風と海を従わせるイエス 2013年12月29日(日曜 朝の礼拝)
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風と海を従わせるイエス
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- 村田寿和 牧師
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マタイによる福音書 8章23節~27節
聖書の言葉
8:23 イエスが舟に乗り込まれると、弟子たちも従った。
8:24 そのとき、湖に激しい嵐が起こり、舟は波にのまれそうになった。イエスは眠っておられた。
8:25 弟子たちは近寄って起こし、「主よ、助けてください。おぼれそうです」と言った。
8:26 イエスは言われた。「なぜ怖がるのか。信仰の薄い者たちよ。」そして、起き上がって風と湖とをお叱りになると、すっかり凪になった。
8:27 人々は驚いて、「いったい、この方はどういう方なのだろう。風や湖さえも従うではないか」と言った。マタイによる福音書 8章23節~27節
メッセージ
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今朝は、2013年最後の主の日の礼拝であります。教会の頭である主イエス・キリストは、今年も私たち教会の歩みを守り導いてくださいました。私たちはこの一年間、途切れることなく主の日に礼拝をささげ、イエス・キリストの復活を証しすることができました。これは、ひとえに主の守りと導きによることであります。このことを覚えまして、主に心からの感謝をささげたいと願います。私たちは、主の日の礼拝において、マタイによる福音書を続けて学んでおりますが、今朝は8章23節から27節より、御言葉の恵みにあずかりたいと願います。
23節をお読みします。
イエスが舟に乗り込まれると、弟子たちも従った。
この23節は、以前学んだ18節の続きであります。18節にこう記されておりました。「イエスは、自分を取り囲んでいる群衆を見て、弟子たちに向こう岸に行くように命じられた」。福音書記者マタイは、18節と23節との間に、ある律法学者とイエスさまとの対話、また弟子の一人とイエスさまとの対話を記しました。以前にも指摘したことですが、19節から22節までの鍵語、キーワードは「従う」ということであります。ある律法学者は、イエスさまに近づいて、「先生、あなたがおいでになる所なら、どこへでも従って参ります」と言いました。また、イエスさまは、弟子の一人に、「わたしに従いなさい。死んでいる者たちに、自分たちの死者を葬らせなさい」と言われました。弟子とは、一言で言えば、イエスさまに従う者であるのです。ですから、今朝の23節は、「イエスが舟に乗り込まれると、弟子たちも従った」と記されているのです。イエスさまは、主として、主導権を持って、舟に乗り込まれました。そして、弟子たちは、そのイエスさまに従って舟に乗り込んだのであります。
24節をお読みします。
そのとき、湖に激しい嵐が起こり、舟は波にのまれそうになった。イエスは眠っておられた。
「そのとき」ありますが、口語訳聖書は「すると突然」と翻訳しています。イエスさまと弟子たちが舟で湖を渡っておられると、突然、湖に激しい嵐が起こり、舟は波にのまれそうになったのです。ここで「湖」と訳されている言葉は、「海」とも翻訳できますが、具体的に言えば、ガリラヤ湖のことであります。ガリラヤ湖は、南北に20キロメートル、東西に最大12キロメートルほどの湖であり、普段は穏やかな湖でありましたが、時として深い谷から吹き下ろす強風のため天候が急変することがありました。このときも、おそらくそうであったのでしょう。と言いますのも、マルコによる福音書の並行箇所を見ますと、「激しい突風が起こり、舟は波をかぶって、水浸しになるほどであった」と記されているからです(マルコ4:37)。福音書記者マタイは、マルコによる福音書を一つの資料として用いたと考えられておりますが、しかし、マタイは、「激しい突風が起こり」とは記しませんでした。新共同訳聖書は、「湖に激しい嵐が起こり」と記していますが、元の言葉を直訳すると、「海で大きな揺れ動きが起こった」と記されているのです。そして、それは波にのまれそうなほどの大きな揺れ動きであったのです。しかし、そのような中にあって、イエスさまは眠っておられました。20節で、「狐には穴があり、空の鳥には巣がある。だが、人の子には枕する所もない」と言われたイエスさまが、激しく揺れ動き、波にのまれそうな舟の中で眠っていたのです。私たちは、ここからイエスさまがお疲れになっていたことを知ることができます。16節に、「夕方になると、人々は悪霊に取りつかれた者を大勢連れて来た。イエスは言葉で悪霊を追い出し、病人を皆いやされた」とありますけれども、このイエスさまの癒しの御業は、夜遅くまで続いたのでありましょう。それゆえ、イエスさまは舟の中で眠っておられたのです。しかし、イエスさまが激しく揺れ動く、波にのまれそうな舟の中で眠っていたことは、それ以上のことを私たちに教えています。イエスさまは父なる神さまにすべてをゆだねて、平安のうちに、身を横たえていたのです。しかし、そのイエスさまの眠りを妨げる者たちがおりました。それが弟子たちであります。
