神か、富か 2013年8月25日(日曜 朝の礼拝)

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神か、富か

日付
説教
村田寿和 牧師
聖書
マタイによる福音書 6章19節~24節

聖句のアイコン聖書の言葉

6:19 「あなたがたは地上に富を積んではならない。そこでは、虫が食ったり、さび付いたりするし、また、盗人が忍び込んで盗み出したりする。
6:20 富は、天に積みなさい。そこでは、虫が食うことも、さび付くこともなく、また、盗人が忍び込むことも盗み出すこともない。
6:21 あなたの富のあるところに、あなたの心もあるのだ。」
6:22 「体のともし火は目である。目が澄んでいれば、あなたの全身が明るいが、
6:23 濁っていれば、全身が暗い。だから、あなたの中にある光が消えれば、その暗さはどれほどであろう。」
6:24 「だれも、二人の主人に仕えることはできない。一方を憎んで他方を愛するか、一方に親しんで他方を軽んじるか、どちらかである。あなたがたは、神と富とに仕えることはできない。」マタイによる福音書 6章19節~24節

原稿のアイコンメッセージ

 先程は、マタイによる福音書第6章19節から24節までを読んでいただきました。前回は、19節から21節までを学びましたので、今朝は、22節から24節までを御一緒に学びたいと思います。

 22節、23節をお読みします。

 体のともし火は目である。目が澄んでいれば、あなたの全身が明るいが、濁っていれば、全身が暗い。だから、あなたの中にある光が消えれば、その暗さはどれほどであろう。

 イエスさまは、「体のともし火は目である」と言われます。新共同訳聖書は「ともし火」と訳していますが、口語訳聖書、新改訳聖書を見ますと「あかり」と訳されています。新改訳聖書では、「からだのあかりは目です」と記されているのです。イエスさまが「からだのあかりは目です」と言われるとき、体が部屋に、目が窓にたとえられています(ルカ11:33~36参照)。窓ガラスが澄んでいれば光を通すので、部屋は明るい。しかし、窓ガラスが濁っていれば光を通さないので、部屋は暗い。もちろん、これは譬えでありますから、イエスさまが言いたいことはその傍らにあります。では、イエスさまは、弟子である私たちに何を教えようとしておられるのでしょうか?そのことを知るために、まず「濁っている目」に着目したいと思います。新共同訳聖書は、「濁っていれば」と訳していますが、元の言葉を見ますと「もし、あなたの目が悪ければ」と記されています(口語訳聖書、新改訳聖書参照)。「目が悪い」とは視力が低いことを言っているのではなく、むしろ、「目つきが悪い」ということであります。そして、ヘブライ語の言い回しによれば、「目が悪い」とは「ねたみ深く、貪欲なさま」を表すのです。第20章で、イエスさまは、「ぶどう園の労働者のたとえ」をお話しになりますが、そのたとえ話の最後で、ぶどう園の主人はこう言います。「自分のものを自分のしたいようにしては、いけないのか。それとも、わたしの気前のよさをねたむのか」。この「ねたむのか」を元の言葉から直訳すると「目が悪くなるのか」となるのです。また、箴言の第28章22節に、「貪欲な者は財産を得ようと焦る。やって来るのが欠乏だとは知らない」とありますが、ここでの「貪欲な者」は、元の言葉では「悪い目」と記されています(箴言23:6も参照)。イエスさまが、「もし、あなたの目が悪ければ、あなたの全身が暗い」と言われるとき、それは妬みと貪欲によって、目つきが悪くなり、天に宝をたくわえることができない状態を指しているのです。前回、私たちは「天に宝をたくわえる」ことについて学びましたが、一言で言えば、天に宝をたくわえるとは、神さまの御心に従って、貧しい人々に施しをすることでありました。しかし、私たちが妬みや貪欲によって目が悪くなっているならば、私たちは天に宝を積むことができないのです。それができるのは、「目が澄んでいる人」だけであるのです。「目が澄んでいれば」と訳されている言葉も、元の言葉では「もし、あなたの目が良ければ」となります。「目が良い」とは視力が高いことではなく、むしろ「目つきが良いこと」です。そして、ヘブライ語の言い回しにおいて、「目が良い」とは「寛大で、物惜しみしないさま」を表すのです。箴言の第22章9節に、「寛大な人は祝福を受ける/自分のパンを裂いて弱い人に与えるから」とありますが、ここでの「寛大な人」は元の言葉では「良い目」と記されています。寛大で、物惜しみしない、目つきの良い人は、天に宝をたくわえることができるので、全身が明るく照らされるのです。そして、その人の全身を明るく照らす光こそ、神さまであられるのです。詩編の第27編に、「主はわたしの光、わたしの救い」とあるように、天に宝をたくわえる目の良い人の全身を、神の光が明るく照らすのです(ヤコブ1:17、一ヨハネ1:5参照)。ここでの「全身」は心と体からなる全体的な存在を指しています。寛大で、物惜しみしない良い目は、その心を明るくします。反対に、妬み深く、貪欲な悪い目は、その心を暗くしてしまうのです。イエスさまは、「だから、あなたの中にある光が消えれば、その暗さはどれほどであろう」と言われましたが、「あなたの中にある光」とは、光の源である神の霊、聖霊であります。キリストの弟子である私たちには、聖霊が与えられておりますけれども、私たちの目が悪いならば、ねたみや貪欲によって貧しい人々を見ようとせず、地上に宝をたくわえるならば、あなたの光は消えてしまい、あなたは行く先の分からぬ闇の中を歩むようになると、イエスさまは警告されるのです(一テサロニケ5:19参照)。そうならないために、イエスさまは、私たちが良い目で、貧しい人々を見、物惜しみせず施すことによって、神の光に照らされて歩むようにと言われるのです。

