権威の下にある者 2013年11月24日(日曜 朝の礼拝)
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権威の下にある者
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- 村田寿和 牧師
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マタイによる福音書 8章5節~13節
聖書の言葉
8:5 さて、イエスがカファルナウムに入られると、一人の百人隊長が近づいて来て懇願し、
8:6 「主よ、わたしの僕が中風で家に寝込んで、ひどく苦しんでいます」と言った。
8:7 そこでイエスは、「わたしが行って、いやしてあげよう」と言われた。
8:8 すると、百人隊長は答えた。「主よ、わたしはあなたを自分の屋根の下にお迎えできるような者ではありません。ただ、ひと言おっしゃってください。そうすれば、わたしの僕はいやされます。
8:9 わたしも権威の下にある者ですが、わたしの下には兵隊がおり、一人に『行け』と言えば行きますし、他の一人に『来い』と言えば来ます。また、部下に『これをしろ』と言えば、そのとおりにします。」
8:10 イエスはこれを聞いて感心し、従っていた人々に言われた。「はっきり言っておく。イスラエルの中でさえ、わたしはこれほどの信仰を見たことがない。
8:11 言っておくが、いつか、東や西から大勢の人が来て、天の国でアブラハム、イサク、ヤコブと共に宴会の席に着く。
8:12 だが、御国の子らは、外の暗闇に追い出される。そこで泣きわめいて歯ぎしりするだろう。」
8:13 そして、百人隊長に言われた。「帰りなさい。あなたが信じたとおりになるように。」ちょうどそのとき、僕の病気はいやされた。マタイによる福音書 8章5節~13節
メッセージ
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福音書記者マタイは、イエスさまの活動を4章23節でこう記しておりました。「イエスはガリラヤ中を回って、諸会堂で教え、御国の福音を宣べ伝え、民衆のありとあらゆる病気や患いをいやされた」。マタイはこのようにイエスさまの活動を要約的に述べた後で、イエスさまの教えについては5章から7章に、またイエスさまの癒しについては、8章から9章に詳しく記すのです。マタイは、彼の神学、編集方針に基づいて、イエスさまの権威ある業を、8章から9章にまとめて記したのであります。そのことを確認したうえで、今朝は8章5節から13節までを学びたいと思います。
イエスさまがガリラヤ湖畔の町カファルナウムに入られると、一人の百人隊長が近づいて来ました。百人隊長とは、100人の歩兵を指揮する隊長のことであります。その軍隊がローマの軍隊であったか、領主ヘロデ・アンティパスの軍隊であったかは分かりませんが、いずれにせよ、彼はユダヤ人ではない異邦人でありました。ユダヤ人にとって異邦人は汚れた民でありまして、神の救いとは関わりのない者と考えられておりました。その異邦人である百人隊長がイエスさまに近づいて来て、こう懇願するのです。「主よ、わたしの僕が中風で家に寝込んでひどく苦しんでいます」。ここで、「僕」と訳されている言葉は、「子供」とも訳すことができる言葉です。子供のように可愛がっていた僕が中風で家に寝込んで、ひどく苦しんでいたのです。ちなみに、中風とは、「半身の付随、腕または脚の麻痺する病気」のことであります(『広辞苑』)。5節に、「懇願し」とありますが、ここで百人隊長は、イエスさまに願っているというよりも、事実を伝えているだけであります。イエスさまに、「わたしの僕が中風で家に寝込んで、ひどく苦しんでいる」ことをお伝えするだけで、イエスさまにどのようにしてほしいのかまでは言わないのです。7節に、「そこで、イエスは、『わたしが行って、いやしてあげよう』と言われた」とありますが、このところは、実は疑問文にも訳すことができます。