だれかがあなたの右の頬(ほお)を打つなら 2013年5月12日(日曜 朝の礼拝)
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だれかがあなたの右の頬(ほお)を打つなら
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- 説教
- 村田寿和 牧師
- 聖書
マタイによる福音書 5章38節~42節
聖書の言葉
5:38 「あなたがたも聞いているとおり、『目には目を、歯には歯を』と命じられている。
5:39 しかし、わたしは言っておく。悪人に手向かってはならない。だれかがあなたの右の頬を打つなら、左の頬をも向けなさい。
5:40 あなたを訴えて下着を取ろうとする者には、上着をも取らせなさい。
5:41 だれかが、一ミリオン行くように強いるなら、一緒に二ミリオン行きなさい。
5:42 求める者には与えなさい。あなたから借りようとする者に、背を向けてはならない。」マタイによる福音書 5章38節~42節
メッセージ
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イエス様は、5章17節で、「わたしが来たのは律法や預言者を廃止するためだ、と思ってはならない。廃止するためではなく、完成するためである」と言われました。イエス様は、律法を完成するメシアとして、弟子である私たちに、「律法学者やファリサイ派の人々にまさる義」をお求めになります。イエス様は私たちのために、私たちに代わって、神の掟を落ち度なく守られたお方として、私たちにも神の掟を守るように教えられるのです。私たちはイエス・キリストへの信仰によって義とされた者として、律法学者やファリサイ派の人々にまさる義に生きることが求められているのです。5章21節から48節までには、「あなたがたも聞いているとおり何々と命じられている。しかし、わたしは言っておく、何々」といった反対命題が六つ記されております。イエス様はそのような反対命題によって、律法学者やファリサイ派の人々にまさる義とは何かを教えられるのです。
今朝の御言葉、38節、39節前半で、イエス様は次のように言われています。「あなたがたも聞いているとおり、『目には目を、歯には歯を』と命じられている。しかし、わたしは言っておく。悪人に手向かってはならない」。「目には目を、歯には歯を」という言葉は、出エジプト記の21章24節、レビ記の24章20節、申命記の19章21節に記されています。例えば、出エジプト記21章24、25節には次のように記されています。「命には命、目には目、歯には歯、手には手、足には足、やけどにはやけど、生傷には生傷、打ち傷には打ち傷をもって償わなければならない」。「目には目を、歯には歯を」という言葉は、「被害に相応した報復また刑罰」を科す同害報復法を表しています。このような規定は、モーセ律法よりも古い、ハムラビ法典(紀元前18世紀)にも見られるもので、古代の世界に広く行きわたっておりました。「目には目を、歯には歯を」という掟は、もともとは報復がエスカレートすることがないように、報復を制限するための掟でありました。創世記の4章に、カインの子孫であるレメクの歌が記されています。そこで、レメクはこう言っているのです。「わたしは傷の報いに男を殺し/打ち傷の報いに若者を殺す。カインのための復讐が七倍なら/レメクのためには七十七倍」。ここでレメクは、打ち傷の報いとして、相手の命までも取ると息巻いているわけであります。しかし、そのようなことがないように、モーセの律法は、「打ち傷には打ち傷をもって償わなければならない」と定めているわけです。このことは、レメクの歌を持ちだすまでもなく、自分に置き換えて考えてみればすぐに分かることであります。もし、私たちがだれかによって片方の目をつぶされたら、その相手の片方の目をつぶすだけではなく、殺してやりたいと思うのではないでしょうか?しかし、「目には目を、歯には歯を」という同害報復法は、目をつぶされた者は、相手の目をつぶすことでよしとしなければならないと定めているのです。また、このような掟は、他人に対して危害を加えないようにもさせます。