悪い者から救ってください 2013年7月28日(日曜 朝の礼拝)
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悪い者から救ってください
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- 村田寿和 牧師
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マタイによる福音書 6章5節~15節
聖書の言葉
6:5 「祈るときにも、あなたがたは偽善者のようであってはならない。偽善者たちは、人に見てもらおうと、会堂や大通りの角に立って祈りたがる。はっきり言っておく。彼らは既に報いを受けている。
6:6 だから、あなたが祈るときは、奥まった自分の部屋に入って戸を閉め、隠れたところにおられるあなたの父に祈りなさい。そうすれば、隠れたことを見ておられるあなたの父が報いてくださる。
6:7 また、あなたがたが祈るときは、異邦人のようにくどくどと述べてはならない。異邦人は、言葉数が多ければ、聞き入れられると思い込んでいる。
6:8 彼らのまねをしてはならない。あなたがたの父は、願う前から、あなたがたに必要なものをご存じなのだ。
6:9 だから、こう祈りなさい。『天におられるわたしたちの父よ、/御名が崇められますように。
6:10 御国が来ますように。御心が行われますように、/天におけるように地の上にも。
6:11 わたしたちに必要な糧を今日与えてください。
6:12 わたしたちの負い目を赦してください、/わたしたちも自分に負い目のある人を/赦しましたように。
6:13 わたしたちを誘惑に遭わせず、/悪い者から救ってください。』
6:14 もし人の過ちを赦すなら、あなたがたの天の父もあなたがたの過ちをお赦しになる。
6:15 しかし、もし人を赦さないなら、あなたがたの父もあなたがたの過ちをお赦しにならない。」マタイによる福音書 6章5節~15節
メッセージ
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マタイによる福音書第6章9節から13節までには、主イエスが弟子たちに教えられた、いわゆる主の祈りが記されております。主の祈りは、全部で六つの祈願から成り立っておりますが、前半の三つは、「あなたのための祈り」、「天におられるわたしたちの父のための祈り」であり、後半の三つは、「わたしたちのための祈り」と言うことができます。イエスさまは、弟子である私たちに、神さまを「天におられるわたしたちの父よ」と呼びかけるように教えてくださり「御名が崇められますように」、「御国が来ますように」「御心が行われますように、天におけるように地の上にも」と祈るようにと教えてくださいました。祈りとは何より御父のために祈ることであり、そこで祈るべきは、御父の御名が聖なるものとされること、御父の王国が来ること、御父の御意志がなることであるのです。また、イエスさまは「わたしたちのための祈り」として、「わたしたちに必要な糧を今日与えてください」、「わたしたちの負い目を赦してください、わたしたちも自分に負い目のある人を赦しましたように」、「わたしたちを誘惑に遭わせず、悪い者から救ってください」と祈るように教えてくださいました。私たちは何を祈ったらよいのか分からない者たちでありますが、イエスさまは、私たちに、日ごとの糧と罪の赦しと悪い者からの救いを祈り求めるようにと教えてくださったのです。教えてくださっただけではなく、イエスさま御自身が、この主の祈りを祈って、地上の生涯を歩まれたのであります。イエスさまは、主の祈りを教えることによって、弟子たちに御自分の祈りを分け与えてくださったのです。
