みだらな思いで他人の妻を見る者 2013年4月28日(日曜 朝の礼拝)
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みだらな思いで他人の妻を見る者
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- 村田寿和 牧師
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マタイによる福音書 5章27節~32節
聖書の言葉
5:27 「あなたがたも聞いているとおり、『姦淫するな』と命じられている。
5:28 しかし、わたしは言っておく。みだらな思いで他人の妻を見る者はだれでも、既に心の中でその女を犯したのである。
5:29 もし、右の目があなたをつまずかせるなら、えぐり出して捨ててしまいなさい。体の一部がなくなっても、全身が地獄に投げ込まれない方がましである。
5:30 もし、右の手があなたをつまずかせるなら、切り取って捨ててしまいなさい。体の一部がなくなっても、全身が地獄に落ちない方がましである。」
5:31 「『妻を離縁する者は、離縁状を渡せ』と命じられている。
5:32 しかし、わたしは言っておく。不法な結婚でもないのに妻を離縁する者はだれでも、その女に姦通の罪を犯させることになる。離縁された女を妻にする者も、姦通の罪を犯すことになる。」マタイによる福音書 5章27節~32節
メッセージ
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マタイによる福音書の5章21節から48節までには、6つのいわゆる反対命題が記されています。前回学んだ21節で、主イエスは、「あなたがたも聞いているとおり、昔の人は『殺すな。人を殺した者は裁きを受ける』と命じられている。しかし、わたしは言っておく。兄弟に腹を立てる者はだれでも裁きを受ける。兄弟に『ばか』と言う者は、最高法院に引き渡され、『愚か者』という者は、火の地獄に投げ込まれる」と言われました。主イエスは、「あなたがたも聞いているとおり何々と命じられている。しかし、わたしは言っておく」という言い方で、律法学者やファリサイ派の人々にまさる義がどのようなものであるのかを具体的に示されたのです。主イエスは、19節の後半で、「しかし、それを守り、そうするように教える者は、天の国で大いなる者と呼ばれる」と言われましたが、主イエスこそ、律法を守り、私たちにも律法を守るように教えられる大いなる方であるのです。
主イエスは、27節、28節で次のように言われます。「あなたがたも聞いているとおり、『姦淫するな』と命じられている。しかし、わたしは言っておく。みだらな思いで他人の妻を見る者はだれでも、既に心の中でその女を犯したのである」。ここで、主イエスは、十戒の第七の戒め、「姦淫してはならない」を取り上げて、律法学者やファリサイ派の人々にまさる義をお示しになります。主イエスは、律法を完成するメシアとして、「姦淫してはならない」という神の掟が意味するところを解き明かされるのです。「あなたがたも聞いているとおり、『姦淫するな』と命じられている」。ここで、主イエスは律法学者やファリサイ派の人々の教えを取り上げておられます。律法学者やファリサイ派の人々は、姦淫する行為そのものを禁じておりました。ちなみに、ここで「姦淫」と訳されている言葉は、32節で「姦通」と訳されているのと同じ言葉であります。『広辞苑』によれば、姦淫とは「不正な男女の交わり、不倫な情事」を意味し、姦通とは「配偶者のある者が、配偶者以外の異性とひそかに肉体関係を持つこと」を意味しております。律法学者やファリサイ派の人々は、配偶者以外の異性とひそかに肉体関係をもつことを禁じ、教えていたのです。しかし、主イエスは、律法の完成者であるメシアとしてこう言われるのです。「しかし、わたしは言っておく。みだらな思いで他人の妻を見る者はだれでも、既に心の中でその女を犯したのである」。主イエスはここでも、姦淫する行為そのものだけではなく、その源となる心の思いを裁かれます。主イエスは、「みだらな思いで他人の妻を見る者はだれでも、既に心の中でその女を犯したのである」と言われるのです。心を御覧になる神様の御前に、みだらな思いで他人の妻を見ることは、心の中で姦淫を犯したことであるのです。私たちが用いております新共同訳聖書は、「他人の妻」と訳していますが、口語訳聖書、新改訳聖書は「女」と訳しておりました。