祈るときには 2013年6月09日(日曜 朝の礼拝)
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マタイによる福音書 6章5節~15節
聖書の言葉
6:5 「祈るときにも、あなたがたは偽善者のようであってはならない。偽善者たちは、人に見てもらおうと、会堂や大通りの角に立って祈りたがる。はっきり言っておく。彼らは既に報いを受けている。
6:6 だから、あなたが祈るときは、奥まった自分の部屋に入って戸を閉め、隠れたところにおられるあなたの父に祈りなさい。そうすれば、隠れたことを見ておられるあなたの父が報いてくださる。
6:7 また、あなたがたが祈るときは、異邦人のようにくどくどと述べてはならない。異邦人は、言葉数が多ければ、聞き入れられると思い込んでいる。
6:8 彼らのまねをしてはならない。あなたがたの父は、願う前から、あなたがたに必要なものをご存じなのだ。
6:9 だから、こう祈りなさい。『天におられるわたしたちの父よ、/御名が崇められますように。
6:10 御国が来ますように。御心が行われますように、/天におけるように地の上にも。
6:11 わたしたちに必要な糧を今日与えてください。
6:12 わたしたちの負い目を赦してください、/わたしたちも自分に負い目のある人を/赦しましたように。
6:13 わたしたちを誘惑に遭わせず、/悪い者から救ってください。』
6:14 もし人の過ちを赦すなら、あなたがたの天の父もあなたがたの過ちをお赦しになる。
6:15 しかし、もし人を赦さないなら、あなたがたの父もあなたがたの過ちをお赦しにならない。」マタイによる福音書 6章5節~15節
メッセージ
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先程は、マタイによる福音書第6章5節から15節までをお読みいただきましたが、今朝は5節から8節までを学びたいと思います。
イエス様は、1節で、「見てもらおうとして、人の前で善行をしないように注意しなさい。さもないと、あなたがたの天の父のもとで報いをいただけないことになる」と言われました。この1節の御言葉は、2節から18節までの序文とも言える御言葉であります。なぜなら、イエス様は、見てもらおうとして、人の前でしないように注意すべき善行の具体例として、施しと祈りと断食について教えられているからであります。前回私たちは、施しについて学んだわけでありますが、今朝の御言葉で、イエス様は、祈りについて教えておられます。
5節をお読みします。
祈るときにも、あなたがたは偽善者のようであってはならない。偽善者たちは、人に見てもらおうと、会堂や大通りの角に立って祈りたがる。はっきり言っておく。彼らは既に報いを受けている。
イエス様は、「祈るときにも、あなたがたは偽善者のようであってはならない」と言われます。イエス様は、2節で、「あなたは施しをするときには、偽善者たちが人からほめられようと会堂や街角でするように、自分の前でラッパを吹き鳴らしてはならない」と言われましたが、私たちは、祈るときにも偽善者のようであってはならないのです。ここでの「偽善者」は、当時の宗教的指導者であった律法学者やファリサイ派の人々を指しております(23:5、13~36参照)。また、「偽善者」と訳されている言葉は、元々は「役者」という意味であります。役者は、人に見てもらうために、本心ではないことを演じるのが仕事でありますが、そのような意味で、律法学者やファリサイ派の人々は偽善者であるのです。なぜなら、彼らは、人に見てもらおうと会堂や大通りの角に立って祈ることを好んだからです。前回も言いましたように、施しと祈りと断食は、神様に対する宗教的な善行、敬虔な業と見なされておりました。施しと祈りと断食に熱心であればあるほど、その人は信心深い人と見なされたわけです。ですから、律法学者やファリサイ派の人々は、人に見てもらおうと、会堂や大通りの角に立って祈ることを好んだわけであります。イエス様は、「見てもらおうとして、人の前で善行をしないように注意しなさい。さもないと、あなたがたの天の父のもとで報いをいただけないことになる」と言われましたけれども、律法学者やファリサイ派の人々は、人に見てもらおうと、会堂や大通りの角に立って祈ることを好んだのであります。そのようにして彼らは祈りという宗教的な善行を、人に見てもらうための宗教的な演技としてしまっていたのです。彼らは神様に聞いていただくための祈りを、人に聞かせるための独り言としてしまっていたのです。それは彼らが、祈ることによって、人からの誉れを求めたからであります。祈ることは神様を相手として語らう最も宗教的な行為でありますけれども、その祈りにおいても彼らは人からの誉れを、すなわち自分の栄光を求めたのです。主イエスは、「はっきり言っておく。彼らは既に報いを受けている」と言われます。人からの誉れを求めて、人に見てもらおうと、会堂や大通りの角に立って祈ることを好む律法学者やファリサイ派の人々は、人々からの称讃という報いを既に受けているのです。それゆえ、彼らは天の父のもとで報いをいただくことができないのであります。