今朝は、第六の祈願、「わたしたちを誘惑に遭わせず、悪い者から救ってください」について学ぼうとしております。この第六の祈願は、前回学んだ第五の祈願と結びついております。なぜなら、「わたしたちを誘惑に遭わせず」の「誘惑」とは、罪への誘惑であるからです。私たちは罪赦された者として、私たちを罪への誘惑に遭わせないでください、と祈るのです。そうしますと、「悪い者から救ってください」の「悪い者」が「誘惑する者」であり、「悪魔」とか「サタン」と呼ばれる者であることが分かります。イエスさまは、弟子である私たちに、「わたしたちを罪への誘惑に遭わせず、悪魔から救ってください」と祈るようにと教えられたのです。先程、わたしは、主の祈りは、主イエスが弟子たちに教えられた祈りというだけではなく、主イエスが祈られた祈りでもあると申しました。イエスさまも、地上の生涯において、「わたしたちを誘惑に遭わせず、悪い者から救ってください」と祈られたのです。しかし、私たちはそのようなイエスさまが、悪魔から誘惑を受けるため、聖霊に導かれて荒れ野に行かれたことを忘れることはできません。第4章1節に、「さて、イエスは悪魔から誘惑を受けるために、霊に導かれて荒れ野に行かれた」と記されていますように、イエスさまは悪魔から誘惑を受けるのでありますが、悪魔から誘惑を受けるためにイエスさまを荒れ野へと導くのは神の霊、聖霊であるのです。そもそも、「わたしたちを誘惑に遭わせず、悪い者から救ってください」という祈りには、どこか引っかかるものがあります。それは、この祈りを私たちが御父に願い求めているということです。私たちは、誘惑する者、悪魔に、「わたしたちを誘惑しないでください」と祈っているのではありません。そうではなくて、私たちは、神さまに、「私たちを誘惑に遭わせないでください」と祈っているのです。このことは、私たちを誘惑するのは悪魔であるが、その悪魔も神さまの御許しのもとに活動しているに過ぎないことを教えています。ですから、第4章1節は、「さて、イエスは悪魔から誘惑を受けるため、霊に導かれて荒れ野に行かれた」と記しているのです。イエスさまを誘惑するのは悪魔でありますが、それは神さまの御許しのもとに行われているのです。このことを正しく理解するために、「誘惑」と訳されている言葉が、「試練」とも訳される言葉であることを心に留める必要があります。誘惑は、罪を犯させて、神さまとの関係を破壊しようとするものですが、試練は、信仰を強めて、神さまとの関係をより深く確かにしようとするものであります。誘惑と試練では、その目指す方向性が全く違うわけです。イエスさまの荒れ野の誘惑は、悪魔にとってはまさしく誘惑でありましたが、神さまにとっては、イエスさまをメシアとして確立するための試練、訓練であったのです。そして、イエスさまが、「わたしたちを誘惑に遭わせず、悪い者から救ってください」と祈るように言われた、誘惑は、私たちを神の子として鍛えようとされる神さまの試練ではなくて、私たちを神さまから遠ざけようとする悪魔の誘惑であるのです。このように聞きますと、それでは、神さまの試練か、悪魔の誘惑かをどのように見分ければよいのかと思われるかも知れません。これは大変難しいのでありますが、一つ言えることは、誘惑は罪への誘惑であるということです。言い換えれば、誘惑とは、神さまの御心に従わないようにと私たちを惑わし誘うものであるのです。イエスさまにとって、その誘惑とは、何より、十字架の死を避けて、御自分の栄光を現すことでありました。イエスさまは、荒れ野で悪魔から誘惑を受けられましたが、その最後の誘惑のところをお読みします。第4章8節から11節までです。
更に、悪魔はイエスを非常に高い山に連れて行き、世のすべての国々とその繁栄ぶりを見せて、「もし、ひれ伏してわたしを拝むなら、これをみんな与えよう」と言った。すると、イエスは言われた。「退け、サタン。『あなたの神である主を拝み、ただ主に仕えよ』と書いてある。」そこで、悪魔は離れ去った。すると、天使たちが来てイエスに仕えた。
