天におられる私たちの父よ 2013年6月23日(日曜 朝の礼拝)

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天におられる私たちの父よ

日付
説教
村田寿和 牧師
聖書
マタイによる福音書 6章5節~15節

聖句のアイコン聖書の言葉

6:5 「祈るときにも、あなたがたは偽善者のようであってはならない。偽善者たちは、人に見てもらおうと、会堂や大通りの角に立って祈りたがる。はっきり言っておく。彼らは既に報いを受けている。
6:6 だから、あなたが祈るときは、奥まった自分の部屋に入って戸を閉め、隠れたところにおられるあなたの父に祈りなさい。そうすれば、隠れたことを見ておられるあなたの父が報いてくださる。
6:7 また、あなたがたが祈るときは、異邦人のようにくどくどと述べてはならない。異邦人は、言葉数が多ければ、聞き入れられると思い込んでいる。
6:8 彼らのまねをしてはならない。あなたがたの父は、願う前から、あなたがたに必要なものをご存じなのだ。
6:9 だから、こう祈りなさい。『天におられるわたしたちの父よ、/御名が崇められますように。
6:10 御国が来ますように。御心が行われますように、/天におけるように地の上にも。
6:11 わたしたちに必要な糧を今日与えてください。
6:12 わたしたちの負い目を赦してください、/わたしたちも自分に負い目のある人を/赦しましたように。
6:13 わたしたちを誘惑に遭わせず、/悪い者から救ってください。』
6:14 もし人の過ちを赦すなら、あなたがたの天の父もあなたがたの過ちをお赦しになる。
6:15 しかし、もし人を赦さないなら、あなたがたの父もあなたがたの過ちをお赦しにならない。」マタイによる福音書 6章5節~15節

原稿のアイコンメッセージ

序.ルカ福音書にある主の祈りとの比較

 先程は、マタイによる福音書6章5節から15節までをお読みいただきましたが、9節から13節までには、イエス様が弟子たちに教えられた祈り、いわゆる「主の祈り」が記されております。主の祈りは、今朝の御言葉であるマタイによる福音書6章と、ルカによる福音書の11章の二箇所に記されておりますが、マタイ福音書とルカ福音書に記されている主の祈りでは、イエス様が弟子たちに教えられた文脈も違いますし、教えられた祈りにも違いが見られます。マタイによる福音書では、異邦人がくどくどと、多くの言葉を費やしているのに対して、あなたがたは簡潔に祈りなさい、との文脈の中で、主の祈りが教えられています。7節から9節までを通して読んでみます。「また、あなたがたが祈るときは、異邦人のようにくどくどと述べてはならない。異邦人は、言葉数が多ければ、聞き入れられると思い込んでいる。彼らのまねをしてはならない。あなたがたの父は、願う前から、あなたがたに必要なものをご存じなのだ。だから、こう祈りなさい。『天におられる私たちの父よ、御名が崇められますように』」。このように、イエス様は、私たちの父が、願う前から、私たちに必要なものを御存じであるゆえに、簡潔に祈るように、その簡潔な祈りの模範として、弟子たちに主の祈りを教えられたのです。では、ルカによる福音書では、どのような文脈で、イエス様は弟子たちに主の祈りを教えられているのでしょうか?ルカによる福音書11章1節から4節までをお読みします。新約聖書の127頁です。

 イエスはある所で祈っておられた。祈りが終わると、弟子たちの一人がイエスに、「主よ、ヨハネが弟子たちに教えたように、わたしたちにも祈りを教えてください」と言った。そこでイエスは言われた。「祈るときには、こう言いなさい。『父よ、御名が崇められますように。御国が来ますように。わたしたちに必要な糧を毎日与えてください。わたしたちの罪を赦してください、わたしたちも自分に負い目のある人を皆赦しますから。わたしたちを誘惑に遭わせないでください。』」

