偽預言者を警戒せよ 2013年10月27日(日曜 朝の礼拝)
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偽預言者を警戒せよ
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- 村田寿和 牧師
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マタイによる福音書 7章15節~20節
聖書の言葉
7:15 「偽預言者を警戒しなさい。彼らは羊の皮を身にまとってあなたがたのところに来るが、その内側は貪欲な狼である。
7:16 あなたがたは、その実で彼らを見分ける。茨からぶどうが、あざみからいちじくが採れるだろうか。
7:17 すべて良い木は良い実を結び、悪い木は悪い実を結ぶ。
7:18 良い木が悪い実を結ぶことはなく、また、悪い木が良い実を結ぶこともできない。
7:19 良い実を結ばない木はみな、切り倒されて火に投げ込まれる。
7:20 このように、あなたがたはその実で彼らを見分ける。」マタイによる福音書 7章15節~20節
メッセージ
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序.
マタイによる福音書は、5章から7章に渡って、イエスさまの教えをまとめて記しております。このイエスさまの教えは、山の上で語られたことから、山上の説教と呼ばれております。山上の説教の本論とも言える教えは5章17節から7章12節までで、その結論は、7章12節の「だから、人にしてもらいたいと思うことは何でも、あなたがたも人にしなさい。これこそ律法と預言者である」でありました。その後の7章13節以下は、山上の説教を締め括る勧告の言葉、あるいは警告の言葉であります。私たちは、今朝、その警告の言葉を学ぼうとしているのです。
1.偽預言者を警戒せよ
イエスさまは、15節で次のように言われます。「偽預言者を警戒しなさい。彼らは羊の皮を身にまとってあなたがたのところに来るが、その内側は貪欲な狼である」。ここで、イエスさまは、「偽預言者を警戒せよ」と言われます。「偽預言者」については、旧約聖書の申命記18章で次のように記されています。申命記18章15節から22節までをお読みします。旧約の309ページです。
あなたの神、主はあなたの中から、あなたの同胞の中から、わたしのような預言者を立てられる。あなたたちは彼に聞き従わねばならない。このことはすべて、あなたがホレブで、集会の日に、「二度とわたしの神、主の声を聞き、この大いなる火を見て、死ぬことのないようにしてください」とあなたの神、主に求めたことによっている。主はそのときわたしに言われた。「彼らの言うことはもっともである。わたしは彼らのために、同胞の中からあなたのような預言者を立ててその口にわたしの言葉を授ける。彼はわたしが命じることをすべて彼らに告げるであろう。彼がわたしの名によってわたしの言葉を語るのに、聞き従わない者があるならば、わたしはその責任を追及する。ただし、その預言者がわたしの命じていないことを、勝手にわたしの名によって語り、あるいは他の神々の名によって語るならば、その預言者は死なねばならない。」あなたは心の中で、「どうして我々は、その言葉が主の語られた言葉ではないということを知り得るだろうか」と言うであろう。その預言者が主の名によって語っても、そのことが起こらず、実現しなければ、それは主が語られたものではない。預言者が勝手に語ったものであるから、恐れることはない。
ここで主は、モーセのような預言者を立てると約束しておられますが、その中で、偽預言者についても語っておられます。20節、「ただし、その預言者がわたしの命じていないことを、勝手にわたしの名によって語り、あるいは他の神々の名によって語るならば、その預言者は死なねばならない」。預言者とは、神さまの言葉をお預かりして、神さまに代わって語る者のことであります。しかし、偽預言者は、神さまの命じていないことを、勝手に神さまの名によって語るのです。エレミヤ書などを見ますと、エルサレムがバビロン帝国によって滅ぼされる前の時代に、多くの偽預言者が現れていたことが分かります。エレミヤ書23章16節から22節までをお読みします。旧約の1221ページです。
万軍の主はこう言われる。お前たちに預言する預言者たちの言葉を聞いてはならない。彼らはお前たちに空しい望みを抱かせ/主の口の言葉ではなく、自分の心の幻を語る。わたしを侮る者たちに向かって/彼らは常に言う。「平和があなたたちに臨むと主が語られた」と。また、かたくなな心のままに歩む者に向かって「災いがあなたたちに来ることはない」と言う。誰が主の会議に立ち/また、その言葉を見聞きしたのか。誰が耳を傾けて、その言葉を聞いたか。見よ、主の嵐が激しく吹き/つむじ風が巻き起こって/神に逆らう者らの頭上に渦を巻く。主の怒りは/思い定められた事を成し遂げるまではやまない。終わりの日に、お前たちは/このことをはっきりと悟る。わたしが遣わさないのに/預言者たちは走る。わたしは彼らに語っていないのに彼らは預言する。もし、彼らがわたしの会議に立ったのなら/わが民にわたしの言葉を聞かせ/彼らの悪い道、悪い行いから/帰らせることができたであろう。
