義のために迫害される人々は幸いである 2013年3月24日(日曜 朝の礼拝)

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義のために迫害される人々は幸いである

日付
説教
村田寿和 牧師
聖書
マタイによる福音書 5章1節~12節

聖句のアイコン聖書の言葉

5:1 イエスはこの群衆を見て、山に登られた。腰を下ろされると、弟子たちが近くに寄って来た。
5:2 そこで、イエスは口を開き、教えられた。
5:3 「心の貧しい人々は、幸いである、/天の国はその人たちのものである。
5:4 悲しむ人々は、幸いである、/その人たちは慰められる。
5:5 柔和な人々は、幸いである、/その人たちは地を受け継ぐ。
5:6 義に飢え渇く人々は、幸いである、/その人たちは満たされる。
5:7 憐れみ深い人々は、幸いである、/その人たちは憐れみを受ける。
5:8 心の清い人々は、幸いである、/その人たちは神を見る。
5:9 平和を実現する人々は、幸いである、/その人たちは神の子と呼ばれる。
5:10 義のために迫害される人々は、幸いである、/天の国はその人たちのものである。
5:11 わたしのためにののしられ、迫害され、身に覚えのないことであらゆる悪口を浴びせられるとき、あなたがたは幸いである。
5:12 喜びなさい。大いに喜びなさい。天には大きな報いがある。あなたがたより前の預言者たちも、同じように迫害されたのである。」マタイによる福音書 5章1節~12節

原稿のアイコンメッセージ

序.

 山上の説教の冒頭に置かれている「幸いの教え」について学んできましたが、今朝はその最後の学びとなります。

 山上の説教の「幸いの教え」は「八福の教え」とも「九福の教え」とも呼ばれますが、その違いは11節、12節を「幸いの教え」として数えるか数えないかによります。私としては、11節、12節は、第8番目の「義のために迫害される人々は幸いである、天の国はその人たちのものである」の説明として理解して、このところを「八福の教え」と呼びたいと思います。

 私たちは今朝、第8番目の幸いとその説明とも言える御言葉について、すなわち、10節から12節までの御言葉について御一緒に学びたいと願います。

1.義のために迫害される人

 10節をお読みします。

 義のために迫害される人々は幸いである、天の国はその人たちのものである。

 ここでの「義」は「神の義」であり「神の正しさ」のことであります。ある英語の聖書は、「神の御心を行うために迫害される人々は幸いである」と翻訳しておりました(TEV)。「義のために迫害される人々」とは「神の御心を行うために迫害される人々」であるのです。

 今週は教会の暦によりますと受難週でありますが、イエス・キリストこそ、神の御心を行うために迫害された人でありました。イエス様は、神の御心を行う人であるがゆえに、十字架につけられ殺されたのです。なぜ、人々は神の御心を行われた人であるイエス様を迫害したのでしょうか?神の御心を行う人なのですから、歓迎されてもよさそうなものですが、人々は神の御心を行うイエス様を迫害しました。それは、イエスによって、自分たちが神の御心を行っていないことが露わとなってしまうからです(ヨハネ7:7参照)。イエス様を迫害した人々、それは祭司長や律法学者といった宗教的な指導者たちでありました。なぜ、彼らはイエス様を憎み、十字架の死に追いやったのでしょうか?それは神様の御心を行うイエス様によって、彼らがうわべだけで神様の御心に従っていることが暴露されてしまったからです。イエス様はそのような彼らを「偽善者たち」と非難いたしました(マタイ23:13~36参照)。それゆえ、彼らはイエス様を憎み、この地上から取り除いてしまおうと考えたのでした。しかし、それによって神様の救いの御計画が実現したことを私たちは忘れてはなりません。イエス様は神の御心を行う主の僕として、人々から迫害されたのです。今週は受難週でもありますので、少し長いですがイザヤ書第53章を御一緒に読みたいと思います。旧約聖書の1149ページです。イザヤ書第52章13節から第53章12節までをお読みします。