ここでの悪魔は、「苦難を通って栄光へと至る主の僕の道ではなくて、わたしを拝むならば、今すぐ栄光を与えよう」とイエスさまを誘惑します。しかし、イエスさまは、聖書の御言葉に従うことによって、悪魔の誘惑を退けられるのです。しかし、この悪魔の誘惑は、これで終わりということではありませんでした。なぜなら、イエスさまは、十字架の道を遮ろうとするペトロに対しても、「サタン、引き下がれ」と言われるからです。第16章21節から23節までをお読みします。
このときから、イエスは御自分が必ずエルサレムに行って、長老、祭司長、律法学者たちから多くの苦しみを受けて殺され、三日目に復活することになっている、と弟子たちに打ち明け始められた。すると、ペトロはイエスをわきへお連れして、いさめ始めた。「主よ、とんでもないことです。そんなことがあってはなりません。」イエスは振り向いてペトロに言われた。「サタン、引き下がれ。あなたはわたしの邪魔をする者、神のことを思わず、人間のことを思っている。」
ここでイエスさまは、信仰告白したばかりのペトロに向って、「サタン、引き下がれ」と言われました。なぜ、イエスさまはペトロを「サタン」と呼ばれたのでしょうか?それは、ペトロの言葉に、悪魔の誘惑と同じものを聞き取ったからです。ペトロは、イエスさまのことを思って言ったのでありましょうけれども、しかし、それは十字架において罪の救いを成し遂げるという神の御心に反することであったのです。イエスさまは、ペトロに、「あなたはわたしの邪魔をする者、神のことを思わず、人間のことを思っている」と言われました。このイエスさまの御言葉を主の祈りに結びつけるならば、このように言うことができると思います。「あなたは、神のことをまず祈らずに、人間のことを祈っている」と。イエスさまは、最初に、天におられるわたしたちの父のために祈るように教えられました。そして、その次に、天の父のために祈るわたしたちのために祈るように教えられたのです。この説教の初めに、主の祈りは全部で六つの祈願からなる。前半の三つは、御父のための祈りであり、後半の三つは私たちのための祈りであると申しました。しかし、そこで注意しなければならないのは、前半の御父のための祈りと後半の私たちのための祈りを切り離して考えてはいけないということです。後半の私たちは、前半の御父のために祈る私たちであります。私たちは第四の祈願において、「御名が崇められますように、御国が来ますように、御心が行われますようにと祈る私たちに、必要な糧を今日与えてください」と祈っているのです。そして、同じことが第五の祈願と第六の祈願においても言えるのです。しかし、ペトロは、前半の御父のための祈りと後半のわたしたちのための祈りを切り離して、さらには、最初に私たちのための祈りを持ってきてしまったのです。それに対して、イエスさまは先ず神のことを思われて、歩まれたのです。主の祈りで言えば、「御名が崇められますように」「御国が来ますように」「御心が行われますように、天におけるように、地の上にも」と先ず祈られたのです。もし、イエスさまが、人間のことを第一に思って、「わたしたちに必要な糧を今日与えてください」という祈りを祈っていたら、イエスさまは、荒れ野の誘惑において、石をパンに変えていたのではないでしょうか?しかし、イエスさまは、主の祈りにありますように、何よりも先ず、御父のために祈るものであったがゆえに、神の御言葉によって悪魔の誘惑を退けられたのです。
十字架の死を避けるという誘惑は、十字架につけられる前夜、ゲツセマネの祈りにおいてイエスさまを激しく襲いました。第26章36節から46節までをお読みします。
