聖書の言葉 7:13 「狭い門から入りなさい。滅びに通じる門は広く、その道も広々として、そこから入る者が多い。 7:14 しかし、命に通じる門はなんと狭く、その道も細いことか。それを見いだす者は少ない。」マタイによる福音書 7章13節~14節 メッセージ 序論. 今朝は始めに、これまで学んできたことのおさらいをしておきたいと思います。マタイによる福音書の5章から7章には、いわゆる山上の説教が記されております。山上の説教の本論は、5章17節から7章12節までであります。5章17節と7章12節には、「律法と預言者」という言葉がありますが、この「律法と預言者」という言葉に囲まれて、山上の説教の本論が記されているのです。5章17節から7章12節までを山上の説教の本論と言うならば、その前の5章3節から16節までは、山上の説教の序論と言うことができます。イエスさまは、5章3節から12節で、キリスト者の幸いについて教えられました。キリストを信じる私たちは、心の貧しい人々であり、悲しむ人々であり、柔和な人々であり、義に飢え渇く人々であり、憐れみ深い人々であり、心の清い人々であり、平和を実現する人々であり、義のために、特にイエス・キリストのために迫害される人々であるのです。そのような私たちを、イエスさまは「あなたがたは地の塩である」「あなたがたは世の光である」と言われるのです。イエスさまは、序論の最後、15節、16節でこう言われました。「ともし火をともして升の下に置く者はいない。燭台の上に置く。そうすれば、家の中のものすべてを照らすのである。そのように、あなたがたの光を人々の前に輝かしなさい。人々が、あなたがたの立派な行いを見て、あなたがたの天の父をあがめるようになるためである」。これは言わば、17節から始まる本論の導入の言葉であります。人々が私たちの天の父をあがめるようになる立派な行いとは、どのような行いであるのか?そのことが5章17節以下で教えられているのです。そのような立派な行いを教えるために、イエスさまが先ず取り上げたのは、律法と預言者でありました。これは順当なことであったと思います。と言いますのも、神さまの御意志は律法において示されたからであります。律法こそ、神さまがイスラエルの民に与えられた信仰と生活の規準であり、立派な行いの道しるべであるからです。イエスさまは、私たちに求められている立派な行いを、「律法学者やファリサイ派の人々にまさる義」として提示されました。そして、律法学者やファリサイ派の人々にまさる義について、教えられたのです。律法学者やファリサイ派の人々にまさる義とは何か?それは神さまの掟の文字面だけを守るのではなくて、その掟を与えられた神さまの御心に従って守るということでありました。例えば、「あなたは殺してはならない」という掟は、兄弟に腹を立てること、兄弟に悪口を言うことをも禁じているとイエスさまは教えられました。イエスさまは、律法の教えを取り上げつつ、天の国の祝福にすでに生かされている私たちに、新しい教えを与えられたのです。そのいわゆる反対命題の結論として、イエスさまは、5章48節で、「だから、あなたがたの天の父が完全であられるように、あなたがたも完全な者となりなさい」と言われたのです。私たちを見て、人々が天の父をあがめるようになるためにはどうすればよいのか?それは、天の父が完全であられるように、私たちも完全な者となることであるのです。そのために、私たちは、神の律法を落ち度なく守られたイエスさまの御言葉と聖霊に導かれて、立派な行いをしていくことが求められているのです。 6章では、イエスさまは、律法学者やファリサイ派の人々が熱心であった善行を取り上げて、私たちの為すべき立派な行いについて教えておられます。当時のユダヤの社会において、施しと祈りと断食の三つが義の業、善行と考えられていました。施しと祈りと断食に熱心な人ほど、信心深い、敬虔な人であると考えられていたのです。そこで、イエスさまが教えられたことは、人に見られるために善行をしてはならない、ということでありました。6章1節でイエスさまはこう言われました。「見てもらおうとして、人の前で善行をしないように注意しなさい。さもないと、あなたがたの天の父のもとで報いをいただけないことになる」。これは、施し、祈り、断食の三つの善行にすべて当てはまる教えであります。イエスさまは、祈りについて教えられる中で、いわゆる主の祈りについても教えてくださいました。神の永遠の御子であるイエスさまは、弟子である私たちが何を祈り求めるべきかを教えてくださったのです。 