律法の完成者イエス 2013年4月14日(日曜 朝の礼拝)

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律法の完成者イエス

日付
説教
村田寿和 牧師
聖書
マタイによる福音書 5章17節~20節

聖句のアイコン聖書の言葉

5:17 「わたしが来たのは律法や預言者を廃止するためだ、と思ってはならない。廃止するためではなく、完成するためである。
5:18 はっきり言っておく。すべてのことが実現し、天地が消えうせるまで、律法の文字から一点一画も消え去ることはない。
5:19 だから、これらの最も小さな掟を一つでも破り、そうするようにと人に教える者は、天の国で最も小さい者と呼ばれる。しかし、それを守り、そうするように教える者は、天の国で大いなる者と呼ばれる。
5:20 言っておくが、あなたがたの義が律法学者やファリサイ派の人々の義にまさっていなければ、あなたがたは決して天の国に入ることができない。」マタイによる福音書 5章17節~20節

原稿のアイコンメッセージ

序.

 今朝はマタイによる福音書第5章17節から20節までに記されているイエス様の御言葉を学びたいと願います。

1.律法や預言者を廃止するためではなく、完成するため

 17節をお読みします。

 わたしが来たのは律法や預言者を廃止するためだ、と思ってはならない。廃止するためではなく、完成するためである。

 イエス様は「わたしが来たのは律法や預言者を廃止するためだ、と思ってはならない」と言われます。このことは、イエス様が人々から律法や預言者を無効とし、異なった教えを説いていると誤解されていたことが前提となっています。しかし、イエス様は、「わたしが来たのは律法や預言者を廃止するためだ、と思ってはならない」と言われるのです。「律法」とはモーセを通して与えられた掟であり、預言者とはその掟に基づく教えでありますが、「律法と預言者」と記すことで旧約聖書全体を指すこともあります。ここで問題となっているのは、イエス様は旧約聖書に対してどのような態度を取られたのか、ということです。それは言い換えれば、キリストの弟子である私たちが旧約聖書に対してどのような態度を取ればよいのかということであります。もし、イエス・キリストが来られたのは律法や預言者を廃止するためであるならば、私たちにとって、旧約聖書は正典ではなく、学ぶ必要もなくなります。しかし、もちろん、そうではありません。イエス・キリストが来られたのは、律法や預言者を廃止するためではなく、完成するためでありました。ここで「完成する」と訳されている言葉は「満たす」という意味の言葉です。ですから、口語訳聖書、新改訳聖書では「成就する」と翻訳しております。イエス・キリストは、律法や預言者を廃止するどころか、それらを満たして、成就される、完成されるのであります。私たちはイエス・キリストにおいて成就された、完成された書物としての旧約聖書を正典としているのです。それゆえ、私たちはイエス・キリストによって成就された書物として旧約聖書を読まなくてはならないのです。それは言い換えれば、旧約聖書の神を父と子と聖霊なる三位一体の神として旧約聖書を読むということであります。イエス・キリストにおいて御自身をあらわされた三位一体の神が、旧約聖書の神、ヤハウェであるということです。

2.律法の文字から一点一画も消え去ることはない

 18節をお読みします。

 はっきり言っておく。すべてのことが実現し、天地が消えうせるまで、律法の文字から一点一画も消え去ることはない。

 ここで「はっきり言っておく」と訳されている言葉を直訳すると「アーメン、わたしはあなたがたに言う」となります。「アーメン」とはもともとヘブライ語でありますが、「本当です」とか「真実です」という意味であります。イエス様は御自分の真実にかけて「すべてのことが実現し、天地が消えうせるまで、律法の文字から一点一画も消え去ることはない」と断言されるのです。「すべてのことが実現し、天地が消えうせるまで」とはいつのことかといいますと、これはイエス様が栄光の人の子として来られる終わりの日まで、ということであります。イエス様の再臨によって新しい天と新しい地が到来するまで、律法の文字から一点一画も消え去ることはなく、有効であり続けるのです。それゆえ、イエス様は続く19節でこう言われるのです。

だから、これらの最も小さな掟を一つでも破り、そうするようにと人に教える者は、天の国で最も小さい者と呼ばれる。しかし、それを守り、そうするように教える者は、天の国で大いなる者と呼ばれる。

 律法はイエス・キリストの再臨によって新しい天と新しい地が到来するまで有効な神の掟でありますから、その掟を教える者は栄光の神の国である天の国において報いを受けることになるのです。ただ、ここで、イエス様は「小さい者」と「大いなる者」と言った区別をしておられます。イエス様は、「これらの最も小さな掟を一つでも破り、そうするようにと人に教える者は、天の国で最も小さい者と呼ばれる」と言われます。「呼ばれる」は未来形で記されており、ここでの天の国は栄光の神の国のことです。そして、呼んでくださるのはその国の王である神様であります。