 24節をお読みします。

 だれも、二人の主人に仕えることはできない。一方を憎んで他方を愛するか、一方に親しんで他方を軽んじるか、どちらかである。あなたがたは、神と富とに仕えることはできない。

 イエスさまは、「だれも、二人の主人に仕えることはできない」と言われましたが、ここでの「仕える」は「奴隷として仕える」ことを意味します。だれも二人の主人の奴隷となり、二人の主人に兼ね仕えることはできません(口語訳聖書参照)。なぜなら、主人は奴隷に全身全霊をもって仕えることを要求するからです。それゆえ、奴隷は、「一方を憎んで他方を愛するか、一方に親しんで他方を軽んじるか、どちらかである」のです。ここでの「憎む」はヘブライ語の言い回しで、「より少なく愛する」という意味です。もし、奴隷が、同時に二人の主人に仕えようとするならば、一方をより少なく愛し他方を愛するようになるか、一方に親しんで他方を軽んじるようになるかして、主人に全身全霊をもって仕えることはできません。それゆえ、私たちには、神と富という二人の主人を同時に見ようとする目ではなくて、神という主人だけを見つめる、「単一の目」が求められるのです。そして、この単一の目こそが、22節の「澄んだ目」であるのです。イエスさまは、「からだのあかりは目である。目が澄んでいれば、あなたの全身が明るい」と言われましたが、「澄んだ目」は、「単一の目」とも訳すことができるのです。「単一の目」とは、神という主人だけを見つめる、二心のない純真な眼差しのことであります。そして、このように見て来ますと、「濁っている目」「悪い目」が神と富という二人の主人を同時に見ようとする二心の眼差しであることが分かって来るのです。23節の「目が濁っている」「目が悪い」とは、神にも富にも仕えることができると考えるものの見方を指しているのです。しかし、イエスさまは、今朝はっきりと、「あなたがたは、神と富とに仕えることはできない」と言われるのです。ここで「富」と訳されている言葉は、19節から21節で「富」と訳されていたのとは違う言葉であります。ここで「富」と訳されている言葉は、マモンという言葉で、富が人格化されたものであります。イエスさまは、弟子である私たちに、「あなたがたは神とマモンとに仕えることはできない」と言われているのです。これは私たちが今朝はっきりと心に刻まなければならない御言葉であります。なぜなら、私たちは、神と富とに兼ね仕えることができるのではないかと考えてしまうからです。しかし、もし、私たちが富に仕えるならば、富は主人として、私たちに全身全霊で仕えることを要求してくるのです。神さまは、申命記の第6章で、「聞け、イスラエルよ、あなたの主は唯一の主である。あなたは心を尽くし、魂を尽くし、力を尽くして、あなたの神、主を愛しなさい」と言われました。それと同じことを、富も私たちに要求してくるのです。それゆえ、イエスさまが言われるように、「私たちは神と富とに仕えることはできない」のです。これは、現実として不可能であるということであります。よって、イエスさまは、私たちに、神に仕えるか、富に仕えるかの二者択一を迫られるのです。では、「富に仕える」とは具体的にはどのようなことを言うのでしょうか?それは、「地上に宝をたくわえる」というであります。地上に高価な衣服や穀物や貴金属といった宝をたくわえて、それによって、自分の命を確保することができると考えるならば、私たちは神ではなく、富に仕えているのです。自分が神に仕えているか、それとも富に仕えているかを知る良い方法は、自分の拠り所をどこに置いているかを自らに問うてみることであります。もし、私たちが自分の拠り所を神ではなく、富においているならば、私たちの目は悪く、全身が暗いのです。もし、私たちが神ではなく、富に拠り所を置いているならば、私たち中におられる聖霊は消えかかっており、私たちは自分がどこへ行くのか分からない闇の中に落ちようとしているのです。使徒パウロは、「貪欲は偶像崇拝にほかならない」と記しましたが、神ではなく、富に拠り所を置く時、私たちは富を崇拝する偶像崇拝の罪を犯しているのです(コロサイ3:5参照)。そして、この富という偶像は、私たちを死の闇から救うことはできません。私たちを死の闇から救うことができるのは、イエス・キリストを死から三日目に復活させられた神であられるのです。それゆえ、私たちは天の国に生きる心の貧しい者たちとして、ただ神にのみ仕えるべきであるのです。

