御名が崇められますように 2013年6月30日(日曜 朝の礼拝)
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御名が崇められますように
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- 村田寿和 牧師
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マタイによる福音書 6章5節~15節
聖書の言葉
6:5 「祈るときにも、あなたがたは偽善者のようであってはならない。偽善者たちは、人に見てもらおうと、会堂や大通りの角に立って祈りたがる。はっきり言っておく。彼らは既に報いを受けている。
6:6 だから、あなたが祈るときは、奥まった自分の部屋に入って戸を閉め、隠れたところにおられるあなたの父に祈りなさい。そうすれば、隠れたことを見ておられるあなたの父が報いてくださる。
6:7 また、あなたがたが祈るときは、異邦人のようにくどくどと述べてはならない。異邦人は、言葉数が多ければ、聞き入れられると思い込んでいる。
6:8 彼らのまねをしてはならない。あなたがたの父は、願う前から、あなたがたに必要なものをご存じなのだ。
6:9 だから、こう祈りなさい。『天におられるわたしたちの父よ、/御名が崇められますように。
6:10 御国が来ますように。御心が行われますように、/天におけるように地の上にも。
6:11 わたしたちに必要な糧を今日与えてください。
6:12 わたしたちの負い目を赦してください、/わたしたちも自分に負い目のある人を/赦しましたように。
6:13 わたしたちを誘惑に遭わせず、/悪い者から救ってください。』
6:14 もし人の過ちを赦すなら、あなたがたの天の父もあなたがたの過ちをお赦しになる。
6:15 しかし、もし人を赦さないなら、あなたがたの父もあなたがたの過ちをお赦しにならない。」マタイによる福音書 6章5節~15節
メッセージ
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先程は、マタイによる福音書6章5節から15節までを読んでいただきましたが、9節から13節までには、主イエスが弟子たちに教えられた主の祈りが記されております。前回は、「天におられるわたしたちの父よ」という呼びかけの言葉について学びましたので、今朝は、第一の祈願である「御名が崇められますように」という祈りについて御一緒に学びたいと思います。
新共同訳聖書は、「御名が崇められますように」と翻訳していますが、元の言葉を直訳しますと、「あなたの名は聖なるものとされよ」と記されております。「御名が崇められますように」という祈りは、「あなたの名が聖なるものとされますように」という祈りであるのです。天の神様を、「アッバ、父よ」と呼ぶ私たちがまず祈り求めること、それは「御父の名が聖なるものとされること」であるのです。「聖なるものとされる」とは、「唯一まことの神である御父が、唯一まことの神としてほめたたえられますように」ということであります。前回、私たちは、天の神を「私たちの父」と呼ぶことができるのは、まことのイスラエルであり、神の独り子であるイエス・キリストにあってであるということを確認いたしました。そのような意味で、主の祈り全体が、イエス・キリストにある祈りであるのです。もっとはっきり言えば、主の祈りは、主イエスが祈られた祈りであるのです。ルカによる福音書11章に記されているように、主イエスは御自分の祈りを弟子たちに教えてくださったのであります。主の祈りは、主イエスが弟子たちに教えられた祈りでありますが、主イエスが祈られた祈りでもあるのです。そうであれば、「御名が崇められますように」という祈りは、主イエスがその生涯を通して、第一に祈り求められたことであるのです。私たちはヨハネによる福音書を学びましたけれども、ヨハネによる福音書において、十字架に上げられることは神の栄光として捉えられております。17章に、「大祭司の祈り」と呼ばれるイエス様の祈りが記されておりますけれども、その1節から5節に次のように記されています。新約聖書の202ページです。