このように、エレミヤの時代、多くの偽預言者がおりました。彼らはイスラエルの罪を暴くことなく、手軽に治療し、平和がないのに「平和、平和」と言っていたのです(エレミヤ8:11参照)。しかし、彼らの預言したことは実現しませんでした。エルサレムはエレミヤが預言していたように、バビロン帝国によって滅ぼされるのです。このようにして、平和を預言していた多くの預言者ではなく、エレミヤこそが主の言葉を語った預言者であることが証明されたのです(申命18:22参照)。では今朝の御言葉に戻ります。新約の12ページです。
イエスさまは、「偽預言者を警戒しなさい」と言われましたが、それは今、御一緒に見ましたように、旧約聖書において既に言われていたことであります。モーセが記したと言われる申命記の中に、既にそのことが記されていたわけです。では、イエスさまはここで、既に与えられた教えを繰り返しておられるだけなのでしょうか?もちろん、そうではありません。なぜなら、「偽預言者を警戒しなさい」と言われたイエスさまこそが、申命記で神さまが立てると約束されていたモーセのような預言者、いや、モーセにまさる預言者であるからです(使徒3:22参照)。モーセは山の上で主の教えを受けましたが、イエスさまは山の上で教えを与えられる主その方であるのです。ですから、イエスさまこそ、すべての人が聞き従わなくてはならない、まことの預言者であられるのです。その方が、今朝、私たちに「偽預言者を警戒せよ」と言われているのであります。しかし、なぜ、イエスさまはここで、「偽預言者を警戒せよ」と言われたのでしょうか?それは、前回学んだ、「狭い門から入りなさい」というイエスさまの教えと関係があります。イエスさまは、「滅びに通じる門は広く、その道も広々として、そこから入る者が多い」と言われましたけれども、偽預言者は、狭い門から入り、細い道を歩む私たちを惑わし、広い門から入らせ、広い道を行かせようとするのです。それゆえ、イエスさまは、「狭い門から入れ」という勧告に続いて、「偽預言者を警戒せよ」と警告されたのです。
2.実で偽預言者を見分ける
イエスさまは、「偽預言者を警戒しなさい」と言われた後で、「彼らは羊の皮を身にまとってあなたがたのところに来るが、その内側は貪欲な狼である」と言われました。聖書はしばしば、神さまを羊飼い、神さまの民を羊の群れに譬えておりますが、ここでも「羊」は「神さまの民」を意味しています。偽預言者は羊の皮を身にまとってあなたがたのところにやって来る。すなわち、イエスさまを「主よ、主よ」と言うキリスト者として教会に入り込んでくるのです。しかし、その内側は貪欲な狼であるとイエスさまは言われるのです。そして、ここに、イエスさまが偽預言者を警戒しなさいと言われる理由があるのです。偽預言者は偽預言者としてはやって来ません。偽預言者は羊の皮を身にまとってやって来ます。それゆえ、その内側が貪欲な狼であることをなかなか見抜くことができないのです。では、どのようにして預言者か偽預言者かを見分ければよいのでしょうか?イエスさまは16節から20節で次のように言われます。「あなたがたは、その実で彼らを見分ける。茨からぶどうが、あざみからいちじくが採れるだろうか。すべて良い木は良い実を結び、悪い木は悪い実を結ぶ。良い木が悪い実を結ぶことはなく、また、悪い木が良い実を結ぶこともできない。良い実を結ばない木はみな、切り倒されて火に投げ込まれる。このように、あなたがたはその実で彼らを見分ける」。イエスさまは、「あなたがたはその実で彼らを見分ける」と言われます(16、20)。では、「その実」とは何でしょうか?一つの解釈は、「その実とは行いである」という解釈であります。言葉だけではなくて、行いが伴わなくてはだめだ、とイエスさまは言われていると解釈するのです。しかし、私は、ここでの「その実」には語る言葉も含まれていると思います。言葉と行いを対立的に捉えるのではなくて、一体的に捉えるべきであると思います。と言いますのも、イエスさまは12章33節から37節で次のように言われているからです。新約の23ページです。
木が良ければその実も良いとし、木が悪ければその実も悪いとしなさい。木の良し悪しは、その結ぶ実で分かる。蝮の子らよ、あなたたちは悪い人間であるのに、どうして良いことが言えようか。人の口からは、心にあふれていることが出て来るのである。善い人は、良いものを入れた倉から良いものを取り出し、悪い人は、悪いものを入れた倉から悪いものを取り出してくる。言っておくが、人は自分の話したつまらない言葉についてもすべて、裁きの日には責任を問われる。あなたは、自分の言葉によって義とされ、また、自分の言葉によって罪ある者とされる。
このイエスさまの御言葉を読むとき、「その実」に、語る言葉が含まれていることは明らかであります。その人が羊であるのか、あるいは、羊の皮を身にまとった狼であるのかは、その心からあふれて出て来る言葉と行いによって表わされるのです。イエスさまが、「あなたがたは、その実で彼らを見分ける」と言われる「その実」とは彼らが語る言葉と行いであるのです。では今朝の御言葉に戻ります。新約の12ページです。