6章19節から34節では、天の父の報いという流れの中で、天に宝を積むこと、さらには、天の父の報いを期待し、天に宝を積む私たちが、この地上の富みに対して、どのような態度を取ればよいのかをイエスさまは教えてくださいました。イエスさまは、自分の命や体のことで思い悩む私たちに、「思い悩むな」「思い煩うな」「心配するな」と三度も語りかけてくださいました。私たちの目を天の鳥や野の花へと向けさせ、天の父の善意と配慮に信頼するようにと諭してくださいました。また、「何よりも神の国と神の義を求めなさい。そうすれば、これらのものはみな加えて与えられる」との力強い約束を与えてくださいました。 7章の1節から6節では、主にある兄弟姉妹との関係について教えられ、「人を裁くな」とイエスさまは戒められました。さらには、どのような人に福音を語っているのかを識別する力の必要を教えられました。 7節から12節では、イエスさまはこれらの教えを実践するために、私たちに祈り求めることを教えられました。イエスさまは、私たちの祈りを励まされ、「あなたがたの天の父は良い物をくださるにちがいない」と断言してくださいました。ルカによる福音書の並行箇所によれば、「天の父がくださる良い物」が「聖霊」と記されております。ルカ福音書の11章13節には、「まして天の父は求める者に聖霊を与えてくださる」と記されています。このルカ福音書の御言葉は、マタイ福音書の山上の説教を読み解く鍵となるのではないかと思います。イエスさまは、山上の説教の本論を、12節の「だから、人にしてもらいたいと思うことは何でも、あなたがたも人にしなさい。これこそ律法と預言者である」と結んでおりますが、これは山上の説教の結論とも言える言葉であります。7章13節以下に、4つのお話が記されておりますけれども、それらは教えられたことを実践するようにとの勧告の言葉であります。山上の説教の本論は、前回学びました7章12節で結論に到達したのです。前回も申しましたけれども、この12節だけを切り離して読んではなりません。イエスさまは、「人にしてもらいたいと思うことは何でも、あなたがたも人にしなさい」と言われましたが、その規準となるのが、これまで語られてきたイエスさまの教えであるのです。また、7節から11節までの繋がりから言えば、12節の「あなたがた」は、天の父に求め続けるあなたがたであり、天の父から良いもの、聖霊を与えられているあなたがたであるのです。イエスさまの教えを受け、イエスさまの聖霊を与えられている私たちが、人にしてもらいたいと思うことは何でも人にするとき、私たちは律法と預言者を完成されたイエス・キリストの弟子として、立派な行いを為しうる者とされるのです。そして、それは私たちが生涯、求め続けるべきものなのであります。私たちは罪を悔いては、また犯す愚かな者たちであります。ですから、私たちは絶えずイエスさまから教えを受け、天の父にもろもろの良い物をいただかなければならないのです。 前置きが長くなりましたが、今朝の御言葉であるマタイによる福音書7章13節、14節をご一緒に学びたいと思います。 本論. イエスさまは、13節、14節で次のように言われます。 狭い門から入りなさい。滅びに通じる門は広く、その道も広々として、そこから入る者が多い。しかし、命に通じる門はなんと狭く、その道も細いことか。それを見いだす者は少ない。 イエスさまは、「狭い門から入りなさい」と言われます。なぜ、イエスさまは、「狭い門から入りなさい」と言われるのでしょうか?それは、「滅びに通じる門は広く、その道も広々として、そこから入る者が多い」からです。ここで、イエスさまは、私たちの目の前に、狭い門と広い門を思い描かせられます。広い門は、その道も広々として、そこから入る者が多いのですが、しかし、それは滅びに通じていると言うのです。多くの人々が広い門から入り、広い道を歩いて行くので、安心に思えるのですが、実はその行き着く先は滅びであるとイエスさまは言われるのであります。ここで、イエスさまは文字通りの狭い門と広い門について教えておられるのではありません。これは喩えでありまして、「狭い門から入る」とは、「イエス・キリストの弟子となる決断をする」ということです。イエス・キリストを信じる信仰の決断をすること、それが「狭い門から入る」ということです。それに対して、「広い門から入る」とは、イエス・キリストの弟子とならないこと、イエス・キリストを信じないことを指しているのです。このイエスさまの御言葉は、私たちにもよく分かるのではないかと思います。