イエスはこれらのことを話してから、天を仰いで言われた。「父よ、時が来ました。あなたの子があなたの栄光を現すようになるために、子に栄光を与えてください。あなたは子にすべての人を支配する権能をお与えになりました。そのために、子はあなたから委ねられた人すべてに、永遠の命を与えることができるのです。永遠の命とは、唯一のまことの神であられるあなたと、あなたのお遣わしになったイエス・キリストを知ることです。わたしは、行うようにあなたが与えてくださった業を成し遂げて、地上であなたの栄光を現しました。父よ、今、御前でわたしに栄光を与えてください。世界が造られる前に、わたしがみもとで持っていたあの栄光を。
このイエス様の祈りは、十字架に上げられる前の祈りでありますが、ここでイエス様は、もうすでに十字架に上げられて、さらに復活し、天へと挙げられたかのように祈っておられます。イエス様は十字架に上げられることによって、神の栄光を現される。それは言い換えれば、イエス様は十字架にあげられることによって、御父の名を聖なるものとされるのです。「御父の名が聖なるものとされますように」と祈り求められたイエス様は、十字架に上げられることによって、「御父の名を聖なるものとされる」のです。そのようにして、イエス様は、全世界のすべての民が、神を父と呼び、その御名を崇めることができるようにしてくださったのであります。
イエス・キリストの十字架において、御父の栄光が現れる、御父の御名が聖なるものとされる、とはどういうことでしょうか?それは唯一まことの神である御父が、唯一まことの神として示されるということであります。神様とはどのようなお方かということが、イエス・キリストの十字架において示されたわけであります。ヨハネ福音書3章16節に「神は、その独り子をお与えになったほどに、世を愛された。独り子を信じる者が一人も滅びないで永遠の命を得るためである」とありますように、イエス・キリストにあって、すべての人に対する神様の愛が示されたのです。使徒ヨハネはその第一の手紙で「神は愛です」と記しました(4:7,16)。なぜ、ヨハネは「神は愛です」と記すことができたのでしょうか?それは、神様が私たちの罪を償うために御子を世に遣わしてくださったからです(ローマ5:8も参照)。イエス・キリストの十字架は、すべての人に対する神様の愛のしるしであるのです。また、イエス・キリストの十字架は神様が正しいお方であることのしるしでもあります。なぜなら、イエス・キリストの十字架の死は、私たちの罪を償う、身代わりの死であるからです。神様は、イエス・キリストの十字架において、私たちのすべての罪を罰せられたのです。神様は何一つ罪のないイエス・キリストに、すべての人の罪を担わせて、十字架において裁かれたのであります。そして、神様は、そのイエス・キリストを死から三日目に栄光の体へと復活させられることにより、イエス・キリストにあってすべての人の罪が赦され、神の御前に義とされ、神の子とされることをお示しになられたのです。使徒パウロは、ローマの信徒への手紙3章21節から26節で次のように記しております。新約聖書の227ページです。
ところが今や、律法とは関係なく、しかも律法と預言者によって立証されて、神の義が示されました。すなわち、イエス・キリストを信じることにより、信じる者すべてに与えられる神の義です。そこには何の差別もありません。人は皆、罪を犯して神の栄光を受けられなくなっていますが、ただキリスト・イエスによる贖いの業を通して、神の恵みにより無償で義とされるのです。神はこのキリストを立て、その血によって信じる者のために罪を償う供え物となさいました。それは、今まで人が犯した罪を見逃して、神の義をお示しになるためです。このように神は忍耐してこられたが、今この時に義を示されたのは、御自分が正しい方であることを明らかにし、イエスを信じる者を義となさるためです。
イエス・キリストの十字架において現された神様の正しさは、罪を罪として罰するだけで終わりません。イエス・キリストにあって罪を赦し、正しい者とする正しさであります。神の正しさ、それはイエス・キリストを信じるすべての人を正しいとする、正しさであるのです。パウロが記しておりますように、「そこには何の差別もありません」。すべての人が「ただキリスト・イエスによる贖いの業を通して、神の恵みにより無償で義とされる」のです。