3.良い実と悪い実を分ける基準
イエスさまは、「良い木が悪い実を結ぶことはなく、また、悪い木が良い実を結ぶこともできない。良い実を結ばない木はみな、切り倒されて火に投げ込まれる」と言われました。では、「良い実と悪い実を見分ける基準」とは何でしょうか?結論から申しますと、この基準こそが、モーセのような預言者、いや、モーセにまさる預言者であるイエス・キリストの教えであるのです。すなわち、これまで学んできた山上の説教の教えこそが良い実と悪い実を見分ける基準となるのです。イエス・キリストの教えに適う言葉を語り、イエス・キリストの教えに適う行いをする者は、良い実を結ぶ預言者であります。しかし、イエス・キリストの教えに反する言葉を語り、イエス・キリストの教えに反する行いをする者は、悪い実を結ぶ偽預言者であるのです。新約聖書にはたくさんの手紙がありますが、それを読むと、それぞれの宛先の教会に、それぞれ間違った教えを唱える偽預言者がいたことが分かります。新約聖書の手紙は、偽預言者から教会を守るために記されたと言ってもよいほどです。例えば、ヨハネの手紙一を読みますと、その手紙の宛先である小アジアの教会に、イエス・キリストが肉となって来られたことを否定する偽預言者がいたことが記されています。ヨハネの手紙一の4章1節から6節までをお読みします。新約の445ページです。
愛する者たち、どの霊も信じるのではなく、神から出た霊かどうかを確かめなさい。偽預言者が大勢世に出て来ているからです。イエス・キリストが肉となって来られたことを公に言い表す霊は、すべて神から出たものです。このことによって、あなたがたは神の霊が分かります。イエスのことを公に言い表わさない霊はすべて、神から出ていません。これは反キリストの霊です。かねてあなたがたは、その霊がやって来ると聞いていましたが、今や既に世に来ています。子たちよ、あなたがたは神に属しており、偽預言者たちに打ち勝ちました。なぜなら、あなたがたの内におられる方は、世にいる者よりも強いからです。偽預言者たちは世に属しており、そのために、世のことを話し、世は彼らに耳を傾けます。わたしたちは神に属する者です。神を知る人は、わたしたちに耳を傾けますが、神に属していない者は、わたしたちに耳を傾けません。これによって、真理の霊と人を惑わす霊とを見分けることができます。
ここでヨハネが問題としていることは、その人が、キリストの霊によって導かれて語っているか、それとも反キリストの霊に導かれて語っているか、ということです。キリストの霊に導かれている者こそ、羊たちが耳を傾けるべき預言者であるのです。そして、それを見分けることができるのは、キリストの聖霊が与えられている羊たちであるのです。イエスさまが、「わたしの羊は、わたしの声を聞き分ける」と言われたように、イエスさまの羊は、その人がキリストの霊に導かれて語っているかどうかを聞き分けることができるのです。では今朝の御言葉に戻ります。新約の12ページです。
結.私たちの内に良い実を結んでくださるキリスト
今朝の御言葉は、教師である私にとって、大変語りにくいところであります。自分はどうであろうか?と自己吟味を迫られる御言葉であるからです。しかし、そのことは、教師である私だけに留まってはならないと思います。なぜなら、使徒パウロは、長老たちの中から邪説を唱えて弟子たちを従わせようとする狼が現れると告げているからです(使徒20:28~30参照)。では、教師でも長老でもない信徒が羊の皮を身にまとっている狼であるという可能性はないかと言えば、そうではありません。先程は、ヨハネの手紙一から、イエス・キリストが肉となったことを否定する偽預言者がいたことを確認しましたが、この者たちは現代の教師というよりも、教会の中のある信徒グループでありました(一ヨハネ2:18~19参照)。ですから、信徒が邪説を唱えて教会を惑わすということが十分考えられるのです。それゆえ、「良い実を結ばない木はみな、切り倒されて火に投げ込まれる」というイエスさまの御言葉は、すべてのキリスト者に対して語られている御言葉でもあるのです。この19節の御言葉は、3章10節の洗礼者ヨハネの言葉と同じであると言われます。確かに、文字面は同じでありますが、しかし、イエスさまが語るとき、それは洗礼者ヨハネとはまったく異なった響きを持っています。なぜなら、イエスさまは、私たちに良い実を結ばせてくださるお方として、この言葉を語っておられるからです。私たちのうちにおられるキリストの霊が、私たちに良い言葉を語らせ、良い行いをさせてくださるのです。イエスさまは、ヨハネによる福音書15章でこう言われました。「わたしはぶどうの木、あなたがたはその枝である。人がわたしにつながっており、わたしもその人につながっていれば、その人は豊かに実を結ぶ」。また、使徒パウロもガラテヤ書の5章でこう記しています。「霊の結びは愛であり、喜び、平和、寛容、親切、善意、忍耐、柔和、節制です」。このように、イエス・キリストこそ、私たちに良い実を結ばせてくださるお方であるのです。そのようなお方が語られた警告として、私たちは、今朝の御言葉を読み、また聞かなくてはならないのです。