相手の目をつぶすことは、自分の目をつぶすことになるからです。このように「目には目を、歯には歯を」と言った同害報復法は、報復の増加、拡大、激化を防ぐ法であり、相手を自分と同じように重んじさせる法であるのです。しかし、イエス様の時代、律法学者やファリサイ派の人々は、「目には目を、歯には歯を」という掟を、報復してよい根拠として考え、教えていたようであります。律法学者やファリサイ派の人々は、律法に「目には目を、歯には歯を」とあるのだから、報復してよいのだと教えていたのです。けれども、イエス様は、こう言われるのです。「しかし、わたしは言っておく。悪人に手向かってはならない」。ここでの「悪人」とは「自分に悪意を持つ誰か」のことでありましょう。誰かが自分に悪意を持って接してきたらどうすればよいか?「目には目を、歯には歯を」とあるように、こちらも悪意をもって応じればよいのか?イエス様は、「悪人に手向かってはならない」と言われるのです。そして、その具体例として、「左の頬をも向けること」、「上着をも取らせること」「一緒に二ミリオン行くこと」の三つの事例を挙げられるのです。
イエス様は39節後半で次のように言われます。「だれかがあなたの右の頬を打つなら、左の頬をも向けなさい」。右の頬を打たれることは、相手の手の甲で打たれることであり、ユダヤ人にとって、暴力というより侮辱でありました。「目には目を、歯には歯を」という原則に従えば、「誰かがあなたの右の頬を打つなら、あなたもその人の右の頬を打て」となりますが、イエス様は、「左の頬をも向けなさい」と言われるのです。イエス様は、だれかがあなたの右の頬を打って侮辱するならば、左の頬をも向けることによって、侮辱を積極的に受けるように言われるのです。
また、イエス様は40節で次のように言われます。「あなたを訴えて下着を取ろうとする者には、上着をも取らせなさい」。「訴えて」とあるように、ここでは裁判によって、下着を取ろうとする者のことが言われています。イエス様は、「上着をも取らせなさい」と言われますが、上着は夜の寒さを防ぐもので、律法によって取ってはならないと定められていました。例えば、出エジプト記22章25、26節に次のように記されています。「もし、隣人の上着を質にとる場合には、日没までに返さねばならない。なぜなら、それは彼の唯一の衣服、肌を覆う着物だからである。彼は何にくるまって寝ることができるだろうか。もし、彼がわたしに向って叫ぶならば、わたしは聞く。わたしは憐れみ深いからである」。このように、上着はふとんの役目をする大切なものであったのです。しかし、イエス様は、「上着をも取らせなさい」と命じることによって、相手が手に入れようとする以上のものをこちらか与えよと言われるのです。
さらにイエス様は41節で次のように言われます。「だれかが一ミリオン行くように強いるなら、一緒に二ミリオン行きなさい」。一ミリオンは、ローマの尺度で、1480メートル、およそ1.5キロメートルに当たります。当時、イスラエルはローマ帝国の占領下にあったので、ローマ兵は、しばしばユダヤ人を道案内や荷物運びに徴用しました。ちなみに、「徴用」とは、「国家権力により国民を強制的に動員し、一定の業務に従事させること」であります(『広辞苑』)。ローマ兵は、道案内をさせること、荷物を運ばせることを、ユダヤ人に強制することができたのです。そして、その際、ユダヤ人はローマ兵と一ミリオン行く義務があるとされていたのであります。このことは、ユダヤ人にとって耐えがたいことであったと思います。しかし、イエス様は、「一緒に二ミリオン行きなさい」と言われるのです。これは義務とされていた距離の倍の距離であります。イエス様は、一緒に二ミリオン行くことによって、強いられてではなく自発的に振る舞うよう求められるのです。
42節は、「悪人に手向かってはならない」ことの具体例ではありませんが、続けて扱いたいと思います。イエス様は、42節で次のように言われます。「求める者には与えなさい。あなたから借りようとする者に、背を向けてはならない」。ここでの「求める者」「あなたから借りようとする者」は、返すあてのない貧しい人たちのことであります。「目には目を、歯には歯を」という原則に従えば、返ってくる見込みのない人たちに貸す必要などないわけです。しかし、イエス様は「背を向けてはならない」「断ってはならない」(口語訳、新改訳)と言われるのであります。なぜなら、あなたが貸す根拠は、その人が返すことができるかどうかにあるのではなくて、その人の貧しさそのものにあるからです。