例えば、岩波書店から出版されている新約聖書では、「私が行って、彼を治すのか」と翻訳しています。もとのギリシャ語には、英語のようなクエスチョンマークはありませんので、平叙文にも疑問文にも訳すことができるのですが、私は疑問文に翻訳した方がよいのではないかと思います。つまり、イエスさまは、「私が行って、彼を治すのか?」と言われることにより、百人隊長の懇願を退けておられるのです。どうして、私がこのところを平叙文ではなく、疑問文に翻訳した方がよいと思うかと言いますと、その方がマタイ福音書全体から見るときふさわしいと考えるからです。10章にイエスさまが12人を派遣することが記されていますが、その際イエスさまは、「異邦人の道に行ってはならない。また、サマリア人の町に入ってはならない。むしろ、イスラエルの家の失われた羊のところへ行きなさい」と命じられています。また、15章21節以下では、イエスさまが、異邦人であるカナンの女に対して、「わたしは、イスラエルの家の失われた羊のところにしか遣わされていない」とお答になったことが記されています。15章21節から28節までをお読みします。新約の30ページです。
イエスはそこをたち、ティルスとシドンの地方に行かれた。すると、この地に生まれたカナンの女が出て来て、「主よ、ダビデの子よ、わたしを憐れんでください。娘が悪霊にひどく苦しめられています」と叫んだ。しかし、イエスは何もお答えにならなかった。そこで、弟子たちが近寄って来て願った。「この女を追い払ってください。叫びながらついて来ますので。」イエスは、「わたしは、イスラエルの家の失われた羊のところにしか遣わされていない」とお答になった。しかし、女は来て、イエスの前にひれ伏し、「主よ、どうかお助けください」と言った。イエスが、「子供たちのパンを取って小犬にやってはいけない」とお答えになると、女は言った。「主よ、ごもっともです。しかし、小犬も主人の食卓から落ちるパン屑はいただくのです。」そこで、イエスはお答えになった。「婦人よ、あなたの信仰は立派だ。あなたの願いどおりになるように。」そのとき、娘の病気はいやされた。
私たちは、ここから、イエスさまが御自分をイスラエルに遣わされたメシアであると自覚されていたことを知ることができます。イエスさまが、「あなたがたは行って、すべての民をわたしの弟子にしなさい」と言われるのは、イエスさまが十字架と復活を経て、天と地の一切の権能を授けられた後であるのです。それゆえ、私は今朝の御言葉の7節を「わたしが行って、いやしてあげよう」と訳すよりも、「わたしが行って、いやすのか?」と疑問文に訳した方がよいと思うのです。そのようにして、イエスさまは異邦人である百人隊長の願いを退けられるのです。では、今朝の御言葉に戻ります。新約の13ページです。
8節の「主よ、わたしはあなたを自分の屋根の下にお迎えできるような者ではありません」という百人隊長の言葉は、7節のイエスさまの言葉を平叙文で翻訳するか、疑問文で翻訳するかによって、違った印象を受けるのではないかと思います。7節を「わたしが行って、いやしてあげよう」と翻訳するならば、8節の百人隊長の言葉は、謙遜の言葉のように読むことができます。しかし、7節を「わたしが行って、いやすのか?」と翻訳するならば、8節の百人隊長の言葉は、確かに自分が、神の契約と関わりのない異邦人であることを認める言葉として読むことができるのです。私が採る解釈によれば、イエスさまは、「わたしが行って、いやすのか?」と百人隊長の願いを退けられました。それを受けて、百人隊長は、イエスさまを「主よ」と呼びつつも、自分がイエスさまを屋根の下にお迎えすることのできない異邦人であることを告白するのです。当時、ユダヤ人は異邦人の家を訪問することはありませんでした(使徒10:28参照)。そのようなことをすれば、宗教的な汚れを受けると考えられていたのです。この百人隊長は、ユダヤ人であるイエスさまを自分の屋根の下にお迎えすることができない異邦人であったのです。では、彼はしもべを癒していただくことを諦めたのでしょうか?