病を担うイエス
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- 説教
- 村田寿和 牧師
- 聖書 マタイによる福音書 8章14節~17節
8:14 イエスはペトロの家に行き、そのしゅうとめが熱を出して寝込んでいるのを御覧になった。
8:15 イエスがその手に触れられると、熱は去り、しゅうとめは起き上がってイエスをもてなした。
8:16 夕方になると、人々は悪霊に取りつかれた者を大勢連れて来た。イエスは言葉で悪霊を追い出し、病人を皆いやされた。
8:17 それは、預言者イザヤを通して言われていたことが実現するためであった。「彼はわたしたちの患いを負い、/わたしたちの病を担った。」マタイによる福音書 8章14節~17節
福音書記者マタイは、イエスさまの活動について、4章23節で次のように記しておりました。「イエスはガリラヤ中を回って、諸会堂で教え、御国の福音を宣べ伝え、また民衆のありとあらゆる病気や患いを癒された」。マタイは、このようにイエスさまの活動を要約的に記した後で、5章から7章にわたって、イエスさまが宣べ伝えた御国の福音を詳しく記し、8章から9章にわたって、イエスさまのなされた癒しの業を詳しく記しています。マタイは、イエスさまがなされた癒しの業を、8章と9章にまとめて記しているのです。そのことを確認したうえで、今朝は8章14節から17節までをご一緒に学びたいと思います。
14節をお読みします。
イエスはペトロの家に行き、そのしゅうとめが熱を出して寝込んでいるのをご覧になった。
イエスさまは、カファルナウムにあるペトロの家へ行きました。おそらく、イエスさまは、カファルナウムに住んでいる間、ペトロの家を宿としていたのではないかと思います。そこでイエスさまは、ペトロのしゅうとめが熱を出して寝込んでいるのをご覧になりました。「しゅうとめ」とありますから、ペトロの妻の母親であります。ペトロが30歳ぐらいだとしたら、50歳ぐらいであったと思います。そのしゅうとめが熱を出して寝込んでいるのをイエスさまは見たのです。
15節をお読みします。
イエスがその手に触れられると、熱は去り、しゅうとめは起き上がってイエスをもてなした。
イエスさまは、しゅうとめが熱を出して寝込んでいるのを見て、彼女の手に触れ、しゅうとめを癒されました。私たちはこれまで、イエスさまが重い皮膚病を患っている人を清くされたこと、異邦人である百人隊長のしもべを癒されたことを学びました。今朝の御言葉で、イエスさまはペトロのしゅうとめ、女性を癒されるわけですが、重い皮膚病を患っている人、異邦人、女性、この三者はいずれも神さまとの交わりから遠ざけられていた者たちでありました。イスラエルの民に属していても、女性は男性に比べて神さまから遠ざけられていたのです(エルサレム神殿の婦人の庭とイスラエルの庭(男子の庭)の区別を参照)。しかし、イエスさまはその女性であるペトロのしゅうとめが熱を出して寝込んでいるのを見て、一方的に、彼女の手に触れ、癒されたのです。このことは、何を意味しているのでしょうか?それは、神の民イスラエルにおいて、男も女も等しく神さまの救いにあずかることができるということであります。イエスさまは、重い皮膚病を患っている人を清くすることによって、汚れとされる病はもはや存在しないことを示されました。また、異邦人である百人隊長のしもべを癒すことにより、天の国でアブラハムと共に宴会の席に着くのは、血縁によるアブラハムの子孫ではなく、信仰によるアブラハムの子孫であることを示されました。さらに、イエスさまは女性であるペトロのしゅうとめを一方的に癒されることにより、イスラエルの民において、男も女も等しく神さまの救いにあずかることができることを示されたのです。