例えば、新改訳聖書はこのところを、「しかし、わたしはあなたがたに言います。だれでも情欲をいだいて女を見る者は、すでに心の中で姦淫を犯したのです」と翻訳しています。元の言葉を見ると、「妻」とも「女」とも訳すことができる言葉でありますが、私は新共同訳聖書の解釈が正しいと思います。主イエスは、女性一般をみだらな思いで見ることを禁じられたのではなくて、他人の妻を情欲の対象として見ることを禁じられたのです。なぜなら、そこに姦淫の根があるからです。神様は殺人の源として、兄弟に腹を立てることを裁かれるように、姦淫の源として、他人の妻を情欲の対象として見ることを裁かれるのです。そして、その裁きはまことに厳しい裁きであるのです。
主イエスは29節、30節で次のように言われます。「もし、右の目があなたをつまずかせるなら、えぐり出して捨ててしまいなさい。体の一部がなくなっても、全身が地獄に投げ込まれない方がましである。もし、右の手があなたをつまずかせるなら、切り取って捨ててしまいなさい。体の一部がなくなっても、全身が地獄に落ちない方がましである」。みだらな心の思いは、目で見ることによって助長されます。よって主イエスは、「右の目があなたをつまずかせるなら、えぐり出して捨ててしまいなさい」と言われるのです。これは誇張法でありまして、文字通りに受け取ってはなりません。主イエスがここで求めておられることは、断固とした決意をもって姦淫の罪の原因を取り除くことであります。それゆえ、主イエスは、つまずきとなるならば、生活を支える右の手さえも、切り取って捨ててしまいなさいと言われるのです。そのようにして、全身が地獄に投げ込まれない方が、あなたにとって益であると言われるのです。なぜ、主イエスはこれほどまでに厳しい御言葉をお語りになるのでしょうか?それは姦淫が、神様が結び合わされた夫婦の関係を引き裂いてしまう罪であるからです。姦淫は、他者の夫婦関係ならびにその家庭を破壊してしまう罪であるからです。そもそも姦淫とは、その妻の伴侶に対する罪と考えられておりました。他人の妻とひそかに肉体関係を持つ者は、その妻の夫に対して罪を犯すことになるのです。ですから、他人の妻とひそかに肉体関係を持つ者は、その妻の夫に対して罪を犯すことになるのです。使徒パウロも第一コリント書の7章で「妻は自分の体を意のままにする権利を持たず、夫がそれを持っています。同じように、夫も自分の体を意のままにする権利を持たず、妻がそれを持っているのです」と記していますように、姦淫は、その夫、あるいはその妻に対する罪であるのです。ですから、お互いの合意があればよいのでは決してありません。姦淫は互いの配偶者に対する罪であり、神が結び合わせた夫婦関係を破壊する罪であるのです。そのことを覚えて、私たちは姦淫の罪の原因をことごとく取り除くよう努めなければならないのです。主イエスのまことに厳しい御言葉は、神が結び合わせてくださった結婚関係を重んじられたことの裏返しであるのです。
続けて主イエスは、31節、32節で次のように言われました。「『妻を離縁する者は、離縁状を渡せ』と命じられている。しかし、わたしは言っておく。不法な結婚でもないのに妻を離縁する者はだれでも、その女に姦通の罪を犯させることになる。離縁された女を妻にする者も、姦通の罪を犯すことになる」。「妻を離縁する者は、離縁状を渡せ」という掟は、申命記の24章1節に記されています。実際に開いて読んでみましょう。旧約聖書の318ページです。
人が妻をめとり、その夫となってから、妻に何かはずべきことを見いだし、気に入らなくなったときは、離縁状を書いて彼女の手に渡し、家を去らせる。
このモーセの律法は、元来は離縁された女性を保護することを目的としておりました。古代のイスラエルは家父長制社会でありまして、女性は経済的に自立する術を持ちませんでした。女性にとって結婚することが生きる術であったのです。そこで、モーセは、離縁する者に離縁状を渡して、彼女がだれとでも自由に結婚できる身であることを証明させたのです。しかし、律法学者やファリサイ派の人々は、この掟を離縁する者のための掟として解釈し、教えていました。彼らは妻を離縁したい者は、離縁状を渡せば、自由に離縁できると考え、教えていたのです。では、今朝の御言葉に戻ります。新約聖書の8ページです。