そうではありません。彼はこう言うのです。「ただ、ひと言おっしゃってください。そうすれば、わたしの僕はいやされます」。驚くべき言葉であります。私たちなら、このような言葉を語ることができたでしょうか?おそらく、自分は異邦人であるという事実を前にして、肩を落として帰っていくのではないでしょうか?しかし、この百人隊長は、確かに自分はイエスさまを屋根の下にお迎えできない異邦人であることを認めつつ、「ただ、お言葉をください」と言うのです。「そうすれば、わたしの僕はいやされます」と言うのです。どうして、彼はこのように語ることができたのでしょうか?それは彼自身も権威の下にある者であったからです。9節にこう記されています。「わたしも権威の下にある者ですが、わたしの下には兵隊がおり、一人に『行け』と言えば行きますし、他の一人に『来い』と言えば来ます。また、部下に『これをしろ』と言えば、そのとおりにします」。この百人隊長の言葉は何を言わんとしているのでしょうか?それは、イエスさまが「病をいやすことができるお方の権威の下におられる」ということであります。では、病をいやすことができるお方とはだれでしょうか?それは言うまでもなく神さまであります。出エジプト記15章26節に、「わたしはあなたをいやす主である」とありますように、神さまこそ、病をいやすことができるお方であるのです。この百人隊長は、イエスさまが民衆のありとあらゆる病気や患いを癒されたことを聞いて、職業柄、そのことを見抜くことができたのです。イエスさまが病をいやすことができるのはなぜか?それはイエスさまが病をいやす神さまの権威の下におられるからであることを彼は自分の体験から見抜くことができたのです。それゆえ、百人隊長は、「ただ、一言おっしゃってください。そうすれば、わたしの僕はいやされます」と言うことができたのです。
イエスさまはこれを聞いて感心し、従っていた人々にこう言われました。「はっきり言っておく。イスラエルの中でさえ、わたしはこれほどの信仰を見たことがない」。ここで「はっきり言っておく」と訳されている言葉は、直訳すると「アーメン、わたしはあなたたちに言う」となります。イエスさまは、神の御子としての権威をもって、「イスラエルの中でさえ、わたしはこれほどの信仰を見たことがない」と言われるのです。このようにイエスさまに言わしめる信仰とはどのような信仰でありましょうか?それは、イエスさまの語られた言葉がそのとおりになるという信仰であります。イエスさまは、百人隊長の言葉の中に、「神の言葉はそのとおりになる」という聖書が教える信仰を見て取ったのです(イザヤ55:10、11参照)。11節に、「アブラハム、イサク、ヤコブ」と族長たちの名前が記されていますが、アブラハムが神さまに義と認めていただいたのは、神さまの御言葉はそのとおりになるという信仰のゆえでありました。創世記の15章1節から6節までをお読みします。旧約の19ページです。
これらのことの後で、主の言葉が幻の中でアブラムに臨んだ。「恐れるな、アブラムよ。わたしはあなたの盾である。あなたの受ける報いは非常に大きいであろう。」アブラムは尋ねた。「わが神、主よ。わたしに何をくださるというのですか。わたしには子供がありません。家を継ぐのはダマスコのエリエゼルです。」アブラムは言葉をついだ。「御覧のとおり、あなたはわたしに子孫を与えてくださいませんでしたから、家の僕が跡を継ぐことになっています。」見よ、主の言葉があった。「その者があなたの跡を継ぐのではなく、あなたから生まれる者が跡を継ぐ。」主は彼を外に連れ出して言われた。「天を仰いで、星を数えることができるなら、数えてみるがよい。」そして言われた。「あなたの子孫はこのようになる。」アブラムは主を信じた。主はそれを彼の義と認められた。
アブラハムは、神さまが「あなたの子孫は天の星空のようになる」との御言葉を受けて、そのようになると信じました。そして、その信仰を神さまは正しいとしてくださったのです。ここにあるのは、神さまの言葉はそのとおりになるという信仰であります。そのアブラハムと同じ信仰を、イエスさまはイスラエルの中にではなく、異邦人である百人隊長に見いだすのです。では今朝の御言葉に戻ります。新約の13ページです。
