天の父の子となるために 2013年5月26日(日曜 朝の礼拝)
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天の父の子となるために
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- 村田寿和 牧師
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マタイによる福音書 5章43節~48節
聖書の言葉
5:43 「あなたがたも聞いているとおり、『隣人を愛し、敵を憎め』と命じられている。
5:44 しかし、わたしは言っておく。敵を愛し、自分を迫害する者のために祈りなさい。
5:45 あなたがたの天の父の子となるためである。父は悪人にも善人にも太陽を昇らせ、正しい者にも正しくない者にも雨を降らせてくださるからである。
5:46 自分を愛してくれる人を愛したところで、あなたがたにどんな報いがあろうか。徴税人でも、同じことをしているではないか。
5:47 自分の兄弟にだけ挨拶したところで、どんな優れたことをしたことになろうか。異邦人でさえ、同じことをしているではないか。
5:48 だから、あなたがたの天の父が完全であられるように、あなたがたも完全な者となりなさい。」
マタイによる福音書 5章43節~48節
メッセージ
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イエス様は、5章17節で、「わたしが来たのは律法や預言者を廃止するためだ、と思ってはならない。廃止するためではなく、完成するためである」と言われました。イエス様は私たちに代わって律法を完成されたお方として、私たちにも律法を守るようにと教えられるのです。また、イエス様は弟子である私たちに、律法学者やファリサイ派の人々にまさる義を求められるのであります。イエス様は5章20節でこう言われました。「言っておくが、あなたがたの義が律法学者やファリサイ派の人々の義にまさっていなければ、あなたがたは決して天の国に入ることはできない」。そして、イエス様は、「あなたがたも聞いているとおり昔の人は何々と命じられている。しかし、わたしは言っておく、何々」という反対命題によって、律法学者やファリサイ派の人々にまさる義について教えられたのです。今朝の御言葉には、第六番目の反対命題、すなわち、最後の反対命題が記されております。
イエス様は43節、44節でこう言われました。「あなたがたも聞いているとおり、『隣人を愛し、敵を憎め』と命じられている。しかし、わたしは言っておく。敵を愛し、自分を迫害する者のために祈りなさい」。イエス様は「『隣人を愛し、敵を憎め』と命じられている」と言われますが、「隣人を愛すること」は、レビ記19章18節に記されています。「復讐してはならない。民の人々に恨みを抱いてはならない。自分自身を愛するように隣人を愛しなさい。わたしは主である」。このように「隣人を愛すること」は、旧約聖書の教えるところでありますが、「敵を憎むこと」は旧約聖書のどこにも記されておりません。旧約聖書のどこを見ても、「敵を憎め」という戒めはないのです。ですから、これは当時の宗教的指導者であった律法学者やファリサイ派の人々が教えていたことであると思います。つまり、律法学者やファリサイ派の人々は、隣人と敵を区別し、隣人だけを愛する対象として教えていたのです。律法学者やファリサイ派の人々は、「隣人を自分のように愛しなさい」という戒めから「敵を愛するように求められてはいない」と教えていたのであります。ヘブライ語の用法において、「憎む」とは「より少なく愛する」という意味でありますから、「敵を憎む」とは、「敵を愛することは命じられていない」というほどの意味であるのです。律法学者やファリサイ派の人々が「隣人を愛し、敵を憎め」と命じていたのに対して、イエス様は「敵を愛し、自分を迫害する者のために祈りなさい」と命じられます。この「敵を愛する」という戒めは、誰も聞いたことのない、前代未聞(ぜんだいみもん)の教えでありました。イエス様は「敵を愛する」ことを命じることによって、制限付きの愛ではなく、無制限の愛を私たちに求めておられるのです。そして、私たちにとっての愛すべき「敵」とは、「自分を迫害する者」であるのです。イエス・キリストの名のゆえに、自分を迫害する者がいる。その自分を迫害する者を愛しなさいとイエス様は命じられるのです。そのために、イエス様は、自分を迫害する者のために祈りなさいと言われるのです。なぜなら、敵を愛することは、生まれながらの私たちが持っている愛では不可能であるからです。神様の御前に出て、敵のために祈ることによって、私たちは敵を愛する愛を神様からいただくのです。