 見よ、わたしの僕は栄える。はるかに高く上げられ、あがめられる。かつて多くの人をおののかせたあなたの姿のように/彼の姿は損なわれ、人とは見えず/もはや人の子の面影はない。それほどまでに、彼は多くの民を驚かせる。彼を見て、王たちも口を閉ざす。だれも物語らなかったことを見/一度も聞かされなかったことを悟ったからだ。わたしの聞いたことを、誰が信じえようか。主は御腕の力を誰に示されたことがあろうか。乾いた地に埋もれた根から生え出た若枝のように/この人は主の前に育った。見るべき面影はなく/輝かしい風格も、好ましい容姿もない。彼は軽蔑され、人々に見捨てられ/多くの痛みを負い、病を知っている。彼はわたしたちに顔を隠し/わたしたちは彼を軽蔑し、無視していた。彼が担ったのはわたしたちの病/彼が負ったのはわたしたちの痛みであったのに/わたしたちは思っていた/神の手にかかり、打たれたから/彼は苦しんでいるのだ、と。彼が刺し貫かれたのは/わたしたちの背きのためであり/彼が打ち砕かれたのは/わたしたちの咎のためであった。彼の受けた懲らしめによって/わたしたちに平和が与えられ/彼の受けた傷によって、わたしたちはいやされた。わたしたちは羊の群れ/道を誤り、それぞれの方角に向かって行った。そのわたしたちの罪をすべて/主は彼に負わせられた。苦役を課せられて、かがみ込み/彼は口を開かなかった。屠り場に引かれる小羊のように/毛を切る者の前に物を言わない羊のように/彼は口を開かなかった。捕らえられ、裁きを受けて、彼は命を取られた。彼の時代の誰が思い巡らしたであろうか/わたしの民の背きのゆえに、彼が神の手にかかり/命ある者の地から断たれたことを。彼は不法を働かず/その口に偽りもなかったのに/その墓は神に逆らう者と共にされ/富める者と共に葬られた。病に苦しむこの人を打ち砕こうと主は望まれ/彼は自らを償いの献げ物とした。彼は、子孫が末永く続くのを見る。主の望まれることは/彼の手によって成し遂げられる。彼は自らの苦しみの実りを見/それを知って満足する。わたしの僕は、多くの人が正しい者とされるために/彼らの罪を自ら負った。それゆえ、わたしは多くの人を彼の取り分とし/彼は戦利品としておびただしい人を受ける。彼が自らをなげうち、死んで/罪人のひとりに数えられたからだ。多くの人の過ちを担い/背いた者のために執り成しをしたのは/この人であった。

 イエス様は人々から迫害され、十字架の苦難の死を死なれたのでありますが、それは多くの人の過ちを担う、償いの死、贖いの死でありました。イエス様は十字架の死においても、神様の御心を行われたのです。イエス・キリストの十字架の死によって、私たちを救うという神の御心は成し遂げられたのです。

 今朝の御言葉に戻ります。新約聖書の6ページです。

2.義のために迫害される人々

 イエス様は「義のために迫害される人々は幸いである。天の国はその人たちのものである」と言われましたけれども、イエス様御自身が「義のために迫害された人」でありました。イエス様は、弟子たちにどのような人々が幸いであるのかを教えられましたけれども、その幸いにイエス様御自身が生きられたのです。そして、イエス様は、弟子である私たちをもその幸いに生きる者としてくださったのです。何度も申しますが、ここでイエス様が幸いであると言われているのは、生まれながら持つ気質のことではありません。そうではなくて、聖霊によって与えられた賜物としての気質のことであります。私たちは神の御心を完全に行われたイエス・キリストにあって、義のために迫害される人々としていただいたのです(二テモテ3:12参照)。イエス・キリストの聖霊をいただき、人々からの迫害を恐れずに、神の御心を行う者へと変えていただいたのです(使徒5:29参照)。そして、その神の御心とは何より神様が遣わされたイエス・キリストを信じ、イエス・キリストの福音を宣べ伝えることであるのです。それゆえ、イエス様は11節でこう言われるのです。

 わたしのためにののしられ、迫害され、身に覚えのないことであらゆる悪口を浴びせられるとき、あなたがたは幸いである。

 この11節の御言葉は、10節の「義のために迫害される人々は幸いである」を敷衍したもの、趣旨が徹底するように説明したものであります。「義のために迫害される人々」とは、「イエス・キリストのためにののしられ、迫害され、身に覚えのないことであらゆる悪口を浴びせられる弟子たち」のことであるのです。すなわち、私たちのことが言われているのであります。現代は、日本国憲法によって、政教分離の原則が確立されており、信教の自由や思想・良心の自由が保障されておりますから、あからさまにキリスト教徒であるということで、ののしられたり、迫害されたりすることはないかも知れません。しかし、日本におけるキリスト教の歴史をひもとくならば、それは迫害の歴史であったことが分かります。そのような日本に生きるキリストの弟子たちとして、私たちは今朝の御言葉をしっかりと心に刻みたいと思うのです。

