施しをするときには 2013年6月02日(日曜 朝の礼拝)

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施しをするときには

日付
説教
村田寿和 牧師
聖書
マタイによる福音書 6章1節~4節

聖句のアイコン聖書の言葉

6:1 「見てもらおうとして、人の前で善行をしないように注意しなさい。さもないと、あなたがたの天の父のもとで報いをいただけないことになる。
6:2 だから、あなたは施しをするときには、偽善者たちが人からほめられようと会堂や街角でするように、自分の前でラッパを吹き鳴らしてはならない。はっきりあなたがたに言っておく。彼らは既に報いを受けている。
6:3 施しをするときは、右の手のすることを左の手に知らせてはならない。
6:4 あなたの施しを人目につかせないためである。そうすれば、隠れたことを見ておられる父が、あなたに報いてくださる。」マタイによる福音書 6章1節~4節

原稿のアイコンメッセージ

 今朝はマタイによる福音書6章1節から4節までの主イエスの御言葉に聞きたいと願っております。

 1節をお読みします。

 見てもらおうとして、人の前で善行をしないように注意しなさい。さもないと、あなたがたの天の父のもとで報いをいただけないことになる。

 主イエスは弟子である私たちに「見てもらおうとして、人の前で善行をしないように注意しなさい」と言われます。主イエスは善行をしないように命じているのではありません。主イエスは私たちが善行をすることを求めておられます。しかし、主イエスは、見てもらおうとして、人の前で善行をしないように注意しなさいと言われるのです。ここで「善行をする」という言葉が出てきますが、元の言葉を直訳しますと、「あなたがたの義を行う」となります(口語訳聖書参照)。これまで主イエスは、律法学者やファリサイ派の人々にまさる義について教えられましたが、今朝の御言葉では、義を行う姿勢について教えられるのです。また、今朝の御言葉の直前で、主イエスは「だから、あなたがたの天の父が完全であられるように、あなたがたも完全な者となりなさい」と言われました。その御言葉に続けて、主イエスは弟子である私たちに義を行う姿勢について教えられるのです。

 ここでの「善行」とは、具体的には2節から4節までに記されている「施し」と、5節から15節までに記されている「祈り」と、16節から18節までに記されている「断食」であります。施しと祈りと断食は、キリストの弟子である私たちにとっても宗教的な善行、敬虔な業であるのです。

 主イエスは、「さもないと、あなたがたの天の父のもとで報いをいただけないことになる」と言われます。この主イエスの御言葉から教えられますことは、「天の父は、私たちの善行に報いを与えてくださる」ということです。天の父は、私たちの善行に報いを与えてくださる。しかし、見てもらおうとして、人の前で善行をするならば、その報いをいただくことができない、と主イエスは言われるのです。このように聞きますと、報いをいただくために、善行を行うのは不純ではないか、と思われるかもしれません。しかし、私たちがはっきりと弁えておかなければならないことは、聖書の神様は報酬を与えてくださる神様であるということです。例えば、旧約聖書の創世記の第15章1節にこう記されています。「これらのことの後で、主の言葉が幻の中でアブラムに臨んだ。『恐れるな、アブラムよ。わたしはあなたの盾である。あなたの受ける報いは非常に大きいであろう』」。また、主イエスもマタイによる福音書19章29節で、「わたしの名のために、家、兄弟、姉妹、父、母、子供、畑を捨てた者は皆、その百倍もの報いを受け、永遠の命を受け継ぐ」と弟子たちに言われました。さらには、ヘブライ人への手紙11章6節には、「信仰がなければ、神に喜ばれることはできません。神に近づく者は、神が存在しておられること、また、神は御自分を求める者たちに報いてくださる方であることを、信じていなければならないからです」と記されています。神に近づく私たちは、「神は御自分を求める者たちに報いてくださる方である」ということを信じていなければならないのです。私たちが今朝の御言葉で問われていることは、先ずそのことであります。私たちは、神様が私たちの善行に報いてくださるお方であることを信じているでしょうか?報いを期待して善行をすることは不純に思えると言い訳をして、神様が求めておられる義をさぼっているのではないでしょうか?しかし、主イエスは、私たちの善行に天の父は報いてくださる、ほうびをくださると言われるのです。そのようにして、主イエスは、私たちが熱心に善行を行うようにと励まされるのです。

 2節をお読みします。

 だから、あなたは施しをするときには、偽善者たちが人からほめられようと会堂や街角でするように、自分の前でラッパを吹き鳴らしてはならない。はっきりあなたがたに言っておく。彼らは既に報いを受けている。