ここでイエス様が言われている「愛」とは甘ったるい感情ではありません。「愛」とは断固とした意志であり、その意志に基づく行動であるのです。なぜ、イエス様は、私たちに、「敵を愛し、自分を迫害する者のために祈りなさい」と言われるのでしょうか?その根拠が45節にこう記されています。「あなたがたの天の父の子となるためである。父は悪人にも善人にも太陽を昇らせ、正しい者にも正しくない者にも雨を降らせてくださるからである」。ここで、イエス様は私たちの心を、天の父なる神へと向けさせます。イエス様は、「あなたがたの天の父の子となるためである」と言われましたが、もちろん、私たちは自分の行いによって、天の父の子となるのではありません。私たちは神の御子イエス・キリストにあって、恵みによって神の子とされた者たちであります。ここでイエス様が求めておられることは、イエス・キリストにあって、恵みによって法的に天の父の子とされた私たちが、敵を愛し、自分を迫害する者のために祈ることによって、実質的にも天の父の子となることであります。使徒パウロは、エフェソ書の5章1節で、「あなたがたは神に愛されている子供ですから、神に倣う者となりなさい」と記しておりますが、イエス様が求めておられることもまさにそのことであるのです。なぜ、イエス様は私たちに、敵を愛し、自分を迫害する者のために祈ることを求められるのか?それは、私たちの天の父が悪人にも善人にも太陽を昇らせ、正しい者にも正しくない者にも雨を降らせてくださるお方であるからです。少し細かいことを言いますが、元の言葉ですと「彼の太陽」と記されています。太陽は神様によって造られた被造物であり、太陽を昇らせるのは神様であられるのです。また、雨を降らせるのも神様であられるのです。太陽と雨は、畑の作物に実りをもたらすものであります。神様は、太陽を昇らせ、雨を降らせることによって、食べ物を与え、すべての人の心を喜びで満たしてくださっているのです(使徒14:17参照)。天の父は、悪人か善人かに関係なく彼の太陽を昇らせてくださいます。また、天の父は、正しい人か正しくない人かに関係なく雨を降らせてくださるのです。よって、天の父の子である私たちは、隣人か敵かに関係なく、愛するべきであるのです。
また、イエス様は私たちの心を他の人々へと向けさせて、次のように言われます。「自分を愛してくれる人を愛したところで、あなたがたにどんな報いがあろうか。徴税人でも、同じことをしているではないか」。「徴税人」は、ローマ帝国の手先となって同胞のユダヤ人から税金を集めていたことから裏切り者と呼ばれ、また、決められた金額以上を取り立てて、私腹を肥やしていたことから泥棒のように思われておりました。当時のユダヤの社会において、徴税人は罪深い者と見なされていたのです。しかし、そのような徴税人であっても、自分を愛してくれる人を愛しているのではないか、とイエス様は言われるのであります。私たちが自分を愛してくれる人だけを愛するならば、徴税人と同じであり、何の報いもいただくことはできないとイエス様は言われるのです。また、イエス様は次のようにも言われました。「自分の兄弟にだけ挨拶したところで、どんな優れたことをしたことになろうか。異邦人でさえ、同じことをしているではないか」。「異邦人」とは、イスラエルの民に属さない、まことの神を知らない異教徒を指す言葉であります。まことの神を知らない異教徒であっても、自分の兄弟には挨拶をするではないか、とイエス様は言われるのです。私たちが自分の兄弟だけに挨拶をするならば、それはまことの神を知らない異教徒と同じであり、何の優れた点もないのです。ちなみに、ユダヤ人の挨拶は「平和がありますように」という意味の「シャローム」という言葉であります。そして、「平和がありますように」シャロームという挨拶は、相手のために神の平安を願う「祈り」とも言えるわけです。「愛すること」と「祈ること」がここでも並行的に記されているのです(5:44参照)。私たちは主にある兄弟姉妹のためにだけ祈るならば、まことの神を知らない異教徒と同じであり、何の優れたところもないのです。それゆえ、イエス様は48節で次のように言われるのです。「だから、あなたがたの天の父が完全であられるように、あなたがたも完全な者となりなさい」。イエス様は天の父の子である私たちに、完全な者となることを求められます。なぜなら、私たちの天の父は完全であられ、子は父に倣う者であるからです。このイエス様の御言葉の背後には、申命記18章13節の「あなたは、あなたの神、主と共にあって全き者でなければならない」があると言われています。イエス様は私たちと共にいてくださる主として、私たちに完全な者となることを求められるのです。そして、それは何より、「愛することにおいて完全な者となる」ということであります。そのようにして、私たちは、律法学者やファリサイ派の人々にまさる義に生きることができるのです。