このように、イエス・キリストの十字架において現された神様は、愛なるお方であり、義なるお方であります。そして何よりすべての人に恵み深いお方であるのです。前回の説教で、私はエフェソ書の2章の御言葉を引用して、私たちはもともとは異邦人であり、神から遠く離れた者たちであると言いました。イエス・キリストがお生まれになる前は、神の民はもっぱら肉に割礼を受けた民族としてのユダヤ人であったわけです。しかし、イエス・キリストにあって、神の愛は、一民族を越えてすべての人に注がれていることが示されたのです。神は、イエス・キリストにあってすべての罪を赦してくださり、すべての人に無償で、神の義を与えてくださるのです。そのようにして、すべての人が、イエス・キリストにあって、神様を御父と呼び、御父の御名を崇めることができるようになったのです。神様を「アッバ、父よ」と呼び、「あなたの名が聖なるものとされますように」と祈られたイエス様の祈りは、そのようにして、実現されたのです。私たちも主の日の礼拝ごとに、「願わくは御名を崇めさせたまえ」と祈っておりますが、それは主イエスの祈りの成就として、祈っているのです。主イエスが、「御名を崇めさせたまえ」と祈り、その祈りを実現するために歩まれ、十字架に上げられたからこそ、私たちも神様を「私たちの父」と呼び、「御名をあがめさせたまえ」と祈ることができるのです。
ヨハネによる福音書は、1章17節、18節でこう記しています。「律法はモーセを通して与えられたが、恵みと真理はイエス・キリストを通して現れたからである。いまだかつて、神を見た者はいない。父のふところにいる独り子である神、この方が神を示されたのである」。ここでの「恵みと真理」は、旧約聖書で言えば、「慈しみとまこと」のことであります。神様の慈しみとまことは、父のふところから遣わされたイエス・キリストにおいて示されたのです。イエス・キリストにおいて、神様は御自分がどのようなお方であるのかを最終的に示されたのであります(ヘブライ1:1,2参照)。それは、どういうことかと言いますと、イエス・キリストを信じて神の子とされた私たちだけが、御父の御名を聖なるものとすることができる。御父の御名を崇めることができる、ということであるのです。
イエス様は弟子である私たちに、先ず初めに、「あなたの名が聖なるものとされますように」と祈ることを教えられました。そして、それがイエス様御自身の第一の祈りであったのです。しかし、私たちは神様を「私たちの父よ」と呼びかけながら、神様のために祈ることを考えたことがあったでしょうか?しかし、そのような私たちに、イエス様は、「御父の名が聖なるものとされますように」「御名が崇められますように」祈りなさいと教えられるのです。そのように祈りつつ地上の御生涯を歩まれたイエス様が、私たちにもそのように祈ってこの地上の生涯を生きることを教えてくださるのです。
「御名をあがめさせたまえ」という祈りの背後には、「御名があがめられていない」という現実があります。「唯一のまことの神である御父の名が崇められず、神々の名の一つとされている」。キリスト教は多くの宗教の一つに過ぎないと考えられている。確かに、そのように言うこともできるでしょう。しかし、聖書は、天地を造られた、イエス・キリストの父である神だけが唯一生けるまことの神であると教えているのです。その証人として、私たちは、神様から召されて、今、このところで礼拝をささげているのであります。神様はおられます。そして、その神様はイエス・キリストを十字架につけられるほどに、あなたを愛しておられる神です。その神様はイエス・キリスト信じるすべての人を正しい者、神の子としてくださる恵みの神です。そのように神様を正しく伝え、証しすることができるのは、イエス・キリストを信じて神の子とされた私たちだけであります。