また、イエスさまは次のようにも言われます。「言っておくが、いつか、東や西から大勢の人が来て、天の国でアブラハム、イサク、ヤコブと共に宴会の席に着く。だが、御国の子らは、外の暗闇に追い出される。そこで泣きわめいて歯ぎしりするだろう」。このイエスさまの御言葉は、驚くべき言葉であります。百人隊長の信仰に驚かれたイエスさまは、ここで驚くべきことを言われます。と言いますのも、当時の常識で言えば、御国の子らであるユダヤ人が、天の国でアブラハム、イサク、ヤコブと共に宴会の席に着き、異邦人が外の暗闇に追い出されると考えられていたからです。ユダヤ人はアブラハムの血縁的な子孫である自分たちこそ、御国の子ら、天の国の祝福にあずかる者であると信じていたのです。しかし、イエスさまは、そうではなくて、東や西から来る大勢の異邦人が、天の国でアブラハム、イサク、ヤコブと共に宴会の席に着く、天の国の祝福にあずかる者となると言われるのです。ここでイエスさまが教えておられることは、アブラハムの血縁的な子孫であるユダヤ人であることがアブラハムと共に宴会の席に着くわけではないということです(。洗礼者ヨハネも3章9節で、「『我々の父はアブラハムだ』などと思ってもみるな」と言って悔い改めを迫ったように、アブラハムの血縁的な子孫であるユダヤ人がアブラハムと共に宴会の席に着くわけではないのです。そうではなくて、アブラハムの信仰にならう信仰的な子孫が、異邦人であってもアブラハムと共に宴会の席に着くのです(ローマ4:1~12参照)。そのさきがけを、イエスさまはこの百人隊長に見て取られたわけです。このように言われることによって、イエスさまはユダヤ人たちが御自分の内に働く神の権威を信じる、信仰に生きることを求めておられるのです。12節の「だが、御国の子らは、外の暗闇に追い出される。そこで泣きわめいて歯ぎしりするだろう」というイエスさまの御言葉を運命論的に読んではいけません。これは、そうならないことを願って語られている警告の言葉であります。御国の子らのうちにも、信仰を見いだしたいと願い、御国の子らに福音を告げ知らせるメシア・イエスの言葉であるのです。
イエスさまはこのような警告の言葉を語られた後で、百人隊長にこう言われました。「帰りなさい。あなたが信じたとおりになるように」。そして、ちょうどそのとき、僕の病気はいやされたのです。ここでイエスさまは、「僕の病気は癒される」とは言わないで、「あなたが信じたとおりになるように」と言われました。ここでも、イエスさまは、百人隊長の信仰を強調しておられます。そして、イエスさまがそのように言われたちょうどそのとき、百人隊長が信じたとおり、僕の病気はいやされたのです。百人隊長は、「ただ、ひと言おっしゃってください。そうすれば、わたしの僕はいやされます」と言いましたが、その言葉のとおり、イエスさまはなしてくださったのです。ここでイエスさまは御自分により頼む百人隊長の思いを御自分の思いとしてくださったのです。そのようにして、イエスさまは、御自分により頼む百人隊長の信仰に応えてくださったのであります。
イエスさまは、百人隊長の信仰に驚かれましたけれども、このような信仰が今朝、私たちにも求められているのです。いや、私たちはこのような信仰によって、イエスさまを主と信じさせていただいた者たちであるのです。私たちは、イエスさまをこの肉の目で見たことはありません。ですから、イエスさまがどのようなお顔をしているのかも知りません。しかし、そのような私たちがイエスさまを信じることができたのはなぜでしょうか?それは、イエスさまの御言葉を信じる信仰によるものであります。私たちに与えられているのは、イエスさまの御言葉だけです。そして、私たちはそのイエスさまの御言葉のとおりに、救われることを信じているのです。百人隊長の信仰に驚きながら、それと同じ信仰が私たち自身に与えられていることに驚かされるのではないでしょうか?