6節をお読みします。
だから、あなたが祈るときには、奥まった自分の部屋に入って戸を閉め、隠れたところにおられるあなたの父に祈りなさい。そうすれば、隠れたことを見ておられるあなたの父が報いてくださる。
律法学者やファリサイ派の人々が、人に見てもらおうと、会堂や大通りの角に立って祈ることを好んだのに対して、イエス様は弟子である私たちに、「だから、あなたが祈るときには、奥まった自分の部屋に入って戸を閉め、隠れたところにおられるあなたの父に祈りなさい」と言われます。ここで「あなた」と二人称単数形で記されていることに着目したいと思います。「あなた」と記されておりますように、ここでイエス様が教えておられるのは個人の祈りについてであります。私たちがそれぞれに神様の御前にささげる祈りの生活についてです。誤解のないように言っておきますが、イエス様は、今朝の御言葉で礼拝における代表祈祷や祈祷会を禁止しておられるのではありません。イエス様が今朝の御言葉で教えておられることは、私たち一人一人の個人の祈りについてであるのです。私たちの教会の憲法である『礼拝指針』の言葉を用いるならば、「個人礼拝」についてイエス様は教えてくださっているのです。イエス様は、律法学者やファリサイ派の人々を反面教師として、「あなたが祈るときは、奥まった自分の部屋に入って戸を閉め、隠れたところにおられるあなたの父に祈りなさい」と言われました。これはいささか極端にも思えますが、ここでイエス様が意図しておられることは、私たち一人一人の祈りの生活が人の目から全く隠されてしまうことであります。人の目から隠れたところで、「隠れたところにおられるあなたの父に祈りなさい」とイエス様は言われるのです。イエス様は、「わたしの父に祈りなさい」とは言われずに、「あなたの父に祈りなさい」と言われました。これはまことに驚くべきことであります。天地万物を造られた全知全能の神様が、イエス・キリストにあって、私たち一人一人の父となってくださったのです。私たちもイエス様と同じように、神様を「わたしの父」と呼ぶことができるのであります。神の独り子であり、神様を「わたしの父」と呼ぶことができるただ独りの御方が、弟子である私たち一人一人に、「あなたの父に祈りなさい」と言ってくださるのです。言ってくださるだけではありません。天におられ、今も生きて働いておられる主イエス・キリストは、「アッバ、父よ」と叫ぶ御自分の霊を私たちに与えてくださり、私たちが全幅の信頼をもって神の子として祈ることができるようにしてくださったのです(ローマ8:15,16、ガラテヤ4:6参照)。イエス・キリストを信じる私たち一人一人にとって、祈りは「わたしの父」との語らいであり、父と子との交わりであるのです。そのような父と子との親密な交わりのときに、第三者の目を意識したくないのはむしろ当然のことではないでしょうか?主イエスは人の目から隠れたところで、隠れたところにおられるあなたの父に祈りなさいと言われました。ここで父なる神様はかくれんぼをしているわけではありません。イエス様が言われていることは、人の目からも全く隠れているところにも、神様はおられるということであります。なぜなら、神様は天をも地をも満たしておられる御方であるからです(エレミヤ23:24参照)。イエス様は「人の目から隠れたところで、隠れたところにおられるあなたの父に祈るとき、隠れたことを見ておられるあなたの父が報いてくださる」と言われます。イエス・キリストにあって、私たち一人一人の父となってくださった神様は、私たちの願いを越えて、私たちの益となるように最善のことをしてくださいます(エフェソ3:20、ローマ8:28参照)。父なる神は私たち一人一人の祈りに報いを与えてくださる御方であるのです。
ここでイエス様が教えておられるのは、いわゆる密室の祈りでありますが、神学校の前校長であった牧田先生が祈りについて語った講演の中で強調しておられるのも、個人の密室の祈りであります。その講演の一部を抜粋してきましたので、お読みします。牧田先生は、イエス様が人里離れたさびしい所で祈られたこと、また、宗教改革がルターの祈りの戦いから始まったことを指摘した後で次のように記しています。
④私たちにとっての個人の祈りの重要性
これは今日でも同じでしょう。私たちのうちに信仰的な革新が起こるのは多くの場合祈りの戦いを通してです。悔い改めというようなことがどのように起こるのでしょうか。教会の説教を聞いているときに起こるのでしょうか。勿論、それはあり得ると思います。しかしその場合でさえ、実際には多くの場合、説教を通して自己の罪が示され、本当の悔い改めと決断が実際に起こるのはやはり一人になって祈りの中にあるときではないかと私は考えています。一人神の前に出て神を畏れつつ跪いて祈るとき、生ける神の現前に立たされ、自己の最も深いところで罪を認めさせられ、心からの悔い改めと回心がもたらされ、霊的革新が与えられるのです。一人で神の前に出て、神を畏れつつ祈りの中で御言葉に聞こうとしない者は恐らく悔い改めることができないでしょう。悔い改めない者には罪の赦しはわかりません。罪の赦しのわからない者には十字架における神の愛はわかりません。神の愛がわからない者には喜びはわかりません。喜びのわからない者に活力あるキリスト者の生き方は生まれて来ません。