日本において、イエス・キリストを信じている人はごく僅かであるからです。日本において、キリスト者は少数派でありまして、イエスさまの弟子として歩んでいない者たちがほとんどであるからです。そのような日本社会に生きている私たちが、ふと思うことは、多くの人々が歩いている広い道の方が歩きやすそうだ、ということであります。広い門から入り、広い道を歩んだ方が、他の人々との摩擦も少なく、生きやすそうだということです。しかし、イエスさまは、「狭い門から入りなさい」と言われます。なぜなら、広い門は道も広く、多くの人々がその道を歩んでいますが、滅びへと通じているからです。ここで「滅び」という言葉が出て来ますが、これは世の終わりの裁きを思い起こさせる言葉であります。多くの人々が広い門から入り、多くの人々が広い道を歩んでいるからと言って、もし、私たちも広い門から入り、広い道を歩むならば、私たちの行き着く先は滅びであるのです。それに対して、狭い門は、命へと通じる門であるのです。ここでの「命」も世の終わりの裁きを背景としています。「命」とは神さまとの永遠の交わりである「永遠の命」のことです。イエス・キリストを信じるとは、狭い門から入ることですが、その門は命へと通じているのです。そうであれば、多く人々がイエス・キリストを信じても良さそうなものでありますが、しかし、そうならないところに、この門の狭さがあるのです。この命に通じる門の狭さについてイエスさまは10章37節から39節で次のように言われています。新約の19ページです。 わたしよりも父や母を愛する者は、わたしにふさわしくない。わたしよりも息子や娘を愛する者も、わたしにふさわしくない。また、自分の十字架を担ってわたしに従わない者は、わたしにふさわしくない。自分の命を得ようとする者は、それを失い、わたしのために命を失う者は、かえってそれを得るのである。 イエス・キリストを信じるという門の狭さがここにはっきりと記されています。イエス・キリストは、御自分の弟子たちに、肉親を愛する以上の愛を求められ、自分の十字架を担って従うことを求められるのです。もっと言えば、命に通じる狭い門から入る者には、イエス・キリストのために命を失う覚悟が求められるのです。 では、今朝の御言葉に戻ります。新約の12ページです。 イエスさまは、「命に通じる門はなんと狭く、その道も細いことか。それを見いだす者は少ない」と言われました。ここでの「道」は生き方そのもの、人生そのものを意味しますが、その細い道こそ、イエスさまが教えられた山上の説教に生きる道であるのです。イエスさまは、5章11節で、「わたしのためにののしられ、迫害され、身に覚えのないことであらゆる悪口を浴びせられるとき、あなたがたは幸いである」と言われました。ここに、イエスさまを信じて、生きる道の細さ、その困難さが既に記されています。イエスさまは、「門は狭いけれども、後で道は広くなるから、とりあえず、狭い門から入りなさい」とは言われません。命に通じる門は狭く、その道は細いのです。また、イエスさまは、5章44節で、「しかし、わたしは言っておく。敵を愛し、自分を迫害する者のために祈りなさい」と言われました。ここにも命に至る道の細さ、困難さが記されています。命に通じる細い道、それはイエスさまが山上の説教において教えられた生き方そのものなのです。 結論. イエスさまは「狭い門から入りなさい」「命に通じる門はなんと狭く、その道も細いことか。それを見いだす者は少ない」と言われましたが、私たちはイエスさまこそ、狭い門から入り、細い道を通って命に至ったお方であることを知っております。イエスさまは、十字架の死という細い道を通って、永遠の命へと復活させられました。それゆえ、イエス・キリストを信じること、イエス・キリストの教えに従って歩むことは、必ず命へと至るのであります。しかし、問題は、そのような細い道を、私たちが果たして歩み続けることができるであろうか、ということです。もし、私たちが自分自身に頼るならば、私たちはこの細い道を歩み続けることはできないでありましょう。しかし、私たちが心の貧しい人々として、イエス・キリストだけにより頼むならば、私たちは恵みによってこの細い道を歩み続け、命に至ることができるのです。細い、困難な道を歩まれて永遠の命に至ったイエス・キリストが、私たちと共にいてくださる。それゆえ、私たちも、細い道を歩み続けることができるのです。 関連する説教を探す 2013年の日曜 朝の礼拝 『マタイによる福音書』
序論.