 それにしても、なぜ、イエスさまは、弟子たちに「あなたがたは、神と富とに仕えることはできない」と言われたのでしょうか?それは、神に仕えている弟子の中から富に仕える者たちが出てくることを御存じであったからです。使徒パウロは、テモテへの手紙一の第6章6節から10節で、こう記しています。新約の389ページです。

 もっとも、信心は、満ち足りることを知る者には、大きな利得の道です。なぜなら、わたしたちは、何も持たずに世に生まれ、世を去るときは何も持って行くことができないからです。食べる物と着る物があれば、わたしたちはそれで満足すべきです。金持ちになろうとする者は、誘惑、罠、無分別で有害なさまざまな欲望に陥ります。その欲望が、人を滅亡と破滅に陥れます。金銭の欲は、すべての悪の根です。金銭を追い求めるうちに信仰から迷い出て、さまざまなひどい苦しみに突き刺された者もいます。

 また、使徒ヨハネも第一の手紙の第2章15節から17節で次のように記しています。新約の442ページです。

 世も世にあるものも、愛してはいけません。世を愛する人がいれば、御父への愛はその人の内にありません。なぜなら、すべて世にあるもの、肉の欲、目の欲、生活のおごりは、御父から出ないで、世から出るからです。世も世にある欲も、過ぎ去って行きます。しかし、神の御心を行う人は永遠に生き続けます。

 このような警告の言葉を、私たちは自分への言葉として聞き、神にのみ仕える決意を新たにしたいと願います。では、今朝の御言葉に戻ります。新約の10ページです。

 キリストの弟子である私たちは、富に仕える者ではなく、神に仕える者であります。そのことをはっきりと自覚するとき、私たちが富に対してどのように関わればよいのかが分かってきます。まず確認しておきたいことは、富は偶像化されやすいが、富そのものは悪ではない、ということです。私たちは富を神さまから管理を委ねられたものとして、神さまの御心に適った仕方で用いて行くべきであります。今朝の御言葉で言えば、貧しい人々に施し、天に宝をたくわえるべきなのです。また、私たちが富ではなく、神に仕える者であることを確認する最も良い富の用い方は、富を神さまに献げることであります。私たちは礼拝において献金をしていますが、献金は、自分の持っている富が、神さまから与えられ、管理を委ねられたものに過ぎないことを表す信仰の営みであるのです。私たちは献金をささげることによって、自分が富ではなく神に仕える者であることを確認し、証ししているのです。私たちは献金によって、主を畏れることを学ぶのです(申命記14:23参照)。そもそも、富とは手段であり、道具であります。しかし、それが主人となるならば、つまり、富のために生きるようになるならば、それはどれほど暗い人生でありましょうか?しかし、私たちは富を神さまからの祝福として受け取り、その一部を神さまに献げることによって、自分たちが富のためにではなく、イエス・キリストの父なる神のために生きていることを確認し、証しするのです。そして、そのような人生こそが、全身が明るい人生であり、夕べになっても光がある人生なのであります。死の闇を照らす、イエス・キリストの復活の光が輝く人生であるのです。

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