ヨナタンの英雄的な行動 2021年3月24日(水曜 聖書と祈りの会)
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ヨナタンの英雄的な行動
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- 村田寿和 牧師
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サムエル記上 14章1節~15節
聖書の言葉
14:1 ある日、サウルの息子ヨナタンは自分の武器を持つ従卒に言った。「さあ、渡って行き、向こう岸のペリシテ人の先陣を襲おう。」ヨナタンはこのことを父に話していなかった。
14:2 サウルはギブアの外れ、ミグロンのざくろの木陰にいた。彼のもとにいる兵士はおよそ六百人であった。
14:3 そこには、エフォドを持つアヒヤもいた。アヒヤは、イカボドの兄弟アヒトブの子であり、イカボドはシロで主の祭司を務めたエリの息子のピネハスの子である。兵士たちはヨナタンが出て行くのに気がつかなかった。
14:4 ヨナタンがペリシテ軍の先陣の方に渡って行こうとした渡しには、こちら側にも向こう側にも切り立った岩があった。一方はボツェツと呼ばれ、他方はセンネと呼ばれる。
14:5 一方の岩はミクマスに面して北側に、他方の岩はゲバに面して南側にそそり立っていた。
14:6 ヨナタンは自分の武器を持つ従卒に言った。「さあ、あの無割礼の者どもの先陣の方へ渡って行こう。主が我々二人のために計らってくださるにちがいない。主が勝利を得られるために、兵の数の多少は問題ではない。」
14:7 従卒は答えた。「あなたの思いどおりになさってください。行きましょう。わたしはあなたと一心同体です。」
14:8 ヨナタンは言った。「よし、ではあの者どものところへ渡って行って、我々の姿を見せよう。
14:9 そのとき、彼らが、『お前たちのところへ着くまでじっとしていろ』と言うなら、そこに立ち止まり、登って行くのはよそう。
14:10 もし、『登って来い』と言えば、登って行くことにしよう。それは、主が彼らを我々の手に渡してくださるしるしだ。」
14:11 こうして、二人はペリシテ軍の先陣に姿を見せた。ペリシテ人は言った。「あそこにヘブライ人がいるぞ。身を隠していた穴から出て来たのだ。」
14:12 先陣の兵士たちは、ヨナタンと従卒に向かって呼ばわった。「登って来い。思い知らせてやろう。」ヨナタンは従卒に言った。「わたしに続いて登って来い。主が彼らをイスラエルの手に渡してくださるのだ。」
14:13 ヨナタンは両手両足でよじ登り、従卒も後に続いた。ペリシテ人たちはヨナタンの前に倒れた。彼に続く従卒がとどめを刺した。
14:14 こうしてヨナタンと従卒がまず討ち取った者の数はおよそ二十人で、しかも、それは一軛の牛が一日で耕す畑の半分ほどの場所で行われた。
14:15 このため、恐怖が陣営でも野でも兵士全体に広がり、先陣も遊撃隊も恐怖に襲われた。地は揺れ動き、恐怖はその極に達した。サムエル記上 14章1節~15節
メッセージ
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今朝は、『サムエル記上』の第14章1節から15節より、「ヨナタンの英雄的な行動」という題でお話しします。
第13章は、イスラエルとペリシテ人との戦いを記しておりました。第13章5節に、こう記されています。「ペリシテ軍は、イスラエルと戦うために集結した。その戦車は三万、騎兵は六千、兵士は海辺の砂のように多かった」。それに対して、サウルのもとにいた兵士たちは六百人でありました(13:15b)。しかも、当時、イスラエルにはどこにも鍛冶屋がおらず、剣や槍を手にしていたのは、サウル王とその息子ヨナタンだけであったのです。他の兵士たちは、鋤や鍬や三つまたの矛や斧などを武器にしていたのです。イスラエルはペリシテ軍に対して、兵士の数でも、装備においても、絶対的な不利な状況に置かれていたのです。このとき、サウルとイスラエルの兵はベニヤミンのゲバにとどまっていました。他方、ペリシテ軍はミクマスに陣を敷いていました。ペリシテ軍の先陣はミクマスの渡しまで進んでおり、イスラエルに迫って来ていたのです。
ここまでは、これまでの振り返りであります。今朝の御言葉は、その続きであります。
ある日、サウルの息子ヨナタンは自分の武器を持つ従卒に、こう言いました。「さあ、渡って行き、向こう岸のペリシテ人の先陣を襲おう」。ヨナタンは、ペリシテ人の先陣に奇襲攻撃を仕掛けようと言うのです。ヨナタンはこのことを父サウルに話していませんでした。この時、サウルはギブアの外れ、ミグロンのザクロの木陰に座っていたのです。サウルは、迫ってくるペリシテ軍を前に、どのようにすればよいのか頭を悩ませていたのではないでしょうか。そのサウルのもとに、およそ六百人の兵士とエフォドを持つ祭司アヒヤがおりました。「エフォド」とは、祭司が携えていたもので、神さまに伺いをたてる時に使用したものと考えられています(サムエル上23:6~12参照)。祭司アヒヤについては、次のように記されています。「アヒヤは、イカボトの兄弟アヒトブの子であり、イカボドはシロで主の祭司を務めたエリの息子のピネハスの子である」。第2章に、神の人が祭司エリのもとに来て、主の言葉を告げたことが記されていました。祭司エリは、自分の息子を主よりも大事にして、イスラエルが供える献げ物の中から最上のものを取って、私腹を肥やしたゆえに、厳しい裁きを言い渡されるのです。主はエリに、「あなたの家には永久に長命の者はいなくなる。わたしは、あなたの家の一人だけは、わたしの祭壇から断ち切らないでおく」と言われました(サムエル上2:32、33)。主が祭壇から断ち切らない一人の者が、アヒヤであったのです。第13章に記されていたように、サムエルはサウルのもとから立ち去っていきましたが、エリの子孫である祭司アヒヤがサウルに仕えていたのです。