 主イエスは、「見てもらおうとして、人の前で善行をしないように注意しなさい。さもないと、あなたがたは天の父のもとで報いをいただけないことになる」と言われた後で、「だから、あなたは施しをするときには、偽善者たちが人からほめられようと会堂や街角でするように、自分の前でラッパを吹きならしてはならない」と言われます。「善行」の具体例として「施し」が挙げられておりますが、貧しい人に施すことは、神様が求めておられる善行でありました。申命記の15章11節にこう記されています。「この国から貧しい者がいなくなることはないであろう。それゆえ、わたしはあなたに命じる。この国に住む同胞のうち、生活に苦しむ貧しい者に手を大きく開きなさい」。このように、生活に苦しむ貧しい者に施すことは神様が御自分の民に求めておられる善行であるのです。私たちが「施し」と聞きますと、助け合いという観点から考えますけれども、「施し」は神様の求めに応じてなされる宗教的な善行、敬虔の業であるのです。また、「施し」は、神様が必ず報いてくださる善行であります。箴言の19章17節に、こう記されています。「弱者を憐れむ人は主に貸す人。その行いは必ず報いられる」。貧しい人に施す人は、主に貸す人であり、その支払いは主がしてくださる、というのです。

 主イエスは、「だから、あなたは施しをするときには、偽善者たちが人からほめられようと会堂や街角でするように、自分の前でラッパを吹き鳴らしてならない」と言われましたが、ここで「あなたは」と二人称単数形で言われていることに着目したいと思います。4節にも「あなたの施し」とあり、「あなたに報いてくださる」とありますように、ここでの施しは、神様の御前に立って、あなたが自分の自由な意志をもってする施しであるのです。私は正直申しまして、これほどまでに「施し」を宗教的な事柄として考えたことはありませんでした。しかし、イエス様によれば、施しとは、神様の御前でなされる、個人の自由意志による義の業であるのです。しかし、その施しを、偽善者たちは、人からほめられようと会堂や街角でしていたのです。そのようにして、彼らは自分の前でラッパを吹き鳴らしていた。つまり、自分の施しを人々に吹聴していた、言いふらしていたのです。「偽善者たち」とは、当時の宗教的指導者であった律法学者やファリサイ派の人々のことであります(23:5、13~36参照)。主イエスは、律法学者やファリサイ派の人々を反面教師として、弟子である私たちに善行をするときの姿勢について教えられるのです。なぜ、主イエスは「見てもらおうとして、人の前で善行をしないように注意しなさい」と言われるのか?また、「あなたは施しをするときには、偽善者たちが人からほめられようと会堂や街角でするように、自分の前でラッパを吹き鳴らしてはならない」と言われるのか?それは、そのことによって「施し」が宗教的な善行ではなく、宗教的な演技となってしまうからであります。「施し」が神様の御前になされる行為ではなくて、人々の前になされる行為となってしまうからです。ここで「偽善者」と訳されている言葉は、元々は演劇の「役者」を意味します。役者は、人々に見てもらうために、本心ではないことを演じます。なぜ、主イエスは、「私たちに見てもらおうとして、人の前で善行をしないように注意しなさい」と言われたのか?それは、私たちが人の目を意識して、宗教的な演技をしないようにするためであります。人の目を意識するとき、「施し」は本来の目的を見失ってしまうのです。この「施し」と訳されている言葉は、元々は「憐れみ」という言葉であります。「施しの業」とは何か?それは「憐れみの業」です。神様は、「生活に苦しむ貧しい者に手を大きく開きなさい」と言われましたけれども、そこで求められるのは何より、「生活に苦しむ貧しい者」を憐れむ心です。その憐れみの心が、施すという行為によって表されるわけであります。しかし、見てもらおうとして、人の前で施しをするとき、そこに「生活に苦しむ貧しい者」への憐れみの心は必要ありません。なぜなら、その施しの目的は、「人からほめられる」ことへと変わってしまっているからです。ですから、イエス様は、「はっきりあなたがたに言っておく。彼らは既に報いを受けている」と言われるのです。見てもらおうと、人の前でなされる施しは、人からの誉れを受けるための宗教的演技でありますから、人からの誉れを受けるとき、既に報いを受けたことになるわけです。ですから、彼らは、天の父のもとで報いをいただくことができないわけであります。

 3節から4節前半までをお読みします。

 施しをするときは、右の手のすることを左の手に知らせてはならない。あなたの施しを人目につかせないためである。

 主イエスは、「律法学者やファリサイ派の人々が、人からほめられようと会堂や街角でするように、自分の前でラッパを吹き鳴らしてはならない」と言われたのに続いて、弟子である私たちに、「施しをするときは、右の手のすることを左の手に知らせてはならない」と言われます。これは意味不明な言葉でありますが、おそらく、「施しをするとき、自分自身さえも意識するな」ということであると思います。私たちは、自分がした善行、施しというものを覚えているものでありますが、そのようなことをするなと主イエスは言われるのです。なぜなら、そのような施しは、自分で自分をほめるためになされる演技となってしまうからです。ですから、主イエスが、「あなたの施しを人目につかせないためである」と言われるとき、その「人目」の中には、自分の目も含まれているわけです。

 主イエスは、「施しをするときは、右の手のすることを左の手に知らせてはならない」と言われました。しかし、そのようなことができるのでしょうか?それが問題であります。そして、私はこの問題を解く糸口が、イエス様が語られた「良いサマリア人」のお話しの中にあるのではないかと思うのです。ルカによる福音書10章25節から37節までを少し長いですが、お読みします。