3.天には大きな報いがある

 12節をお読みします。

 喜びなさい。大いに喜びなさい。天には大きな報いがある。あなたがたより前の預言者たちも、同じように迫害されたのである。

 イエス様は御自分のためにののしられ、迫害され、身に覚えのないことであらゆる悪口を浴びせられる弟子たちに、「喜びなさい。大いに喜びなさい。天には大きな報いがある」と言われました。このようにイエス様が言われるのは、迫害それ自体は決して喜ばしいものではないからです。私たちにとって、ののしられること、迫害されること、身に覚えのないことで悪口を言われること、それ自体は決して喜ばしいことではありません。ただそれがイエス様のためであるとき、「幸いである」と言われる喜ぶべきものとなるのです。なぜなら、イエス様のためにののしられ、迫害され、身に覚えのないことであらゆる悪口を浴びせられるとき、天には大きな報いがあるからです。イエス様のために私たちがののしられ、迫害され、身に覚えのないことであらゆる悪口を浴びせられるとき、私たちは確かに自分がキリストの弟子であり、天の国の祝福にあずかる者であることを確信することができるのです。イエス様は、「天には大きな報いがある」と言われましたけれども、これは私たちの働きに応じて与えられる功績としての報いではありません。神様の自由な御意志によって与えられる恵みとしての報いであります。神様は私たちがイエス様のために迫害されるとき、喜ぶことができるように、天において大きな報いを約束してくださっているのです。神様はカルデアのウルから導き出されたアブラハムに、「あなたの受ける報いは非常に大きいであろう」と約束されたように、キリストのために苦しむ私たちにも「天には大きな報いがある」と約束してくださるのです。そして、私たちはこの約束が真実であることを知っているのです。なぜなら、神の御心を行うために迫害されたイエス様を、神様は三日目に栄光の体へと復活させられ、御自分の右の座へと上げられたからです。そのイエス・キリストの聖霊を与えられているがゆえに、私たちは神様からいただく大きな報いに喜びおどることができるのです。

 また、イエス様のために迫害されることは、旧約の預言者たちに連なる者であることのしるしでもあります。なぜなら、旧約の預言者たちも来るべきお方、約束のメシアについて預言し、そのために人々から迫害されたからです。使徒言行録の第7章52節で、ステファノが、「いったい、あなたがたの先祖が迫害しなかった預言者が、一人でもいたでしょうか。彼らは、正しい方が来られることを預言した人々を殺しました」と言っているように、人々から迫害されることは旧約の預言者たちの伝統に連なることであるのです(歴代誌下36:16、ネヘミヤ9:29参照)。

結.天へと心を向けて生きる

 生まれながらの人間にとって、イエス様のために迫害されることは愚かなことであり、決して喜ばしいことではありません。けれども、イエス・キリストの弟子たちにとっては、イエス様のために迫害されることは大きな報いがある喜ばしいことなのです。この違いは、生まれながらの人がこの地上の生涯のことだけを考えているのに対して、イエス・キリストの弟子たちが、この地上の生涯のことよりもイエス・キリストのおられる天へと心を向けていることによります(フィリピ3:17~21参照)。地上の生涯だけを考えるならば、イエス様のためであろうと迫害されることは避けたいことです。しかし、イエス・キリストがおられる天に思いを向ける私たちキリスト者にとって、イエス様のために迫害されることは光栄なこと、喜ばしいことであるのです(一ペトロ4:12~16参照)。

 今朝は最後に、ヘブライ人への手紙第11章13節から16節までを読んで終わりたいと思います。

 この人たちは皆、信仰を抱いて死にました。約束されたものを手にいれませんでしたが、はるかにそれを見て喜びの声をあげ、自分たちが地上ではよそ者であり、仮住まいの者であることを公に言い表したのです。このように言う人たちは、自分が故郷を探し求めていることを明らかに表しているのです。もし出て来た土地のことを思っていたのなら、戻るのに良い機会もあったかもしれません。ところが実際は、彼らは更にまさった故郷、すなわち天の故郷を熱望していたのです。だから、神は彼らの神と呼ばれることを恥となさいません。神は、彼らのために都を準備されていたからです。

 私たちもこのような信仰を持って、イエス・キリストのために苦しむことを喜ぶ者たちでありたいと願います。

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