改革派教会の私たちの間で、個人の密室の祈りというこの面での訓練が弱いのではないかと私は思っています。今日、世界の改革派教会においてスピリテュアリティ(霊性)の問題が問われています。それが問われている理由の一つは、この点についての不十分さの自己反省が込められているのではないかと私は見ています。この問題点は牧師たちについても同じです。密室における個人的な深い祈りを欠く牧師は、どれほど聖書研究をし、神学を学んでも、結局語るべきものを持ち得ないでしょう。(以下、省略)
また、牧田先生は、イエス様の時代のユダヤ人が朝と午後三時と夜に祈りの時を持っていたこと、そしてその習慣が初代教会にも引き継がれていたことを指摘した後で、個人の祈りと時間の問題について次のように記しています。
③私たちの場合
この意味で、私たちの祈りの生活においてもある定期的な祈りの習慣は持つ方が良いと思います。得に、朝と夜の祈りの習慣は確立したいものです。朝に一日のはじめにその日一日の歩みのために祈り、夜にはその日一日の歩みを神に感謝しあるいは悔い改めて一日を閉じる。これは神と共に歩む生活にとっては欠かすことのできないものではないかと思います。(以下、省略)
④個人における祈祷生活の規則性と自由
但し、これはあくまでも原則的な問題であって、方法は必ずそうでなければならないということではありません。人によっては集中できる時間帯も異なるでしょう。要はその人なりの祈りのリズムを生活の中に作ることが大切です。(以下、省略)
少し長く引用しましたが、牧田先生の言葉は、今朝の御言葉を私たちが実践していくうえで、大きな助けになるのではないかと思います。なぜなら、イエス様は、父なる神様との親密な時間を、それぞれの生活において確立していくことを私たち一人一人に求めておられるからです。
7節と8節をお読みします。
また、あなたが祈るときは、異邦人のようにくどくどと述べてはならない。異邦人は、言葉数が多ければ、聞き入れられると思い込んでいる。彼らのまねをしてはならない。あなたがたの父は、願う前から、あなたがたに必要なものを御存じなのだ。
ここでイエス様は、異邦人、まことの神を知らない異教徒を反面教師として、祈りについて教えておられます。イエス様は弟子である私たち一人一人に、「あなたが祈るときは、異邦人のようにくどくどと述べてはならない」と言われます。聖書の教える祈りとは、神を相手とする語らいでありますが、異邦人にとって祈りとは、「神々の力にすがってよい事が起こるように願うこと」でありました(新明解国語辞典の「祈る」の項参照)。ですから、異邦人はその願いをくどくどと述べることによって、なんとか神々を説得して、自分の願いを聞いてもらおうとするのです。「異邦人は、言葉数が多ければ、聞き入れられると思いこんでいる」とありますように、彼らは神が自分の祈りを聞き入れてくださるかどうかは、自分の言葉数にかかっていると思っていたのです。しかし、イエス様は、「彼らのまねをしてはならない」、「彼らと同じようであってはならない」と言われます。それは、私たちの父は、願う前から、私たちに必要なものを御存じであるからです。私たちの父は、私たちの願いを聞いて、そこで初めて私たちの必要を知られるようなお方ではありません。私たちの父は、私たちが願う前から私たちに必要なものを御存じであられます。ですから、私たちはまことの神を知らない異教徒のように、くどくどと述べてはならないのです。イエス様は、「あなたがたの父は、願う前から、あなたがたに必要なものを御存じなのだ」と言われましたが、こう聞きますと、それでは祈らなくてもよいのではないかと思われるかも知れません。願う前から私たちの必要を知っているならば、私たちが祈る必要はないのではないかと思われるかも知れません。しかし、神はあなたの父として、子であるあなたの祈りを欲しておられるのです。人間の親子のことを考えましても、親は子供の必要を知っていても、それを子供が自分の口で求めることを喜ぶものであります。子供が求める前に必要なものを何でも与えてしまう親は良い親とは言えません。そのようなことをすれば、子供は自分が何を必要としているのか分からなくなってしまうからです。また、子供は自分の口で求めた願いを親がかなえてくれたとき、信頼を深め、感謝するものであります。願い求める先に与えられては、信頼を深めることも、感謝することもできません。このように、私たちの父が、願う前から、私たちに必要なものを知っておられることは、祈らなくてよい理由とはならないのです。むしろ、私たちの父が願う前から私たちに必要なものを御存じだからこそ、私たちは祈ることができるのです。私たちの父は、私たちが祈る前から、私たちに必要なものを御存じの御方であります。その御方が私たちの祈りを欲してくださり、聞き入れてくださるのは、私たちがイエス・キリストにあって神の子とされているゆえであるのです。ですから、イエス様は、「だから、こう祈りなさい」と、弟子である私たちに「主の祈り」を教えてくださるのです。