 すると、ある律法の専門家が立ち上がり、イエスを試そうとして言った。「先生、何をしたら、永遠の命を受け継ぐことができるでしょうか。」イエスが、「律法には何と書いてあるか。あなたはそれをどう読んでいるか」と言われると、彼は答えた。「『心を尽くし、精神を尽くし、力を尽くし、思いを尽くして、あなたの神である主を愛しなさい。また、隣人を自分のように愛しなさい』とあります。」イエスは言われた。「正しい答えだ。それを実行しなさい。そうすれば命が得られる。」しかし、彼は自分を正当化しようとして、「では、わたしの隣人とはだれですか」と言った。イエスはお答えになった。「ある人がエルサレムからエリコへ下って行く途中、追いはぎに襲われた。追いはぎはその人の服をはぎ取り、殴りつけ、半殺しにしたまま立ち去った。ある祭司がたまたまその道を下って来たが、その人を見ると、道の向こう側を通って行った。同じように、レビ人もその場所にやって来たが、その人を見ると、道の向こう側を通って行った。ところが、旅をしていたあるサマリア人は、そばに来ると、その人を見て憐れに思い、近寄って傷に油とぶどう酒を注ぎ、包帯をして、自分のろばに乗せ、宿屋に連れて行って介抱した。そして、翌日になると、デナリオン銀貨二枚を取り出し、宿屋の主人に渡して言った。『この人を介抱してください。費用がもっとかかったら、帰りがけに払います。』さて、あなたはこの三人の中で、だれが追いはぎに襲われた人の隣人になったと思うか。」律法の専門家は言った。「その人を助けた人です。」そこで、イエスは言われた。「行って、あなたも同じようにしなさい。」

 追いはぎに襲われ服をはぎ取られ、殴りつけられ半殺しにされて倒れていた「ある人」は、ユダヤ人であったと思われます。そして、その「ある人」を助けたのは、ユダヤ人と敵対関係にあった「サマリア人」でありました。このサマリア人は、倒れている人を見ると、憐れに思い、近寄って、治療をし、自分のろばに乗せ、宿屋につれて行って介抱しました。ここで、「憐れに思い」と訳されている言葉は、直訳すると「はらわたのちぎれる思い」であります。このサマリア人は、倒れている人を見たとき、断腸の思いに駆られたのです。その憐れみの心から、彼は倒れている人を治療し、自分のロバに乗せ、宿屋に連れて行って介抱したのです。そして、翌日なると、デナリオン銀貨二枚を取り出して、宿屋の主人に渡し、こう言ったのです。「この人を介抱してください。費用がもっとかかったら、帰りがけに払います」。このとき、このサマリア人は、人の目を気にしていたでしょうか?あるいは、自分は今、善行をしていると意識していたでしょうか?私は全くそのようなことはなかったと思います。このサマリア人は、倒れている人を憐れみに思って、その憐れみの心に突き動かされたにすぎません。このとき、このサマリア人は人の目からも、また自分の目からも自由であったのです。では、なぜ、このサマリア人は、倒れている人を見て憐れみに思ったのか?なぜ、このサマリア人のはらわたはちぎれたのでしょうか?それは、彼が倒れている人に自分を見出したからです。倒れた人の脇を通り過ぎて行った、祭司やレビ人はそうではありませんでした。彼らは倒れている人に自分を見出すことができませんでした。ですから、彼らは倒れている人の脇を通り過ぎて行ったのです。そのようにして、彼らは「隣人を自分のように愛しなさい」という掟を守ることに失敗するのです。しかし、このサマリア人は、倒れている人に自分を見出して、介抱することによって、「隣人を自分のように愛しなさい」という掟を守るわけであります。そして、ここに、主イエスの御言葉、「施しをするとき、右の手のすることを左の手に知らせてはならない」という御言葉を実践する手掛かりがあるのです。言い換えるならば、主イエスが求めておられることは、「隣人を自分のように愛しなさい」という戒めの具体化としての「施し」であるのです。私たちは人にしてあげたことは、よく覚えています。しかし、自分のためにしたことは当然のこととして覚えておりません。それと同じように、私たちが生活に苦しむ貧しい人に自分を見出すとき、その人のための施しはもはや覚えておく必要がないのです。憐れみの業である施しが、憐れみの心からなされるとき、私たちは神様から報いをいただくことさえも忘れてしまうのです。しかし、そのようなあなたに、天の父は報いてくださると主イエスは言われるのです。

 4節の後半をお読みします。

 そうすれば、隠れたことを見ておられる父が、あなたに報いてくださる。

 新共同訳聖書は「そうすれば」と訳していますが、口語訳聖書は「すると」と訳しています。私は、口語訳聖書の「すると」という訳の方がよいのではないかと思います。なぜなら、右の手のすることを左の手に知らせないで施しをするとき、そこには神様の報いを受けることさえも忘れているからです。誰からもほめられることを期待していないとこで、主イエスは、「隠れたことを見ておられる父が、あなたに報いてくださる」と言われるのです。私たちの父なる神様は、隠れたことを見ておられ、私たちの施しを知っていてくださる。それゆえ、私たちは、人の目からも、自分の目からも自由にされて、憐れみの業をすることができるのです。施しを損得の問題ではなくて、愛の業として行うことができるのです。

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