この説教の最初で言いましたように、「敵を愛し、自分を迫害する者のために祈りなさい」という御言葉は、イエス様の反対命題の最後のものであります。そして、そのことはまことにふさわしいことであるのです。なぜなら、愛は律法を全うするものであるからです(ローマ13:10参照)。愛において完全な者は、兄弟に腹を立てることも、隣人の妻をみだらな思いで見ることもありません。また、妻を安易に離縁することも、不誠実な言葉を語ることもありません。愛は復讐に終わりをもたらし、かえって相手が望んでいることを自ら進んでするのです。私たちは、イエス・キリストにあって、恵みによって、神の子とされております。それゆえ、私たちは、天の父が完全であられるように、完全な者となることが求められているのです。私たちが愛することにおいて完全な者となることにより、天の父の子としてふさわしい者となることをイエス様は求めておられるのです。
イエス様は「敵を愛し、自分を迫害する者のために祈りなさい」と言われました。また、「あなたがたの天の父が完全であられるように、あなたがたも完全な者となりなさい」と言われました。このイエス様の御言葉を正しく聞き取るために、私たちはイエス様がその御言葉のとおりにこの地上を歩まれたことを思い起こさねばなりません。ルカによる福音書23章34節によれば、十字架につけられたイエス様は、自分を十字架につけた者たちのために、「父よ、彼らをお赦しください。自分が何をしているのかを知らないのです」と祈られました。イエス様御自身が、自分を迫害する者のために祈られたのです。そして、その敵をも愛して、十字架のうえで救いを成し遂げてくださったのです。イエス様こそ、敵を愛し、自分を迫害する者のために祈られたお方でありました。そして、その敵の中に、私たちもいたのです。使徒パウロはローマの信徒への手紙5章8節から10節で次のように記しております。新約聖書の279ページです。
しかし、わたしたちがまだ罪人であったとき、キリストがわたしのたちのために死んでくださったことにより、神はわたしたちに対する愛を示されました。それで今や、わたしたちはキリストの血によって義とされたのですから、キリストによって神の怒りから救われるのは、なおさらのことです。敵であったときでさえ、御子の死によって神と和解させていただいたのであれば、和解させていただいた今は、御子の命によって救われるのはなおさらです。
ここに「敵」という言葉が出てきますが、イエス・キリストを信じる以前の私たちは神様に敵対する、神様の敵でありました。しかし、神様はそのような敵である私たちのうえにも太陽を昇らせ、雨を降らせてくださっていたのです。さらには、そのような敵である私たちを愛して、御子イエスを十字架の死に引き渡されたのであります。また、イエス・キリストは、敵である私たちを愛して、自ら進んで十字架の死を死んでくださったのです。十字架上でのあの祈り、「父よ、彼らをお赦しください。自分が何をしているのかを知らないのです」という祈りは、私たちのための祈りであったのであります。そのことを私たちははっきりと知らなければなりません。そうでなければ、徴税人や異邦人のような私たちに、敵を愛することは到底できないからです。生まれながらの私たちは、神様に愛されるに値しない罪人であり、敵でありました。しかし、それにも関らず神様は私たちを愛してくださり、イエス・キリストにあって和解し、御自分の子としてくださったのです。私たち人間の愛は、その対象に左右される条件付きの愛であります。私たちは自分にとって魅力のある者を愛する、自分にとって利益をもたらす者を愛するのです。しかし、神様の愛は、その対象によって左右されない無条件の愛であるのです。神の愛は無償の愛であり、愛された人のうちに愛を造り出す創造的な愛であるのです。神様によって愛されていることを知っている人は、神と人とを愛することができるよう変えられるのです。パウロは5節で、「わたしたちに与えられた聖霊によって、神の愛がわたしたちの心に注がれている」と記しましたけれども、聖霊によって、神の愛、またキリストの愛が私たちの心に注がれているのです。その神の愛、キリストの愛をもって、敵を愛し、自分を迫害する者のために祈ることが、私たちに求められているのです。神様の愛に、制限はありません。神様の愛は制限付きの愛ではなく、無制限の愛です。その無制限の愛によって、神様は私たちを愛してくださっておられる。そのことを、私たちはイエス・キリストの十字架をとおしてはっきりと示されたわけであります。ですから、イエス様は私たちに、「敵を愛しなさい。自分を迫害する者のために祈りなさい」と言われるのです。そのようにして、天の父が完全であられるように、私たちが完全な者となることを、イエス様は求めておられるのです。