天の国に入る者 2013年11月03日(日曜 朝の礼拝)

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天の国に入る者

日付
説教
村田寿和 牧師
聖書
マタイによる福音書 7章21節~23節

聖句のアイコン聖書の言葉

7:21 「わたしに向かって、『主よ、主よ』と言う者が皆、天の国に入るわけではない。わたしの天の父の御心を行う者だけが入るのである。
7:22 かの日には、大勢の者がわたしに、『主よ、主よ、わたしたちは御名によって預言し、御名によって悪霊を追い出し、御名によって奇跡をいろいろ行ったではありませんか』と言うであろう。
7:23 そのとき、わたしはきっぱりとこう言おう。『あなたたちのことは全然知らない。不法を働く者ども、わたしから離れ去れ。』」マタイによる福音書 7章21節~23節

原稿のアイコンメッセージ

 今朝はマタイによる福音書7章21節から23節より御言葉の恵みにあずかりたいと願っています。

 イエスさまは、21節で次のように言われます。「わたしに向かって、『主よ、主よ』と言う者が皆、天の国に入るわけではない。わたしの天の父の御心を行う者だけが入るのである」。このイエスさまの御言葉を聞いて、私たちは驚くのではないでしょうか?なぜなら、私たちは、イエスさまを主と告白するならば救われると信じているからです。ローマの信徒への手紙10章19節に、「口でイエスは主であると公に言い表し、心で神がイエスを死者の中から復活させられたと信じるなら、あなたは救われるからです」とありますように、私たちは、イエスさまを主と告白する者は、天の国に入ることができると考えているのです。しかし、今朝のイエスさまの御言葉は、そのような私たちのあまい考えを打ち砕く衝撃的な御言葉であります。イエスさまは、「わたしに向かって、『主よ、主よ』という者が皆、天の国に入るわけではない。わたしの天の父の御心を行う者だけが入るのである」と言われるのです。ここでイエスさまは、ご自分を「主よ、主よ」と告白することが無用であるとは言ってはおりません。問題は、その信仰の告白に生きているかどうか、「イエスは主である」という信仰の告白が口先だけの告白となっていないかどうかであるのです。このことは、主の兄弟ヤコブが問題としたことでもありました。ヤコブの手紙2章14節から17節までをお読みします。新約の423ページです。

 わたしの兄弟たち、自分は信仰を持っていると言う者がいても、行いが伴わなければ、何の役に立つでしょうか。そのような信仰が、彼を救うことができるでしょうか。もし、兄弟あるいは姉妹が、着る物もなく、その日の食べ物にも事欠いているとき、あなたがたのだれかが、彼らに、「安心して行きなさい。温まりなさい。満腹するまで食べなさい」と言うだけで、体に必要なものを何一つ与えないなら、何の役に立つでしょう。信仰もこれと同じです。行いが伴わないなら、信仰はそれだけでは死んだものです。

 ここでヤコブが問題としていることは、行いが伴いわない信仰が、果たして信仰と呼ぶに値するかということであります。今朝の御言葉でイエスさまが問題としているのも実はこのことであります。私たちは「イエスは主である」と告白しております。「イエスは主である」とは、「イエスさまこそ、わたしの主人であり、主なる神その方である」という信仰の告白であります。そうであれば、私たちは当然、イエスさまの教えを行うはずであります。イエスさまの教えてくださった天の父の御心を行うはずです。今朝の御言葉でイエスさまが問題とされているのはそのことであるのです。では、今朝の御言葉に戻りましょう。新約の12ページです。