今朝は始めに、これまで学んできたことのおさらいをしておきたいと思います。マタイによる福音書の5章から7章には、いわゆる山上の説教が記されております。山上の説教の本論は、5章17節から7章12節までであります。5章17節と7章12節には、「律法と預言者」という言葉がありますが、この「律法と預言者」という言葉に囲まれて、山上の説教の本論が記されているのです。5章17節から7章12節までを山上の説教の本論と言うならば、その前の5章3節から16節までは、山上の説教の序論と言うことができます。イエスさまは、5章3節から12節で、キリスト者の幸いについて教えられました。キリストを信じる私たちは、心の貧しい人々であり、悲しむ人々であり、柔和な人々であり、義に飢え渇く人々であり、憐れみ深い人々であり、心の清い人々であり、平和を実現する人々であり、義のために、特にイエス・キリストのために迫害される人々であるのです。そのような私たちを、イエスさまは「あなたがたは地の塩である」「あなたがたは世の光である」と言われるのです。イエスさまは、序論の最後、15節、16節でこう言われました。「ともし火をともして升の下に置く者はいない。燭台の上に置く。そうすれば、家の中のものすべてを照らすのである。そのように、あなたがたの光を人々の前に輝かしなさい。人々が、あなたがたの立派な行いを見て、あなたがたの天の父をあがめるようになるためである」。これは言わば、17節から始まる本論の導入の言葉であります。人々が私たちの天の父をあがめるようになる立派な行いとは、どのような行いであるのか?そのことが5章17節以下で教えられているのです。そのような立派な行いを教えるために、イエスさまが先ず取り上げたのは、律法と預言者でありました。これは順当なことであったと思います。と言いますのも、神さまの御意志は律法において示されたからであります。律法こそ、神さまがイスラエルの民に与えられた信仰と生活の規準であり、立派な行いの道しるべであるからです。イエスさまは、私たちに求められている立派な行いを、「律法学者やファリサイ派の人々にまさる義」として提示されました。そして、律法学者やファリサイ派の人々にまさる義について、教えられたのです。律法学者やファリサイ派の人々にまさる義とは何か?それは神さまの掟の文字面だけを守るのではなくて、その掟を与えられた神さまの御心に従って守るということでありました。例えば、「あなたは殺してはならない」という掟は、兄弟に腹を立てること、兄弟に悪口を言うことをも禁じているとイエスさまは教えられました。イエスさまは、律法の教えを取り上げつつ、天の国の祝福にすでに生かされている私たちに、新しい教えを与えられたのです。そのいわゆる反対命題の結論として、イエスさまは、5章48節で、「だから、あなたがたの天の父が完全であられるように、あなたがたも完全な者となりなさい」と言われたのです。私たちを見て、人々が天の父をあがめるようになるためにはどうすればよいのか?それは、天の父が完全であられるように、私たちも完全な者となることであるのです。そのために、私たちは、神の律法を落ち度なく守られたイエスさまの御言葉と聖霊に導かれて、立派な行いをしていくことが求められているのです。
6章では、イエスさまは、律法学者やファリサイ派の人々が熱心であった善行を取り上げて、私たちの為すべき立派な行いについて教えておられます。当時のユダヤの社会において、施しと祈りと断食の三つが義の業、善行と考えられていました。施しと祈りと断食に熱心な人ほど、信心深い、敬虔な人であると考えられていたのです。そこで、イエスさまが教えられたことは、人に見られるために善行をしてはならない、ということでありました。6章1節でイエスさまはこう言われました。「見てもらおうとして、人の前で善行をしないように注意しなさい。さもないと、あなたがたの天の父のもとで報いをいただけないことになる」。これは、施し、祈り、断食の三つの善行にすべて当てはまる教えであります。イエスさまは、祈りについて教えられる中で、いわゆる主の祈りについても教えてくださいました。神の永遠の御子であるイエスさまは、弟子である私たちが何を祈り求めるべきかを教えてくださったのです。