25節をお読みします。
弟子たちは近寄って起こし、「主よ、助けてください。おぼれそうです」と言った。
ここでの「弟子たち」の中には、ガリラヤ湖で漁師をしていたペトロとアンデレ、ヨハネとヤコブの四人が含まれていたはずです。ですから、最初、彼らは自分たちで何とかしようとしたと思います。彼らは漁師である自分たちの出番であると考えたかも知れません。しかし、このときは、漁師である彼らにもどうしようもないほどの大きな嵐であったのです。それで、弟子たちはイエスさまに近寄って起こし、「主よ、助けてください。おぼれそうです」と言ったのです。ここで「助けてください」と訳されている言葉は、「救ってください」とも訳すことができます。また、「おぼれそうです」と訳されている言葉は「滅びてしまいそうです」とも訳すことができるのです。ですから、弟子たちは、イエスさまに近づいて、「主よ、救ってください。私たちは滅びてしまいそうです」と言ったのであります。この弟子たちにイエスさまはこう言われました。26節をお読みします。
イエスは言われた。「なぜ怖がるのか。信仰の薄い者たちよ。」そして、起き上がって風と湖とをお叱りになると、すっかり凪になった。
イエスさまは、「私たちは滅びてしまいそうです」と怖がる弟子たちに、「なぜ怖がるのか。信仰の薄い者たちよ」と言われました。そして、起き上がって、弟子たちが恐れる風と海とをお叱りなり、すっかり凪にされたのです。イエスさまは、「なぜ怖がるのか。信仰の薄い者たちよ」と言われましたが、この言葉の内に答えが含まれています。弟子たちはなぜ怖がったのか?それは彼らの信仰が薄かったからです。ここで、イエスさまは、弟子たちの信仰が無いとは言われていません。イエスさまに従う弟子たちには信仰があるのです。しかし、問題は、その信仰が薄いということであります。彼らは舟が大きく揺れ動く激しい嵐の中、舟が波にのまれそうな中にあって、イエスさまを「主よ」と呼び、「助けてください」と願いました。私たちは、ここに弟子たちの信仰を見ることができます。もし、信仰が無かったら、イエスさまに助けを求めなかったはずであります。しかし、彼らはイエスさまに近づいて起こし、「主よ、助けてください」と願ったのです。しかし、その弟子たちの心には、「私たちは滅びてしまいます」という恐れがあったわけです。弟子たちは、イエスさまが共におられるから安心だとは考えませんでした。少なくとも、眠っておられるイエスさまでは安心できないと彼らは考えたのです。先程、私は、イエスさまが激しく揺れ動く舟の中でも眠ることができたのは、父なる神さまにすべてをゆだねて平安であったからだと申しましたが、弟子たちの言葉によって起こされたときも、イエスさまは落ち着いておられます。怖がる弟子たちに、「なぜ怖がるのか」と言われるほどに、イエスさまは冷静であられるのです。それは、イエスさまが風と海とを従わせることのできるお方であるからです。27節に、「人々は驚いて、『いったい、この方はどういう方なのだろう。風や湖さえも従うではないか』と言った」とありますように、イエスさまは風や海さえも従わせられるお方であるのです。イエスさまに従った弟子たちは、イエスさまが風や海さえも従わせるお方であることを目撃したわけです。人々は驚いて、「いったい、この方はどういう方なのだろう」と言っておりますが、旧約聖書に照らし合わせれば、その答えは明らかであります。なぜなら、旧約聖書において、風や海を従わせることのできるお方は、神さまだけであるからです。詩編の89編9節、10節に次のように記されています。旧約の926ページです。
万軍の神、主よ/誰があなたのような威力を持つでしょう。主よ、あなたの真実は/あなたを取り囲んでいます。あなたは誇り高い海を支配し/波が高く起これば、それを静められます。
神さまは、海を支配し、高波を静められるお方であります。その神さまの御子として、イエスさまは、風と波をお叱りになり、海をまったく穏やかにされたのです。イエスさまは、風や海をも従わせることのできるお方、すなわち、神の御子であられるのです。イエスさまが嵐を静められるという今朝の御言葉は、私たちにそのことを教えているのであります。
では今朝の御言葉に戻ります。新約の14ページです。