イエスさまに癒していただいたペトロのしゅうとめは、イエスさまをもてなしました。ここで「もてなした」と訳されている言葉は、「仕えた」とも訳すことができます。イエスさまの救いにあずかった彼女は、イエスさまに仕える者となったのです。私たちはここからも、男性と女性という性別を超えて、イエスさまに仕えることができるのだということを教えられるのです。イエス・キリストにあって、男も女もないことは、使徒パウロが、ガラテヤの信徒への手紙3章26節から29節で記していることでもあります。新約の346ページです。
あなたがたは皆、信仰により、キリスト・イエスに結ばれて神の子なのです。洗礼を受けてキリストに結ばれたあなたがたは皆、キリストを着ているからです。そこではもはや、ユダヤ人もギリシア人もなく、奴隷も自由な身分の者もなく、男も女もありません。あなたがたは皆、キリスト・イエスにおいて一つだからです。あなたがたは、もしキリストのものだとするなら、とりもなおさず、アブラハムの子孫であり、約束による相続人です。
キリストにあって、男も女も等しく救いにあずかることができる。キリストにあって男も女も等しく神さまにお仕えすることができる。そのことを端的に表しているのが、契約の民としてのしるしが、割礼から洗礼に代わったということです。割礼は包皮の一部を切り取る儀式ですから、男しか受けることができません。しかし、洗礼は男も女も受けることができるのです。それゆえ、洗礼を受けてキリストに結ばれている教会の交わりにおいて、男も女も等しく神さまを礼拝し、神さまの祝福にあずかることができるのです。では今朝の御言葉に戻ります。新約の13ページです。
16節をお読みします。
夕方になると、人々は悪霊に取りつかれた者を大勢連れて来た。イエスは言葉で悪霊を追い出し、病人を皆いやされた。
夕方になると、人々は悪霊に取りつかれた大勢の者を、イエスさまのいるペトロの家に連れて来ました。マルコによる福音書の並行箇所を見ますと、イエスさまがペトロの家に行ったのは、安息日であったと記されています。それで人々は、安息日が終わる夕方になると、悪霊に取りつかれている者や病人をイエスさまのおられるペトロの家に連れて来たのです。当時は、今のような礼拝堂はなく、家に集まって礼拝をささげておりました。ですから、ここでペトロの家は教会となっていると言えます。ペトロの家におられるイエスさまのもとに、人々は悪霊に取りつかれた人、いろいろな病気に苦しむ人を連れて来ました。そして、イエスさまは言葉で悪霊を追い出し、すべての病人を癒されたのです。私たちはここに、教会に集い、イエスさまを礼拝する私たち自身の姿を見いだすことができるのではないでしょうか?もちろん、私たちは当時の人々のように、イエスさまを目で見ることができるわけではありません。しかし、イエスさまは、「二人または三人がわたしの名によって集まるところには、わたしもその中にいるのである」と言われました(18:20)。ですから、目で見ることができなくても、イエスさまは御言葉と聖霊において私たちと出会ってくださるのです。また、私たちはイエスさまを信じたからといって、病が即座に癒されるわけでもありません。私たちはそれぞれ病を負っていますし、またこれから病を負うかも知れません。しかし、私たちは、イエスさまにあって悪霊から解放され、すべての病が癒されることを信じているのです。なぜなら、イエスさまこそ、私たちの患いを負い、私たちの病を担ったお方であるからです。
17節をお読みします。
それは、預言者イザヤを通して言われていたことが実現するためであった。「彼はわたしたちの患いを負い、わたしたちの病を担った。」
福音書記者マタイは、イエスさまが言葉で悪霊を追い出し、すべての病人を癒されたことに、イザヤの預言の成就を見て取っています。イザヤの預言の成就として、イエスさまの癒しの業を見るようにと、マタイは私たちを招いているのです。「彼はわたしたちの患いを負い、わたしたちの病を担った」。これはイザヤ書53章4節の引用であります。イザヤ書53章は、「主の僕の苦難と死」について記していますが、今朝はその1節から5節までをお読みします。旧約の1149ページです。