 イエスさまは、「わたしに向かって『主よ、主よ』と言う者が皆、天の国に入るのではない」と言われましたが、このことは、「イエスは主である」との信仰告白が無用であると言っているわけではありません。では、イエスさまを主と呼んでいれば、必ず天の国に入ることができるのかと言えば、そうではない。イエスさまは、「わたしの天の父の御心を行う者だけが入るのである」と言われるのです。これは考えてみますと当然のことであります。「天の国」とは、もう少し丁寧に翻訳すると「天の王国」となります。イエスさまの父なる神が王としてご支配しておられる王国、そこが天の国です。そして、この天の国では、神さまの御意志が行われているのです。その天の国に入るには、どうすればよいのか?イエスさまは、「わたしの天の父の御心を行う者だけが入るのである」と言われるのです。このイエスさまの御言葉は、私たちに主の祈りを思い起こさせます。イエスさまは、主の祈りの中で、「御国が来ますように。御心が行われますように、天におけるように地の上にも」と祈るように教えられました。私たちが天の国に入るためには、この祈りを祈り、実行していくことが求められているのです。それでは、やはり、行いによって救われることになりはしないか?と思われるかも知れません。しかし、そうではありません。なぜなら、天の父の御心の第一位は、イエス・キリストを主と告白し、信じることであるからです(一ヨハネ3:23参照)。イエスさまを「主よ、主よ」と呼びかけることと、イエスさまの天の父の御心を行うことは対立することではありません。むしろ、イエスさまを主と告白することこそ、イエスさまを遣わされた天の父の御心に適うことであるのです。問題は、天の父の御心はそれだけではないということなのです。イエスさまを主と告白することは、私たちが天の父の御心を行うスタートでありまして、ゴールではないのです。私たちはイエスさまが教えてくださる天の父の御心を行うために、イエスさまを主と告白させていただいたのです。

 イエスさまは、22節で次のように言われます。「かの日には、大勢のものがわたしに、『主よ、主よ、わたしたちは御名によって預言し、御名によって悪霊を追い出し、御名によって奇跡をいろいろ行ったではありませんか』と言うであろう」。「かの日」とありますように、ここでは「世の終りの裁き」が背景となっています。そして、その審判者こそ、イエスさまであられるのです。ここに記されている大勢の者の言葉から推測しますと、すでに大勢の者たちは有罪の判決を受けたようであります。有罪の判決を受けた大勢の者たちが自分を弁護して、「主よ、主よ、わたしたちは御名によって預言し、御名によって悪霊を追い出し、御名によって奇跡をいろいろ行ったではありませんか」と言うであろうとイエスさまは言われるのです。この大勢の者たちもイエスさまを「主よ、主よ」と呼びかけています。そして、イエスさまがなされたのと同じことをイエスさまの御名によってしているのです。御名によって預言し、御名によって悪霊を追い出し、御名によって奇跡を行う。これらはどれも聖霊の賜物であり、素晴らしい働きであります。しかし、そのような素晴らしい働きであっても、天の国に入ることができる保証とはならないのです。なぜなら、イエスさまは23節で次のように言われるからです。「そのとき、わたしはきっぱりこう言おう。『あなたたちのことは全然知らない。不法を働く者ども、わたしから離れ去れ』」。このイエスさまの御言葉は大変厳しい御言葉であります。大勢の者たちが、「主よ、主よ」と呼びかけ、御名によって預言し、悪霊を追い出し、奇跡さえ行っているのに、イエスさまは、「あなたたちのことは全然知らない」ときっぱりと言われるのです。「あなたたちのことは全然知らない」。この言葉は、律法の教師であるラビたちが用いた破門の決まり文句であったと言われています。イエスさまを「主よ、主よ」と呼ぶことは、イエスさまを先生、師と仰ぐ、弟子となるということでもあります。しかし、その弟子たちが、ここでは破門の宣告を受けているのです。なぜ、イエスさまは、「あなたたちのことは全然知らない」と言われ、さらには「わたしから離れ去れ」と言われるのでしょうか?それは、彼らが「不法を働く者ども」であるからです。「不法を働く者」とは、イエスさまの天の父の御心を行う者の反対であります。先程、私はヤコブの手紙を引用しつつ、ここでの問題は行いを伴った信仰であると申しましたが、行えば何でもよいということではありません。世の終わりの裁きにおいて、イエスさまから問われることは、イエスさまの天の父の御心に適ったことを行ったかどうかであるのです。では、イエスさまの御名によって預言し、悪霊を追い出し、奇跡を行ったことは、イエスさまの父の御心に適わないことであったのでしょうか?なぜ、イエスは、御自分の名によって預言し、悪霊を追い出し、奇跡を行った者たちを、「不法を働く者ども」と言われるのでしょうか?それは彼らが愛という動機からそのことをしていなかったからであると思います。使徒パウロは、コリントの信徒への手紙一13章1節から3節で次のように記しています。新約の317ページです。