それから、イエスは弟子たちと一緒にゲツセマネという所に来て、「わたしが向こうへ行って祈っている間、ここに座っていなさい」と言われた。ペトロおよびゼベタイの子二人を伴われたが、そのとき、悲しみもだえ始められた。そして、彼らに言われた。「わたしは死ぬばかりに悲しい。できることなら、この杯をわたしから過ぎ去らせてください。しかし、わたしの願いどおりではなく、御心のままに。」それから、弟子たちのところへ戻って御覧になると、彼らは眠っていたので、ペトロに言われた。「あなたがたはこのように、わずか一時もわたしと共に目を覚ましていられなかったのか。誘惑に陥らぬよう、目を覚まして祈っていなさい。心は燃えても、肉体は弱い。」更に、二度目に向こうへ行って祈られた。「父よ、わたしが飲まないかぎりこの杯が過ぎ去らないのでしたら、あなたの御心が行われますように。」再び戻って御覧になると、弟子たちは眠っていた。ひどく眠かったのである。そこで、彼らを離れ、また向こうへ行って、三度目も同じ言葉で祈られた。それから、弟子たちのところに戻って来て言われた。「あなたがたはまだ眠っている。休んでいる。時が近づいた。人の子は罪人たちの手に引き渡される。立て、行こう。見よ、わたしを裏切る者が来た。」
イエスさまが、十字架の死を受け入れることができたのは、イエスさまが、自分の願いよりも、御心が行われることを願われたお方であったからです。「御心が行われますように、天におけるように地の上にも」と祈られたイエスさまであるからこそ、その祈りの中で、誘惑に陥ることなく、神の御心を御自分の心とすることができたのです。それに対して、弟子たちは、「誘惑に陥らぬよう、目を覚まして祈っていなさい」と警告されていたにも関わらず、眠ってしまいました。それゆえ、弟子たちは皆、イエスさまが捕えられたとき、イエスさまを見捨てて逃げてしまったのです(26:56参照)。
十字架の死を避ける誘惑は、実際にイエスさまが十字架につけられたそのとき、最高潮を迎えます。第27章32節から44節までをお読みします。
兵士たちは出て行くと、シモンという名前のキレネ人に出会ったので、イエスの十字架を無理に担がせた。そして、ゴルゴタという所、すなわち「されこうべの場所」に着くと、苦いものを混ぜたぶどう酒を飲ませようとしたが、イエスはなめただけで、飲もうとされなかった。彼らはイエスを十字架につけると、くじを引いてその服を分け合い、そこに座って見張りをしていた。イエスの頭の上には、「これはユダヤ人の王イエスである」と書いた罪状書きを掲げた。折から、イエスと一緒に二人の強盗が、一人は右にもう一人は左に、十字架につけられていた。そこを通りかかった人々は、頭を振りながらイエスをののしって、言った。「神殿を打ち倒し、三日で建てる者、神の子なら、自分を救ってみろ。そして十字架から降りて来い。」同じように、祭司長たちも律法学者たちや長老たちと一緒に、イエスを侮辱して言った。「他人は救ったのに、自分は救えない。イスラエルの王だ。今すぐ十字架から降りるがいい。そうすれば、信じてやろう。神に頼っているが、神の御心ならば、今すぐ救ってもらえ。『わたしは神の子だ』と言っていたのだから。」一緒に十字架につけられた強盗たちも、同じようにイエスをののしった。
私たちは、十字架につけられたイエスさまをあざける人々の言葉に、悪魔の誘惑と同じ響きを聞き取ることができます。悪魔は、祭司長たちや律法学者たちや長老たちを通して、「今すぐ十字架から降りるがいい。そのようにして、神の子であることを示して見よ」と誘惑するのです。このように、悪魔は、人の背後に働き、人を用いて、イエスさまを罪へと誘惑するのです。そして、その罪とは、イエスさまにとって、主のしもべとしての苦難の死、十字架の死を避けることであったのです。私たちが、「わたしたちを誘惑に遭わせず、悪い者から救ってください」と祈るとき、その「悪い者」とは悪魔でありますが、悪魔は、堕落した天使でありますから、肉体を持たない霊的な存在であります。ですから、悪魔はこういうものだと絵で描いて見せることはできないのです。むしろ、悪魔は、人間を用いて、人間の背後に働いて、私たちを誘惑するのであります。それゆえ、使徒パウロは、エフェソの信徒への手紙第6章でこう記すのです。10節から13節までをお読みします。新約の359ページです。