兵士たちは、ヨナタンが出て行くのに気が付きませんでした。ヨナタンがペリシテ軍の先陣の方に渡って行こうとした渡しには、こちら側にも向こう側にも切り立った岩がありました。「一方はボツェツと呼ばれ、他方はセンネと呼ばれる」とありますが、「ボツェツ」とは「つるつるしたもの」という意味です。また、「センネ」とは「ぎざぎざしたもの」という意味です。どちらにしても、歩きやすい所ではなかったようです。「一方の岩はミクマスに面して北側に、他方の岩はゲバに面して南側にそそりたっていた」とありますから、このとき、ヨナタンは、ミクマスとゲバを隔てる涸れ谷の底にいたようであります。ヨナタンは自分の武器を持つ従卒にこう言いました。「さあ、あの無割礼の者どもの先陣へ渡って行こう。主が我々二人のために計らってくださるにちがいない。主が勝利を得られるために、兵の数の多少は問題ではない」。「無割礼の者ども」とは、イスラエルがペリシテ人のことを軽蔑するときに用いる呼び名です。神さまからイスラエルに命じられた割礼は、神の民であることのしるしでありました(創世17章参照)。ですから、「無割礼の者ども」とは、「神の民ではない者」という意味です。イスラエルとペリシテ人との戦いは、神の民と神の民ではない者との戦いであるのです。それゆえ、ヨナタンは、「主は我々のために計らってくださるに違いない」と言うのです。この戦いは、主の戦いであるゆえに、ヨナタンは、「主が勝利を得られるために、兵の数の多少は問題ではない」と言うのです。これはものすごい信仰ですね。このヨナタンの言葉を聞いて、従卒はこう答えました。「あなたの思いどおりになさってください。行きましょう。わたしはあなたと一心同体です」。このように、従卒はヨナタンに従ったのです。従卒もヨナタンと同じように、この戦いが主の戦いであり、主は自分たちを用いて、ペリシテ軍に勝利されると信じたのです。しかし、ここでヨナタンは、主の御心を知るために、一つのしるしを定めました。8節で、ヨナタンはこう言っています。「よし、ではあの者どものところへ渡って行って、我々の姿を見せよう。そのとき、彼らが、『お前たちのところへ着くまでじっとしていろ』と言うなら、そこに立ち止まり、上って行くのはよそう。もし、『登って来い』と言えば、登って行くことにしよう。それは、主が彼らを我々の手に渡してくださるしるしだ」。ヨナタンは、ペリシテ人の言葉を、ペリシテ人の口を通して語られた主の言葉として受け入れることにしたのです。ペリシテ人が「じっとしていろ」と言えば、それは主が「じっとしていろ」と言われたことである。また、ペリシテ人が「登って来い」と言えば、それは主が「登って行け」と言われたことであるのです。このように決めた上で、二人は、ペリシテ軍の先陣に姿を見せました。すると、ペリシテ人はこう言ったのです。「あそこにヘブライ人がいるぞ。身を隠していた穴から出て来たのだ。」「登って来い。思い知らせてやろう」。このペリシテ人の言葉を聞いて、ヨナタンは従卒にこう言いました。「わたしに続いて登って来い。主が彼らをイスラエルの手に渡してくださるのだ」。ペリシテ人は、「登って来い。思い知らせてやろう」と言いましたが、実際にヨナタンと従卒がそそり立つ岩を登って来るとは考えていなかったと思います。しかし、ヨナタンと従卒は、ペリシテ人の言葉を、「主が彼らをイスラエルの手に渡してくださる」しるしとして受け入れ、そそり立つ岩を登って行ったのです。岩はそそり立っていましたから、ペリシテ人たちは、登ってくるヨナタンの姿を見ることができませんでした。ヨナタンは、ペリシテ人の前に、突然、姿を現したのです。ヨナタンはペリシテ人を倒し、従卒がとどめを刺しました。こうして、ヨナタンと従卒は、およそ二十人のペリシテ人を討ち取ったのです。ヨナタンと従卒の奇襲攻撃によって、恐怖が陣営でも野でも兵士全体に広がり、先陣も遊撃隊も恐怖に襲われたのです。「地は揺れ動き」とありますから、このとき、地震があったのかも知れません。主は大地を揺れ動かすことによって、この上ない恐怖を引き起こされたのです。
さて、今朝、私たちが心に留めたい御言葉は、6節のヨナタンの言葉、「主が勝利を得られるために、兵の数の多少は問題ではない」という御言葉であります。私たちの戦いは人間を相手にするものではなく、その背後にいる悪の諸霊との戦いであります(エフェソ6:12参照)。そして、私たちの王であるイエス・キリストは、たった一人で悪の諸霊との戦いに勝利されたのです。主イエス・キリストは、『ヨハネによる福音書』の第16章33節で、弟子たちにこう言われました。「あなたがたには世で苦難がある。しかし、勇気を出しなさい。わたしは既に世に勝っている」。既に世に勝利されたイエス・キリストは、御自分の名によって、二人または三人が集まるところにいてくださいます。イエスさまは、「二人または三人がわたしの名によって集まるところには、わたしもその中にいるのである」と言われました(マタイ18:20)。ですから、私たちが主イエス・キリストの勝利にあずかるのに、人数の多少は問題ではないのです。たった一人で悪の諸霊に勝利されたイエス様は、御自分の名によって二人または三人が集まる、その只中に御臨在してくださるのです。