6章19節から34節では、天の父の報いという流れの中で、天に宝を積むこと、さらには、天の父の報いを期待し、天に宝を積む私たちが、この地上の富みに対して、どのような態度を取ればよいのかをイエスさまは教えてくださいました。イエスさまは、自分の命や体のことで思い悩む私たちに、「思い悩むな」「思い煩うな」「心配するな」と三度も語りかけてくださいました。私たちの目を天の鳥や野の花へと向けさせ、天の父の善意と配慮に信頼するようにと諭してくださいました。また、「何よりも神の国と神の義を求めなさい。そうすれば、これらのものはみな加えて与えられる」との力強い約束を与えてくださいました。
7章の1節から6節では、主にある兄弟姉妹との関係について教えられ、「人を裁くな」とイエスさまは戒められました。さらには、どのような人に福音を語っているのかを識別する力の必要を教えられました。
7節から12節では、イエスさまはこれらの教えを実践するために、私たちに祈り求めることを教えられました。イエスさまは、私たちの祈りを励まされ、「あなたがたの天の父は良い物をくださるにちがいない」と断言してくださいました。ルカによる福音書の並行箇所によれば、「天の父がくださる良い物」が「聖霊」と記されております。ルカ福音書の11章13節には、「まして天の父は求める者に聖霊を与えてくださる」と記されています。このルカ福音書の御言葉は、マタイ福音書の山上の説教を読み解く鍵となるのではないかと思います。イエスさまは、山上の説教の本論を、12節の「だから、人にしてもらいたいと思うことは何でも、あなたがたも人にしなさい。これこそ律法と預言者である」と結んでおりますが、これは山上の説教の結論とも言える言葉であります。7章13節以下に、4つのお話が記されておりますけれども、それらは教えられたことを実践するようにとの勧告の言葉であります。山上の説教の本論は、前回学びました7章12節で結論に到達したのです。前回も申しましたけれども、この12節だけを切り離して読んではなりません。イエスさまは、「人にしてもらいたいと思うことは何でも、あなたがたも人にしなさい」と言われましたが、その規準となるのが、これまで語られてきたイエスさまの教えであるのです。また、7節から11節までの繋がりから言えば、12節の「あなたがた」は、天の父に求め続けるあなたがたであり、天の父から良いもの、聖霊を与えられているあなたがたであるのです。イエスさまの教えを受け、イエスさまの聖霊を与えられている私たちが、人にしてもらいたいと思うことは何でも人にするとき、私たちは律法と預言者を完成されたイエス・キリストの弟子として、立派な行いを為しうる者とされるのです。そして、それは私たちが生涯、求め続けるべきものなのであります。私たちは罪を悔いては、また犯す愚かな者たちであります。ですから、私たちは絶えずイエスさまから教えを受け、天の父にもろもろの良い物をいただかなければならないのです。
前置きが長くなりましたが、今朝の御言葉であるマタイによる福音書7章13節、14節をご一緒に学びたいと思います。
本論.
イエスさまは、13節、14節で次のように言われます。
狭い門から入りなさい。滅びに通じる門は広く、その道も広々として、そこから入る者が多い。しかし、命に通じる門はなんと狭く、その道も細いことか。それを見いだす者は少ない。
イエスさまは、「狭い門から入りなさい」と言われます。なぜ、イエスさまは、「狭い門から入りなさい」と言われるのでしょうか?それは、「滅びに通じる門は広く、その道も広々として、そこから入る者が多い」からです。ここで、イエスさまは、私たちの目の前に、狭い門と広い門を思い描かせられます。広い門は、その道も広々として、そこから入る者が多いのですが、しかし、それは滅びに通じていると言うのです。多くの人々が広い門から入り、広い道を歩いて行くので、安心に思えるのですが、実はその行き着く先は滅びであるとイエスさまは言われるのであります。ここで、イエスさまは文字通りの狭い門と広い門について教えておられるのではありません。これは喩えでありまして、「狭い門から入る」とは、「イエス・キリストの弟子となる決断をする」ということです。イエス・キリストを信じる信仰の決断をすること、それが「狭い門から入る」ということです。それに対して、「広い門から入る」とは、イエス・キリストの弟子とならないこと、イエス・キリストを信じないことを指しているのです。このイエスさまの御言葉は、私たちにもよく分かるのではないかと思います。