今朝の「嵐を静める」というお話は、イエスさまが、風と海を従わせる神の御子であることを教えておりますが、実はそれだけに留まるものではありません。マタイは、今朝の御言葉を、私たち教会の物語として読むことができるように描いているのです。24節の「湖に激しい嵐が起こり」という言葉は、元の言葉を直訳すると「海で大きな揺れ動きが起こった」となると申しましたが、ここで「嵐」は他の所では「地震」と訳されています。イエスさまは24章で、「終末のしるし」として、「民は民に、国は国に敵対して立ち上がり、方々で飢饉や地震が起こる」と言われましたが、「地震」と訳されている言葉が今朝の御言葉では「嵐」と訳されているのです。つまり、マタイは、今朝の御言葉で、終末的な破局に遭遇している教会の姿を描いているのです。また、弟子たちはイエスさまに近寄って起こし、「主よ、助けてください」と言いましたが、これはマタイによる福音書が記された時代の教会で用いられていた典礼的な祈りの言葉であります。つまり、イエスさまが乗り込まれ、そのイエスさまに従って乗り込んだ舟こそ、教会であるのです。そのように、今朝の御言葉は、私たちの物語として読めるし、また読むべきであるのです。私たちがここから教えられること、それはイエスさまに従う歩みは、必ずしも平穏無事な歩みを保証するものではないということです。そもそも弟子たちは、イエスさまに従わなければ、このような危険に身をさらすことはなかったのです。彼らはイエスさまに従ったからこそ、滅びを意識する困難な状況に置かれてしまったのです。そして、このことは、イエスさまに従う私たちにおいても言えることであるのです。テモテへの手紙二の3章12節に、「キリスト・イエスに結ばれて信心深く生きようとする人は皆、迫害を受けます」とありますように、イエスさまに従うゆえに困難な状況に置かれてしまうということがあるのです。しかし、そこで、私たちが忘れてはならないことは、イエスさまが私たちと共におられるということです。舟が波にのまれそうになっていたとき、イエスさまは眠っておられました。それで、弟子たちは近寄って起こし「主よ、助けてください。おぼれそうです」と言ったのです。この弟子たちの姿は、私たちの姿そのものであります。イエスさまは今、父なる神の右に座しておられますけれども、聖霊において、私たちと共にいてくださいます(28:20参照)。イエスさまは、御自分の名によって二人、または三人が集まるところに、共にいてくださるのです(18:20参照)。イエスさまは、もはや、まどろむことも眠ることもないお方として私たちと共にいてくださるのです。それゆえ、私たちはこの方に「近寄る」ことができるのです。「近寄る」とは、「礼拝する」ということであります。目には見えませんが、共にいてくださるイエスさまを礼拝して、「主よ、助けてください」と祈ることができるのです。その私たちにイエスさまは、「なぜ怖がるのか。信仰の薄い者たちよ」と言われるのです。このイエスさまの御言葉は、弟子たちを、また私たちを叱る言葉ではありません。イエスさまは弟子たちを叱らずに、弟子たちを怖がらせている風と海を叱られたのです。そのようにして、弟子たちを助けてくださった、救ってくださったのです。
ある人の説教を読んでおりましたら、このとき、弟子たちはどうすればよかったのだろうか?イエスさまを近寄って起こさないで、だまっていればよかったのだろうか?と問うて、議論を進めておられました。もちろん、そうではないことは明らかだと思います。もし、弟子たちが、イエスさまに近寄って起こし、助けを求めなかったならば、彼らは信仰が薄いどころか、信仰が無かったことになります。ですから、イエスさまの弟子たちへの言葉、「なぜ怖がるのか。信仰の薄い者たちよ」という言葉は、弟子たちを叱る言葉でも非難する言葉でもないのです。開き直るわけではありませんが、私たちの信仰は薄いのです。舟が波にのまれそうになっても、眠っておられるイエスさまとは違うのです。しかし、そのような私たちを、イエスさまは優しく諭し、受け入れてくださいます。私たちが滅びてしまわないように、風と海を叱りつけ、静められるのです。
私たちの教会にも様々な困難がありますし、教会に連なる一つ一つの家庭にも、また一人一人にも様々な困難があると思います。あるいは、これから予想もできなかった困難の中に置かれるかも知れません。しかし、そのようなとき、私たちはどうすればよいのでしょうか?その答えが今朝の御言葉に示されているのではないかと思います。私たちにできること、それは主イエスを礼拝し、「主よ、助けてください」と祈り願うことであります。そのとき、主は私たちを喜んで助けてくださるのです。信仰の薄い私たちを、全能の神の御子として救ってくださるのであります。そのことを信じて、私たちはこれからもイエスさまに従ってゆきたいと願います。