そもそも、神様は御自分こそが唯一の生けるまことの神であることを示すために、イスラエルをエジプトから導き出され、契約を結び御自分の民とされたのでありました。しかし、イスラエルは約束の地カナンに定住するようになると、その土地の神であるバアルを拝むようになったのです。それゆえ、神様はバビロン帝国を用いて、イスラエルの民を裁き、遠い地へ移住させられたのです。そのようなイスラエルの民に語られた主の御言葉がエゼキエル書36章に記されています。少し長いですが、36章16節から28節までをお読みします。旧約聖書の1355ページです。
主の言葉がわたしに臨んだ。「人の子よ、イスラエルの家は自分の土地に住んでいたとき、それを自分の歩みと行いによって汚した。その歩みは、わたしの前で生理中の女の汚れのようであった。それゆえ、わたしは憤りを彼らのうえに注いだ。彼らが地の上に血を流し、偶像によってそれを汚したからである。わたしは彼らを国々の中に散らし、諸国に追いやり、その歩みと行いに応じて裁いた。彼らはその行く先の国々に言って、わが聖なる名を汚した。事実、人々は彼らについて、『これは主の民だ、彼らは自分の土地から追われて来たのだ』と言った。そこでわたしは、イスラエルの家がその行った先の国々で汚したわが聖なる名を惜しんだ。
それゆえ、イスラエルの家に言いなさい。主なる神はこう言われる。イスラエルの家よ、わたしはお前たちのためではなく、お前たちが行った先の国々で汚したわが聖なる名のために行う。わたしは、お前たちが国々で汚したため、彼らの間で汚されたわが大いなる名を聖なるものとする。わたしが彼らの目の前で、お前たちを通して聖なものとされるとき、諸国民は、わたしが主であることを知るようになる、と主なる神は言われる。わたしはお前たちを国々の間から取り、すべての地から集め、お前たちの土地に導き入れる。
わたしが清い水をお前たちの上に振りかけるとき、お前たちは清められる。わたしはお前たちを、すべての汚れとすべての偶像から清める。わたしはお前たちに新しい心を与え、お前たちの中に新しい霊を置く。わたしはお前たちの体から石の心を取り除き、肉の心を与える。また、わたしの霊をお前たちの中に置き、わたしの掟に従わせて歩ませ、わたしの裁きを守り行わせる。お前たちは、わたしが先祖に与えた地に住むようになる。お前たちはわたしの民となりわたしはお前たちの神となる。
ここに記されておりますように、神様は、御自分の御名が聖なるものとされることに並々ならぬ熱心を持っておられます。しかし、それでも、神様の御名が聖なるものとされるのは、あなたがた、イスラエルを通してであるのです。神様はイスラエルを通して御自分の名を聖なるものとするために、イスラエルに御自分の霊を与えて、清められるのであります。私たちはイエス・キリストを信じて洗礼を受け、聖霊を与えられた者たちでありますけれども、それは神様の御名を聖なるものとするためであるのです。詩編の102編19節に、「主を賛美するために民は創造された」とありますけれども、私たちはイエス・キリストにおいて御自身を現された神様だけが、唯一のまことの神であることをほめたたえるために、イエス・キリストにあって新しく造られた者たちであるのです。ですから、私たちは、何よりも、イエス・キリストにあって父となってくださった、神様の御名があがめられますようにと祈るのです。その祈りを実現するために、主の日ごとに礼拝をささげ、御名をほめたたえるのであります。そして、この祈りには、ここに集っていない人も、イエス・キリストを信じて、御父の御名をほめたたえることができますようにという祈りも含まれているのです。詩編の67編4節に、「神よ、すべての民が/あなたに感謝をささげますように。すべての民が、こぞって/あなたに感謝をささげますように」とありますように、私たちは、私たちを通して、すべての人が御父の御名を崇めることを祈り求めているのです。それゆえ、「御名を崇めさせたまえ」という祈りは、私たちの礼拝や伝道の根源にあるべき、祈りであるのです。私たちが礼拝をささげ、福音を宣べ伝える根源にあるもの、それが「御名をあがめさせたまえ」という祈りであります。イエス様は、弟子である私たちに「御名をあがめさせたまえ」と祈る言葉を教えられただけではなく、そのように心から願う熱心をも与えてくださったのです。