日本において、イエス・キリストを信じている人はごく僅かであるからです。日本において、キリスト者は少数派でありまして、イエスさまの弟子として歩んでいない者たちがほとんどであるからです。そのような日本社会に生きている私たちが、ふと思うことは、多くの人々が歩いている広い道の方が歩きやすそうだ、ということであります。広い門から入り、広い道を歩んだ方が、他の人々との摩擦も少なく、生きやすそうだということです。しかし、イエスさまは、「狭い門から入りなさい」と言われます。なぜなら、広い門は道も広く、多くの人々がその道を歩んでいますが、滅びへと通じているからです。ここで「滅び」という言葉が出て来ますが、これは世の終わりの裁きを思い起こさせる言葉であります。多くの人々が広い門から入り、多くの人々が広い道を歩んでいるからと言って、もし、私たちも広い門から入り、広い道を歩むならば、私たちの行き着く先は滅びであるのです。それに対して、狭い門は、命へと通じる門であるのです。ここでの「命」も世の終わりの裁きを背景としています。「命」とは神さまとの永遠の交わりである「永遠の命」のことです。イエス・キリストを信じるとは、狭い門から入ることですが、その門は命へと通じているのです。そうであれば、多く人々がイエス・キリストを信じても良さそうなものでありますが、しかし、そうならないところに、この門の狭さがあるのです。この命に通じる門の狭さについてイエスさまは10章37節から39節で次のように言われています。新約の19ページです。
わたしよりも父や母を愛する者は、わたしにふさわしくない。わたしよりも息子や娘を愛する者も、わたしにふさわしくない。また、自分の十字架を担ってわたしに従わない者は、わたしにふさわしくない。自分の命を得ようとする者は、それを失い、わたしのために命を失う者は、かえってそれを得るのである。
イエス・キリストを信じるという門の狭さがここにはっきりと記されています。イエス・キリストは、御自分の弟子たちに、肉親を愛する以上の愛を求められ、自分の十字架を担って従うことを求められるのです。もっと言えば、命に通じる狭い門から入る者には、イエス・キリストのために命を失う覚悟が求められるのです。
では、今朝の御言葉に戻ります。新約の12ページです。
イエスさまは、「命に通じる門はなんと狭く、その道も細いことか。それを見いだす者は少ない」と言われました。ここでの「道」は生き方そのもの、人生そのものを意味しますが、その細い道こそ、イエスさまが教えられた山上の説教に生きる道であるのです。イエスさまは、5章11節で、「わたしのためにののしられ、迫害され、身に覚えのないことであらゆる悪口を浴びせられるとき、あなたがたは幸いである」と言われました。ここに、イエスさまを信じて、生きる道の細さ、その困難さが既に記されています。イエスさまは、「門は狭いけれども、後で道は広くなるから、とりあえず、狭い門から入りなさい」とは言われません。命に通じる門は狭く、その道は細いのです。また、イエスさまは、5章44節で、「しかし、わたしは言っておく。敵を愛し、自分を迫害する者のために祈りなさい」と言われました。ここにも命に至る道の細さ、困難さが記されています。命に通じる細い道、それはイエスさまが山上の説教において教えられた生き方そのものなのです。
結論.
イエスさまは「狭い門から入りなさい」「命に通じる門はなんと狭く、その道も細いことか。それを見いだす者は少ない」と言われましたが、私たちはイエスさまこそ、狭い門から入り、細い道を通って命に至ったお方であることを知っております。イエスさまは、十字架の死という細い道を通って、永遠の命へと復活させられました。それゆえ、イエス・キリストを信じること、イエス・キリストの教えに従って歩むことは、必ず命へと至るのであります。しかし、問題は、そのような細い道を、私たちが果たして歩み続けることができるであろうか、ということです。もし、私たちが自分自身に頼るならば、私たちはこの細い道を歩み続けることはできないでありましょう。しかし、私たちが心の貧しい人々として、イエス・キリストだけにより頼むならば、私たちは恵みによってこの細い道を歩み続け、命に至ることができるのです。細い、困難な道を歩まれて永遠の命に至ったイエス・キリストが、私たちと共にいてくださる。それゆえ、私たちも、細い道を歩み続けることができるのです。