最後に言う。主に依り頼み、その偉大な力によって強くなりなさい。悪魔の策略に対抗して立つことができるように、神の武具を身に着けなさい。わたしたちの戦いは、血肉を相手にするものではなく、支配と権威、暗闇の世界の支配者、天にいる悪の諸霊を相手にするものです。だから、邪悪な日によく抵抗し、すべてを成し遂げて、しっかり立つことができるように、神の武具を身に着けなさい。
パウロは、私たちの戦いは血肉を相手にするものではないと記します。「血肉」とは「人間」のことです。私たちの戦いは、人間を相手としているのではなく、その背後に働く支配と権威、暗闇の世界の支配者、天にいる悪の諸霊を相手にするものなのです。ですから、私たちは主に依り頼んで、その偉大な力によって強くしていただかなければならないのです。なぜなら、主イエスこそが、十字架の死によって悪魔に勝利されたお方であるからです。悪魔は、イエスさまを十字架の死を避けるようにと、何度も誘惑しましたけれども、イエスさまは、その十字架の死によって、悪魔を滅ぼされた。悪魔に勝利されたのです。ヘブライ人への手紙第2章14節、15節にこう記されています。新約の403ページです。
ところで、子らは血と肉を備えているので、イエスもまた同様に、これらのものを備えられました。それは、死をつかさどる者、つまり悪魔を御自分の死によって滅ぼし、死の恐怖のため一生涯、奴隷の状態にあった者たちを解放なさるためでした。
ヘブライ人への手紙は、イエスさまが十字架の死によって悪魔を滅ぼされたと記しております。それはイエスさまが十字架の死によって神さまに完全に従われたからであります。イエスさまは十字架の死に至るまで、神さまの御心に従われたことによって、死をつかさどる悪魔を滅ぼされたのです。その証拠に、神さまは、イエスさまを死から三日目に栄光の体へと復活させてくださったのです。そのようにして、死の恐怖のために一生涯、奴隷の状態にあった私たちを解放してくださったのです。しかし、そうは言っても、悪魔は今も、ほえたける獅子のように、だれかを食い尽くそうと探し回っています(一ペトロ5:8参照)。イエス・キリストは、十字架において悪魔を滅ぼされ、勝利されました。それは決定的な勝利であります。しかし、悪魔はまだ私たちをあらゆる方法を用いて、またあらゆる人々を用いて誘惑してくるのです(黙12:9参照)。イエスさまにとっての誘惑は、十字架の死を避けるということでした。では、その弟子である私たちにとっての誘惑とは何でしょうか?それは、イエスさまに従うことを止めるということです。イエスさまは、「わたしについて来たい者は、自分を捨て、自分の十字架を背負って、わたしに従いなさい」と言われましたけれども、悪魔は、私たちが、イエスさまに従わないようにと誘惑するのです。私たちは、主の祈りにおいて「われらを、こころみにあわせず、悪より救いいだしたまえ」と祈っているのですが、その最たる試みは、イエスさまへの信仰を捨ててしまう誘惑なのであります。そして、そのような誘惑を退けるために、私たちは勝利者であるイエス・キリストが教えてくださった主の祈りを祈るのです。天におられ、今も生きておられるイエス・キリストと共に主の祈りを祈るのです。そのとき、私たちは、ヨハネの手紙一に記されているような信仰の言葉を語り得る者たちとされます。今朝はそのところを読んで終わりたいと思います。ヨハネの手紙一第5章18節から21節までをお読みします。新約の447ページです。
わたしたちは知っています。すべて神から生まれた者は罪を犯しません。神からお生まれになった方が、その人を守ってくださり、悪い者は手を触れることができません。わたしたちは知っています。わたしたちは神に属する者ですが、この世全体が悪い者の支配下にあるのです。わたしたちは知っています。神の子が来て、真実な方を知る力を与えてくださいました。わたしたちは真実な方の内に、その御子イエス・キリストの内にいるのです。この方こそ、真実の神、永遠の命です。子たちよ、偶像を避けなさい。