 ルカによる福音書では、弟子たちの方から、イエス様に、「わたしたちにも祈りを教えてください」と願い出ております。それも、「ヨハネが弟子たちに教えたように」とありますように、イエス様の弟子として他の集団とは区別されるような祈りを教えてくださいと願い出たのです。そして、イエス様はその弟子たちの願いを聞き入れて、主の祈りを教えてくださったのであります。このように、マタイ福音書とルカ福音書では、イエス様が主の祈りを教えられた文脈は異なっておりますが、これはマタイとルカが、それぞれに異なった伝承を用いて記しているからであると思いわれます。なぜなら、イエス様は弟子たちに事あるごとに、何度も主の祈りについて教えられたはずであるからです。ルカによる福音書の主の祈りを読んで気づきますことは、マタイによる福音書に記されている主の祈りよりも短いということであります。例えば、主の祈りの呼びかけの言葉は、マタイによる福音書ですと、「天におられる私たちの父よ」でありますが、ルカによる福音書では、「父よ」と記されています。そして、研究者の間では、短い、ルカ福音書の主の祈りの方が、イエス様が教えられたもともとの主の祈りに近いのではないか、と考えられているのです。もともとは、「父よ」と呼びかけるように教えられたものが、伝承として人から人へと伝えられていく中で、あるいは礼拝において用いられていく中で、「天におられる私たちの父よ」となったのではないかと、多くの研究者は考えているのであります。私たちは今朝、主の祈りが、ルカによる福音書11章にも記されていること、また、ルカ福音書では、その呼びかけが「父よ」と記されていることを念頭において、マタイ福音書の主の祈りの呼びかけの言葉、「天におられる私たちの父よ」について学びたいと思います。今朝の御言葉に戻ります。新約聖書の9頁です。

1.旧約聖書に見られる「私たちの父よ」という呼びかけ

 イエス様は、「天におられる私たちの父よ」と呼びかけるようにと、弟子である私たちに言われますが、神様を「私たちの父」と呼びかけることは、旧約聖書においても見ることができます。例えば、イザヤ書63章16節を見ますと、こう記されています。「あなたはわたしたちの父です。アブラハムがわたしたちを見知らず/イスラエルがわたしたちを認めなくても/主よ、あなたはわたしたちの父です。『わたしたちの贖い主』これは永遠の昔からあなたの御名です」。このように、イエス様がお生まれになる前から、神様を「私たちの父」と呼びかけることはあったのです。また、旧約聖書を読みますと、神様はイスラエルを「子」と呼ばれています。出エジプト記の4章22節に、「イスラエルはわたしの子、わたしの長子である」とありますように、イスラエルは特別な意味で、神の子であるのです。そのイスラエルの父としての神様の心情が、ホセア章11章に、次のように記されています。「まだ幼かったイスラエルをわたしは愛した。エジプトから彼を呼び出し、わが子とした。わたしが彼らを呼び出したのに/彼らはわたしから去って行き/バアルに犠牲をささげ/偶像に香をたいた。エフライムの腕を支えて/歩くことを教えたのは、わたしだ。しかし、わたしが彼らをいやしたことを/彼らは知らなかった。わたしは人間の綱、愛のきずなで彼らを導き/彼らの顎から軛を取り去り/身をかがめて食べさせた」。このように、神が父、イスラエルが子と呼ばれるのは、神様の創造の御業に由来するよりも、エジプトの奴隷状態から導き出されたイスラエルが、シナイ山において神様と契約を結び、特別な関係に入ったことによるのです。このように、イエス様が教えられる以前から、イスラエルの民も、神様を「わたしたちの父よ」と呼びかけて祈っていたのです。