42節の御言葉は、39節後半から41節までの御言葉を読み解くヒントを与えてくれているのではないかと思います。イエス様は42節で、求めている者、借りようとする者が、返すことができるかどうかを基準とするのではなく、相手の貧しさを基準として、背を向けてはならないと言われました。相手の気持ちを考えて、その相手の気持ちを基準にして、自分の行動を定めるようにとイエス様は言われるのです。そして、同じ原則が、39節後半から41節に記されている三つの事例においても言えるのであります。「あなたの右の頬を打つ誰か」の気持ちを考えて、その相手の気持ちを基準として、イエス様は、「左の頬をも向けなさい」と言われるのです。また、イエス様は、「あなたを訴えて下着を取ろうとする者」の気持ちを考えて、その相手の気持ちを基準として、「上着をも取らせなさい」と言われるのです。さらには、「一ミリオン行くように強いる者」の気持ちを考えて、その相手の気持ちを基準として、「一緒に二ミリオン行きなさい」と言われるのであります。ここで、イエス様が求めておられることは、報復をエスカレートさせず、制限すること、それ以上のことであります。イエス様は、悪意を持つ相手の要求に自ら従うことによって、報復に終止符を打つようにと私たちに命じられるのです。悪人が求める以上のことを、自ら進んですることによって、報復そのものを乗り越えてしまうのです。
侮辱されれば、侮辱し返す。訴えて下着を取ろうとする者には、こちらも法に訴えて下着を取られないようにする。一ミリオン行くように強いられれば、憤りながら仕方なく、一ミリオン行く。それが生まれながらの私たちの姿であります。「目をつぶされたら、相手の目をつぶさなくては気が済まない」、それが生まれながらの私たちの姿です。しかし、イエス様は、そのような私たちに、悪人が要求する以上のことを、自ら進んでしなさい、と言われるのです。そのようにして、報復そのものに終わりをもたらせと言われるのです。
ここで、イエス様が弟子である私たちに求めておられることは、途方もないこと、およそ実行不可能なことのように思えます。しかし、この途方もないことを実行されたのは、イエス様ご自身でありました。イエス様は罪を犯した人間に敵意をもっておられる神様の気持ちを考えて、その神様の気持ちを基準にして、罪のないお方であるにもかかわらず、私たちの罪の刑罰としての死、十字架の死を死んでくださったのです。イエス様の「左の頬をも向けなさい」「上着をも与えなさい」「一緒に二ミリオン行きなさい」という御言葉を聞くときに、私たちが思うのは、なぜ、自分がそのようなことをしなくてはいけないのか?わたしの権利はどうなるのか?わたしは損をするだけではないか?ということであります。しかし、そのように自分に執着するならば、イエス様の十字架の意味は分からなくなってしまうのです。なぜなら、イエス様は十字架において、多くの人の身代金として御自分の命を献げてくださったからです。罪のないイエス様が、私たちの罪人のために、十字架の死を死んでくださったことにより、神様の報復に終止符が打たれたのです。「罪の報酬は死である。しかし、神の賜物は、私たちの主キリスト・イエスによる永遠の命である」と言うことのできる恵みの時が到来したのです(ローマ6:23)。私たちはイエス・キリストにあって神と和解させていただき、神を父と呼ぶことのできる、神の子とされたのであります。その恵みに生かされている私たちに、イエス様は、「悪人に手向かうな。むしろ、悪人が望んでいることを積極的に行うことによって、報復を終わりにせよ」と言うのです。報復を終わりにするために、相手が求めることを自ら行えと言われるのです。
イエス様は、「自分の十字架を担ってわたしに従わない者は、わたしにふさわしくない」と言われましたが、今朝の御言葉には、私たちがそれぞれの生活において担うべき十字架がどのようなものであるかが示されていると言えるのです。