わたしたちの聞いたことを、誰が信じえようか。主は御腕の力を誰に示されたことがあろうか。乾いた地に埋もれた根から生え出た若枝のように/この人は主の前に育った。見るべき面影はなく/輝かしい風格も、好ましい容姿もない。彼は軽蔑され、人々に見捨てられ/多くの痛みを負い、病を知っている。彼はわたしたちに顔を隠し/わたしたちは彼を軽蔑し、無視していた。彼が担ったのはわたしたちの病/彼が負ったのはわたしたちの痛みであったのに/わたしたちは思っていた/神の手にかかり、打たれたから/彼は苦しんでいるのだ、と。彼が刺し貫かれたのは/わたしたちの背きのためであり/彼が打ち砕かれたのは/わたしたちの咎のためであった。彼の受けた懲らしめによって/わたしたちに平和が与えられ/彼のうけた傷によって、わたしたちはいやされた。
福音書記者マタイは、イエスさまが悪霊を追い出し、病人を皆癒されたのは、「彼がわたしたちの患いを負い、わたしたちの病を担った」という言葉が実現するためであったと記しました。このことは、私たちに何を教えているのでしょうか?私は二つあるのではないかと思います。一つは、悪霊を追い出し、病人を皆癒されたイエスさまが、すでに苦難の僕として歩まれているということであります。私たちは、イザヤ書53章の預言をイエスさまの十字架の死と復活にだけ結びつけて考えがちであります。しかし、マタイによれば、イエスさまは既に、苦難の僕としての道を歩まれているのです。イエスさまは、やがて苦難の死を遂げ、復活される主のしもべとして、悪霊を追い出し、病人を皆癒されたのです。悪霊を追い出し、病人を癒すことは、主の僕であるイエスさまがなすべきこと、神さまによって定められていた歩みであったのです。イエスさまは、「わたしたちの患いを負い、わたしたちの病を担う」主の僕として、悪霊を追い出し、病人を皆癒されたのです。
マタイがイザヤ書の預言を引用して教えている二つ目のことは、イエスさまは苦難の死である十字架の死によって、私たちの患いを負い、わたしたちの病を担われたということです。マタイが、イエスさまにおいて、「彼は・・・・・・私たちの病を担った」というイザヤの預言が成就したと記すとき、それはイエスさまが代わりに病を患うという仕方によってではありませんでした。イエスさまが私たちの病を担われるのは、その病の原因である罪を担われ、その罪の刑罰としての十字架の死を死なれるという仕方においてであったのです。私たちは、イエスさまの癒しの業を果たして十字架の死と結びつけて考えたことがあったでしょうか?そのようなことはあまりなかったのではないかと思います。しかし、イエスさまが私たちの病を担われ、取り去ることができるのは、イエスさまが私たちの罪のために十字架の死を死んでくださり、さらにはその死から復活されるお方であるからなのです。そして、ここに、私たちが病を負いながらも、必ず癒されると信じることができる根拠があるのです。イエスさまは、私たちの罪のために十字架について死んでくださいました。そのようにして、病の原因である罪を取り去ってくださいました。また、イエスさまは死から三日目に栄光の体へと復活されました。それゆえ、私たちはどのような病であっても必ず癒されることを信じることができるのです。病を癒されるイエスさまは、十字架と復活の主であられます。私たちは、イエスさまの癒しの記事を、十字架と復活の光の中で読むとき、正しく読み解くことができるのです。イエスさまが再び来られる日、私たちは病むことのない栄光の体へと変えられます。また、イエスさまを信じて眠りについた者たちは病むことのない栄光の体へと復活させられるのです(一テサロニケ4:16,17、一コリント15:51~53参照)。そのようにして、イエス・キリストの民は、あらゆる病を癒され、健やかな心と体をもって、神さまに仕える者たちとされるのです(黙21:1~4参照)。