2.神を「アッバ」と呼んだイエスの新しさ

 では、イエス様が教えられたことの「新しさ」というものは何もないのでしょうか?マタイ福音書に記されている呼びかけの言葉からは、イエス様が教えられたことの新しさというものは見えにくいのですが、ルカ福音書に記されている呼びかけの言葉を見るとき、イエス様の教えられた新しさ、その独自性が見てきます。ルカ福音書において、イエス様は、弟子たちに、祈るときには「父よ」と呼びかけるように教えておられますが、「父よ」と訳されている言葉は、イエス様が話されていたアラム語の「アッバ」ではないかと考えられています。そして、この「アッバ」という呼びかけは、家庭において、幼児が父親に対して用いる「おとうちゃん」とも訳せる言葉であるのです。このような親密な、砕けた言葉を神様に対して用いて者はだれもいなかったと言われています。イエス様の教えられた新しさ、その独自性は、神様を親しく「アッバ」と呼びかける、その親密さにあるのです。そして、イエス様ご自身が、神様に「アッバ、父よ」と呼びかけ、祈られたのであります。マルコによる福音書14章には、ゲツセマネで祈るイエス様の姿が記されておりますが、その36節で、イエス様は次のように祈られました。「アッバ、父よ、あなたは何でもおできになります。この杯をわたしから取りのけてください。しかし、わたしが願うことではなく、御心に適うことが行われますように」。このように、イエス様は、神様に、「アッバ、父よ」と親しく祈られたのです。そして、この父と子の親密さこそが、イエス様の弟子たちと他の集団とを区別する特徴であったのです。イエス様は、「アッバ、父よ」と祈られただけではなく、弟子である私たちにも「アッバ、父よ」と祈るようにと教えられました。そして、そのように祈ることができるように、イエス様は、「アッバ、父よ」と叫ぶ御自分の霊を私たちに与えてくださったのであります。使徒パウロは、ローマの信徒への手紙8章15節、16節で次のように記しています。「あなたがたは、人を奴隷として再び恐れに陥れる霊ではなく、神の子とする霊を受けたのです。この霊によってわたしたちは、『アッバ、父よ』と呼ぶのです。この霊こそは、わたしたちが神の子供であることを、わたしたちの霊と一緒になって証ししてくださいます」。このように、私たちに与えられている聖霊は、私たちを神の子とする、「アッバ、父よ」と呼ぶ御子の霊であるのです。イエス様は、弟子である私たちに神様を「アッバ、父よ」と呼ぶように教えられただけではなく、神様を父として信頼する幼子の心をも与えてくださったのです。そして、そのことは、マタイ福音書に記されている「天におられるわたしたちの父よ」という呼びかけにおいても同じことが言えるのです。つまり、イエス様は、弟子である私たちに「天におられる私たちのアッバよ」と呼びかけ祈るよう言われているのです。

3.マタイ福音書にある主の祈りの特徴

 マタイによる福音書で、イエス様は弟子たちに「天におられるわたしたちの父よ」と呼びかけるよう教えておられますが、「天におられる」という言葉は、神様の超越性、全能性へと私たちの思いを向けさせます。天におられる神様、天地万物を造られた全知全能の神様に、イエス様は、私たちの父よと呼びかけるようにと言われるのです。これは考えてみますと、まことに畏れ多いことです。何故、私たちは、天におられる神様を父と呼ぶことができるのかと思わずにはおれません。そのことは、私たちが以前はどのようなものであったかに思いを向けるならば、よく分かると思います。使徒パウロは、エフェソの信徒への手紙2章において、エフェソの信徒たちのかつての状態と今の状態について次のように記しています。

 だから、心に留めておきなさい。あなたがたは以前には肉によれば異邦人であり、いわゆる手による割礼を身に受けている人々からは、割礼のない者と呼ばれていました。また、そのころは、キリストとかかわりなく、イスラエルの民に属さず、神を知らずに生きていました。しかし、あなたがたは、以前は遠く離れていたが、今や、キリスト・イエスにおいて、キリストの血によって近い者となったのです。

 私たちは旧約聖書の区分で言えば、異邦人であり、神から遠く離れて生きていた者たちであります。しかし、そのような私たちが、今や、イエス・キリストにおいて、とりわけキリストの贖いの血潮によって近い者となったのです。神様を「お父ちゃん」と呼び、神様から「わたしの子よ」と言っていただける最も近い、父と子との交わりに生きるものとしていただいたのです。そして、それはただイエス・キリストにあってのことなのであります。まことのイスラエルであり(マタイ2:15)、神の愛する子である(マタイ3:17)イエス・キリストにあって、私たちは神のイスラエルの一員とされ(ガラテヤ6:16)、神の子とされたのです(ガラテヤ4:7)。「天におられるわたしたちの父よ」という呼びかけの言葉は、「天におられる全能の神が、イエス・キリストにあって、わたしたちの父となってくださった」という信仰の告白でもあるのです。