ここでイエス様は「これらの最も小さな掟を一つでも破り、そうするようにと人に教える者」と言われていますが、新改訳聖書はこのところを「戒めのうち最も小さいもの一つでも、これを破ったり、また破るように人に教えたりする者」と翻訳しています。自分が戒めを破ってしまうことは分かるのですが、人にも破るように教えるとはどういうことでしょうか?これはおそらく、律法学者やファリサイ派の人々のある者たちが、人々が律法を守ることができるように、その要求を軽減して教えていたことを言っているのだと思います。律法学者やファリサイ派の人々、彼らは宗教的な指導者であり、民衆が神の民として律法を守って生きるように、律法を教えておりました。そのとき、どのように教えるかと言うと、はじめから厳しいことを教えないで、彼らでも守れるように掟を緩めて教えるということがありました。「これらの最も小さな掟を一つでも破り、そうするように人に教える者」とは、そのように律法が要求することを緩めて教える律法学者やファリサイ派の人々のことを言っているのだと思います。律法学者やファリサイ派の人々は、民衆から尊敬され、敬虔の模範と見なされておりましたが、イエス様は彼らを天の国で最も小さい者と呼ばれると言われるのです。

 では、「それを守り、そうするように教える者」とは誰のことでしょうか?それは何よりイエス・キリストであり、イエス・キリストの弟子である私たちであります。イエス様は神の律法を守り、神の律法を守るように教える者として、私たちにも神の律法を守り、神の律法を守るように教える者となることを望んでおられるのです。そして、それが20節の御言葉の意味するところであるのです。

3.律法学者やファリサイ派の人々にまさる義

 20節をお読みします。

 言っておくが、あなたがたの義が律法学者やファリサイ派の人々の義にまさっていなければ、あなたがたは決して天の国に入ることができない。

 誤解のないように言いますが、ここでは「はっきり」と翻訳された「アーメン」という言葉はありません。イエス様は特別に大切なことを教えられるとき、御自分の真実にかけて「アーメン、わたしはあなたがたに言う」と言われましたが、ここではただ「あなたがたに言う」とだけ記されているのです。では、ここで何が言われているかと言えば、それは、弟子である私たちに対する警告であります。私たちはイエス・キリストへの信仰によって義とされると信じております。それは聖書が教えていることでありますし、正しいことであるのです。しかし、そのような私たちにとって、律法はどのような意味をもっているのでしょうか?私たちはイエス様によって義とされたのだから、神の掟を守らなくてよいのか?そうではないということを、イエス様はこの20節で言われているのです。私は先程、19節の「これらの最も小さな掟を一つでも破り、そうするようにと人に教える者」を「律法学者たちやファリサイ派の人々」であると言いました。そして、彼らは天の国で「最も小さい者と呼ばれる」者たちであるのです。私たちの義がその彼らの義にまさっていなければ、私たちが天の国に入ることができないのは当然のことであります。では、ここでイエス様は私たちに自分で掟を守り、律法学者やファリサイ派の人々にまさった義を手に入れなさいと言われているのでしょうか?もちろん、そうではありません。なぜなら、山上の説教は、「心の貧しい人々は幸いである、天の国はその人たちのものである」という宣言によって始められているからです。イエス・キリストに依り頼む私たちは、すでに天の国の祝福に入れられているのです。イエス様が言われているのは、そのような者として、私たちが律法学者やファリサイ派の人々にまさる正しさに生きることであるのであります。すなわち、律法の完成者であるイエス・キリストに倣って、律法を守ることが弟子である私たちにも求められているのです。

結.律法の完成者イエス

 イエス様は、「わたしが来たのは律法や預言者を廃止するためではなく、完成するためである」と言われました。そして、その御言葉どおり、イエス様は律法の要求をことごとく満たされたのです。イエス様が律法の要求をことごとく満たされたというとき、そこには、イエス様が私たちの身代わりとして、律法の呪いの死、十字架の死を死んでくださったことが含まれています。イエス様は、私たちに代わって神の掟を落ち度なく守り、私たちに代わって律法の呪いの死を死んでくださったことにより、律法を満たして、完成してくださったのです。そして、そのようなお方として、私たちにも律法を守るようにと教えておられるのです。では、イエス様は律法をどのように教えられたのでしょうか?それを知る手掛かりが第7章12節に記されています。イエス様はそこでこう言われています。

 だから、人にしてもらいたいと思うことは何でも、あなたがたも人にしなさい。これこそ律法と預言者である。

また、第22章37節から40節で、イエス様は次のように言われています。

「『心を尽くし、精神を尽くし、思いを尽くして、あなたの神である主を愛しなさい。』これが最も重要な第一の掟である。第二も、これと同じように重要である。『隣人を自分のように愛しなさい。』律法全体と預言者は、この二つの掟に基づいている。」

 イエス様は律法全体と預言者が、全身全霊をもって神を愛する愛と、自分のように隣人を愛する愛を基とすると言われました。そして、イエス様はこの二つの愛をもって十字架についてくださり、律法と預言者を満たし、完成してくださったのです。それゆえ、私たちも全身全霊をもって神を愛する愛と、自分のように隣人を愛する愛をもって神の掟を守ることが求められているのです。そして、そのような愛を私たちはイエス・キリストの聖霊によって与えられているのです。

 「言っておくが、あなたがたの義が律法学者やファリサイ派の人々の義にまさっていなければ、あなたがたは決して天の国に入ることができない」。このイエス様の言葉は私たちを絶望させるための言葉ではありません。私たちはすでに、律法学者やファリサイ派の人々にまさる義、律法の完成者であるイエス・キリストの義に生かされているのです。ですから、私たちも神への愛と隣人への愛をもって、神の掟を守り、神の掟を教える者となることが求められているのです。繰り返しになりますが、私たちは救われるために律法を守るのではありません。律法の完成者であるイエス様によって救われた者たちとして、私たちは喜びと感謝をもって律法を守ることが求められているのです。

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