 たとえ、人々の異言、天使たちの異言を語ろうとも、愛がなければ、わたしは騒がしいどら、やかましいシンバル。たとえ、預言する賜物を持ち、あらゆる神秘とあらゆる知識に通じていようとも、たとえ、山を動かすほどの完全な信仰を持っていようとも、愛がなければ、無に等しい。全財産を貧しい人々のために使い尽くそうとも、誇ろうとしてわが身を死に引き渡そうとも、愛がなければ、わたしに何の益もない。

 ここでパウロは、どのような素晴らしい賜物を持っていようと、愛がなければ無であると記しております。そして、ここに、イエスさまが、御自分の名によって預言し、悪霊を追い出し、奇跡を行った者たちを「不法を働く者ども」と言われる理由があるのです。さらには、「わたしはあなたたちのことを全然知らない」と言われる理由があるのであります。そもそも聖書において「知る」とは、何らかの知識を持っているということではなく、愛の交わりの中で人格的に知ることを意味しております(創世4:1参照)。イエスさまを心から主と呼び、イエスさまにおいて現わされた父の御心を行うためには、イエスさまとの愛の交わりから生じる聖霊の結ぶ実である愛が必要であるのです。すなわち、私たちのすべての行いの動機が愛である必要があるのです。天の国に入ろうとして、イエスさまの天の父の御心を行おうとしてもだめなのです。神さまを愛するゆえに、イエスさまを愛するゆえに、天の父の御心を行うことが私たちに求められているのです。このことはイエスさまがヨハネによる福音書で教えられたことでもあります。イエスさまは、ヨハネによる福音書14章15節で、「あなたがたは、わたしを愛しているならば、わたしの掟を守る」と言われました。また、24節では、「わたしを愛さない者は、わたしの言葉を守らない。あなたがたが聞いている言葉はわたしのものではなく、わたしをお遣わしになった父のものである」と言われています。このヨハネによる福音書の御言葉は今朝の御言葉を読み解くための鍵となるのではないかと思います。すなわち、父なる神の御心を行うその動機付けは、父なる神への愛であり、その愛は、御子イエス・キリストをとおして与えられる聖霊によるものであるということです。具体的に申しましょう。例えば、イエスさまの父の御心として、福音宣教があります。イエス・キリストの福音を宣べ伝える。これはイエスさまにおいて現わされた父なる神の御心であります。しかし、その動機づけはさまざまではないでしょうか?教会の活動を維持していくために、もっと伝道しましょう、という動機付けがなされることもあるのではないでしょうか?あるいは、自分たちの思想・信仰を多くの人たちに認めていただいて、安心したいという動機付けでなされることもあるのではないでしょうか?しかし、そうであってはいけないわけです。福音宣教の動機付けは、神への愛であり、人への愛でなくてはならないわけです。こう考えてきますと、私たちがイエスさまの父なる神の御心を行うためには、イエスさまとの、また父なる神さまとの親しい交わりが必要不可欠であることが分かってきます。天の父なる神の御心に適うお方、天の父なる神の御意志を成し遂げられたお方は、イエス・キリストお一人であります。ですから、私たちはイエスさまを生涯、教師として仰ぎ、イエスさまの教えに聞き従って歩んでいく必要があるのです。天の父の御心、それはただイエス・キリストをとおして現わされ、イエス・キリストとの交わりによって実現していくものであるのです。

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