン」は、このとき既にイエス様から癒していただいていたと思います。8章1節以下に、イエス様が重い皮膚病を患っていた人を清くされたお話が記されておりました。イエス様は、重い皮膚病の人に手を差し伸べて触れられ、「わたしの心だ。清くなれ」と言われて、重い皮膚病を清められたのです。そのイエス様の力ある御業によって、重い皮膚病の人シモンも清められたと考えられるのです。ともかく、イエス様が重い皮膚病であったシモンの家に宿を取っておられたことは、イエス様がイスラエルの周辺に追いやられていた人々に深い関心を持っておられたことを示しているのです。
7節に、「一人の女が、極めて高価な香油の入った石膏の壺を持って近寄り、食事の席についておられるイエスの頭に香油を注ぎかけた」と記されています。私たちは、「食事の席についておられる」と聞くと、椅子に座って、テーブルを囲んでいるイエス様のお姿を想像するかも知れませんが、当時は、床に寝そべって、肩肘をついて上半身を起こして食べるのが正式な食事のスタイルでした。そのようなスタイルで食事をしておられるイエス様の頭に、一人の女が高価な香油を注ぎかけたのです。なぜ、この女はこのようなことをしたのでしょうか?当時、客をもてなす行為として、客の頭に油を塗ることが行われていました(ルカ7:46参照)。そのことが、この女の行為の背景にあったのかも知れません。ともかく、高価な香油をイエス様の頭に注ぎかけるという行為は、彼女の大切なものをイエス様のために惜しげも無く用いるといった愛の行為であります。香油は、今で言えば香水のようなものでありますから、少しずつ用いるものでありますが、この女は、イエス様の頭に、それを惜しげも無く注いだのです。これを見て、弟子たちは憤慨してこう言いました。「なぜ、こんな無駄遣いをするのか。高く売って、貧しい人々に施すことができたのに」。極めて高価な香油は、女の持ち物なのですから、自由にしてよいはずですが、弟子たちは、「無駄遣いだ」と女を責めるのです。それを知ってイエス様はこう言われます。「なぜ、この人を困らせるのか。わたしに良いことをしてくれたのだ。貧しい人々はいつもあなたがたと一緒にいるが、わたしはいつも一緒にいるわけではない。この人はわたしの体に香油を注いで、わたしを葬る準備をしてくれた。はっきり言っておく。世界中どこでも、この福音が宣べ伝えられる所では、この人のしたことも記念として語り伝えられるだろう」。誤解のないように申しますが、イエス様は貧しい人々に施すことを軽んじておられるわけではありません。イエス様は、「貧しい人々はいつもあなたがたと一緒にいる」と言われていますが、この御言葉は申命記の15章11節を背景にしています。申命記15章11節にはこう記されています。「この国から貧しい者がいなくなることはないであろう。それゆえ、わたしはあなたに命じる。この国に住む同胞のうち、生活に苦しむ貧しい者に手を大きく開きなさい」。この神の掟を前提にしつつ、イエス様は、「貧しい人はいつもあなたがたと一緒にいるが、わたしはいつも一緒にいるわけではない」と言われたのです。そのように、御自分に対する女の行為を「良いこと」として受け入れてくださるのです。女がした良いこと、それはイエス様の体に香油を注いで、イエス様を葬る準備をしてくれたことでありました。「この人はわたしの体に香油を注いで、わたしを葬る準備をしてくれた」とイエス様は言われるのです。この御言葉を聞いて、女は驚いたと思います。女は、客人を歓迎する当時の慣習に従って、自分ができるかぎりのことをイエス様にしただけです。彼女はイエス様への愛から自分ができる最大限のことをしたのです。しかし、イエス様はそれを御自分の葬りの準備だと言われるのです。そのような良いことを女はしてくれたのだと言うのです。ある研究者(D・R・A・ヘア)によりますと、律法学者たちは「良いことは二つある」と教えておりました。一つは貧しい人への施しであります。そしてもう一つは死者の葬りであるのです。そして、二つ目の方が、より良いことであると教えていたのです(トビト1:16参照)。そうであれば、この女は本当に良いことをしたわけです。この女は期せずして、イエス様の葬りの準備をしたのです。いや、神様がこの女の愛の行為を用いて、イエス様の葬りの準備をしてくださったのです。ですから、イエス様は、「はっきり言っておく。世界中どこでも、この福音が宣べ伝えられる所では、この人のしたことも記念として語り伝えられるであろう」と言われるのです。「福音」とは「良き知らせ」でありますが、その中心は、イエス様の十字架の死と復活であります。イエス様が、私たちの罪のために十字架の死を死んでくださり、私たちを正しい者とするために栄光の体で復活なされた。よって、イエス・キリストを信じる者はすべての罪が赦され、正しい者とされ、イエス・キリストと同じように復活させられる。これがイエス・キリストの福音であります。そのイエス様を葬る準備を、神様は女の愛の業を用いてしてくださったのです。
少し戻りますが、弟子たちは、女の行為を見て、「なぜ、こんな無駄遣いをするのか。高く売って、貧しい人々に施すことができたのに」と言いました。なぜ、弟子たちはこのようなことを言ったのでしょうか?それは、彼らがイエス様はいつも自分たちと一緒におられると考えていたからです。しかし、この女にとって、イエス様とお会いできるのは、これが最初で最後でありました。少なくとも、女はそのように考えて、自分が持っている高価な香油を惜しげも無くイエス様の頭に注ぎかけたのです。そして、イエス様はこの女の愛の行為を良いこととして、御自分の葬りの準備として受け入れてくださったのです。私たちはどうでしょうか?イエス様がいつも一緒にいてくださると考えているでしょうか?それとも、イエス様とお会いするのはこれが最後であるかも知れないと考えるでしょうか?私はどちらも大切ではないかと思います。復活されたイエス様は「わたしは世の終わりまで、いつもあなたがたと共にいる」と言われましたように、御言葉と聖霊においていつも共にいてくださいます。しかし、二度と同じ礼拝はないように、イエス様との交わりは一生に一度限りであるという面があるのです。復活され、今、天におられるイエス様は御言葉と聖霊において、いつも私たちと共にいてくださいます。しかし、御言葉と聖霊において成り立つ礼拝は、繰り返すことのできない、一生に一度限りのものであるのです。そのことを覚えて、私たちもできる限りの愛をもってイエス様に仕えていきたいと願います。