 また、マタイによる福音書にある主の祈りの呼びかけには、「わたしたちの父」と記されています。ルカ福音書にある主の祈りは、「父よ」と記されておりましたが、マタイ福音書では、「わたしたちの父よ」と呼びかけるようにと記されております。神様は「わたしの父」であると同時に、「わたしたちの父」でもあられます。このことは、主の祈りが礼拝において用いられた、教会の祈り、共同体の祈りであることを教えています。礼拝において、声を合わせて、「天におられるわたしたちの父よ」と呼びかけるとき、そこにおいて、自分と神様との関係だけではなくて、共に礼拝をささげている他者との関係も念頭に置かれております。天におられる神は、イエス・キリストを信じる私たちの父であり、私たちは神の子供たちとされているのです。私たちは、イエス・キリストに結ばれた神の子供たちとして、声を合わせ、心を合わせて「天にまします我らの父よ」と呼びかけているのです。題名は思い出せないのですが、ある本の中で、「天におられる私たちの父よ」という呼びかけの言葉で心が一杯になって、その先を祈ることができなくなってしまう女の子の話しを読んだことがあります。私たちは呼びかけの言葉と思って、すぐに願いに取りかかるのでありますが、「天におられる私たちの父よ」という呼びかけの言葉は、それだけで私たちの胸がいっぱいになってしまうような神様の恵みが詰まっている言葉であるのです。古代の神学者であるテルトゥリアヌスは、「主の祈りは福音の要約である」と言いましたが、ある神学者は、「天におられる私たちの父よ」という呼びかけは、「要約の要約である」と言いました。私たちが「天におられる私たちの父よ」と呼びかけて祈ることができる。ここに、私たちがイエス・キリストにあっていただいた恵みがどれほど豊かなものであるかが端的に言い表されているのです。

結.天の父の好意を信じる信仰

 イエス様は、弟子である私たちに、「天におられる私たちの父よ」と祈るように教えてくださいました。この「呼びかけ」には、神様にこちらを向いていただくというよりも、これから祈る私たちの心を整えるという働きがあるのではないかと思います。どのような言葉で呼びかけるかによって、その祈りの姿勢、態度というものが変わってくると思うのです。イエス様は、神様を「天におられる私たちのアッバ、父よ」と祈るように教えられました。そこに見えてくる祈りの心は、何よりも父親の好意を信じる心であります。イエス様は少し先の6章9節から11節で次のように言われています。「あなたがたのだれが、パンを欲しがる自分の子供に、石を与えるだろうか。魚を欲しがるのに、蛇を与えるだろうか。このように、あなたがたは悪い者でありながらも、自分の子供には良い物を与えることを知っている。まして、あなたがたの天の父は、求める者に良い物をくださるにちがいない」。「あなたがたの天の父は、求める者に良い物をくださるにちがいない」。この天の父の好意への信頼こそが、イエス・キリストが聖霊によって私たち一人一人に与えてくださった子としの心であるのです。使徒パウロは、ローマ書8章28節で、「神を愛する者たち、つまり、御計画に従って召された者たちには、万事が益となるように共に働くということを、わたしたちは知っています」と記しました。なぜ、パウロはこのようなことを断言することができたのでしょうか?それはパウロが、イエス・キリストから、「アッバ、父よ」と叫ぶ御子の霊をいただき、天の父の好意に信頼していたからです。私たちも同じです。「天にまします我らの父よ」と祈る私たちは、父なる神が良い物をくださるに違いないという神様の好意を信じているのです。私たちにも「アッバ、父よ」と叫ぶ御子の霊が与えられておりますから、私たちは天の父がどのようなときも最善を為してくださると信じ、祈り続けることができるのです。

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