主イエスは、「姦淫」について教えられたのに続いて、「離縁」について教えられました。これはやはり意味のあることであります。なぜなら、「姦淫するな」と命じていた律法学者やファリサイ派の人々は、「妻を離縁する者は、離縁状を渡せ」と命じることによって、抜け道を用意していたからです。姦淫の罪を犯さないで、配偶者以外の異性と肉体関係を持つためにはどうしたらよいのか。彼らは、「妻を離縁してから、その女を新しい妻に迎えればよい」と教えていたのです。このあたりの事情は、マタイ福音書の19章3節以下に記されております。19章3節から9節までをお読みします。新約聖書の36ページです。
ファリサイ派の人々が近寄り、イエスを試そうとして、「何か理由があれば、夫が妻を離縁することは、律法に適っているでしょうか」と言った。イエスはお答えになった。「あなたたちは読んだことがないのか。創造主は初めから人を男と女にお造りになった。」そして、こうも言われた。「それゆえ、人は父母を離れてその妻と結ばれ、二人は一体となる。だから、二人はもはや別々ではなく、一体である。従って、神が結び合わせてくださったものを、人は離してはならない。」すると、彼らはイエスに言った。「では、なぜモーセは、離縁状を渡して離縁するように命じたのですか。」イエスは言われた。「あなたたちの心が頑固なので、モーセは妻を離縁することを許したのであって、初めからそうだったわけではない。言っておくが、不法な結婚でもないのに妻を離縁して、他の女を妻にする者は、姦通の罪を犯すことになる。」
ここで主イエスも指摘しておられるように、他の女を妻にするために、妻を離縁するということがあったのです。律法学者やファリサイ派の人々は、離縁状を渡して妻を離縁し、他の女を妻にすることは合法的であると教えておりました。つまり、神様の掟に適っていると考え、教えていたのです。しかし、主イエスは「不法な結婚でもないのに、妻を離縁して、他の女を妻にする者は姦通の罪を犯すことになる」と言われるのです。今朝の御言葉に戻りましょう。新約聖書の8ページです。
律法学者やファリサイ派の人々が、「妻を離縁する者は、離縁状を渡せ」と命じていたのに対して、主イエスは、「しかし、わたしは言っておく。不法な結婚でもないのに妻を離縁する者はだれでも、その女に姦通の罪を犯させることになる。離縁された女を妻にする者も、姦通の罪を犯すことになる」と言われます。ここで「不法な結婚」と訳されている言葉は、口語訳聖書では「不品行」、新改訳聖書では「不貞」と訳されています。もとの言葉は「ポルネイア」という言葉で、「姦淫」とも訳される言葉であります。律法学者やファリサイ派の人々が、離縁状を渡せば、簡単に離縁できると教えていたのに対して、主イエスは、姦淫以外の理由で離縁することを禁じられたのです。
律法学者やファリサイ派の人々、彼らは「姦通するな」と命じながら、姦淫以外の理由で離縁を認めることによって、人々に姦通の罪を犯させていたのであります。主イエスが「姦淫」を離縁の理由として認められたのは、姦淫だけが「二人は一体である」という夫婦の関係を破壊してしまう罪であるからです。しかし、それ以外の理由で妻を離縁することは認められず、神様の御前に「二人は一体である」という夫婦の関係は有効であるのです。ですから、主イエスは、姦淫以外の理由で妻を離縁する者は、その女に姦通の罪を犯させることになり、その女を妻とする者にも姦通の罪を犯させることになると言われるのです。姦淫以外の理由で妻を離縁した者が、他の女を妻とした場合、その人は姦通の罪を犯したことになります(19:9参照)。しかし、それだけではなく、離縁された女にも、さらにはその女を妻とする男にも姦通の罪を犯させることになるのです。主イエスがここで主張しておられることは、神が結び合わせてくださったものを、人は離してはならないということであります。そして、ここでも主イエスは、神が結び合わせてくださった結婚関係を破壊する姦通の罪を犯さないよう戒めておられるのです。
主イエスは、「姦淫してはならない」という掟を個人にではなく、共同体に与えられた掟として理解し、教えられました。私たちは自分が姦通の罪を犯さないよう、その原因を取り除くだけではなくて、人にも姦通の罪を犯させないようにすべきであるのです。そして、その道こそ、神が結び合わせてくださった結婚関係、夫婦関係を互いに重んじることにあるのです。私たちは、主によって結び合わされた「二人は一体である」という結婚関係を重んじることによって、「姦淫してはならない」という神の掟を守っていくことが求められているのです。