平和を実現する人々は幸いである 2013年3月17日(日曜 朝の礼拝)
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平和を実現する人々は幸いである
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- 村田寿和 牧師
- 聖書
マタイによる福音書 5章1節~12節
聖書の言葉
5:1 イエスはこの群衆を見て、山に登られた。腰を下ろされると、弟子たちが近くに寄って来た。
5:2 そこで、イエスは口を開き、教えられた。
5:3 「心の貧しい人々は、幸いである、/天の国はその人たちのものである。
5:4 悲しむ人々は、幸いである、/その人たちは慰められる。
5:5 柔和な人々は、幸いである、/その人たちは地を受け継ぐ。
5:6 義に飢え渇く人々は、幸いである、/その人たちは満たされる。
5:7 憐れみ深い人々は、幸いである、/その人たちは憐れみを受ける。
5:8 心の清い人々は、幸いである、/その人たちは神を見る。
5:9 平和を実現する人々は、幸いである、/その人たちは神の子と呼ばれる。
5:10 義のために迫害される人々は、幸いである、/天の国はその人たちのものである。
5:11 わたしのためにののしられ、迫害され、身に覚えのないことであらゆる悪口を浴びせられるとき、あなたがたは幸いである。
5:12 喜びなさい。大いに喜びなさい。天には大きな報いがある。あなたがたより前の預言者たちも、同じように迫害されたのである。」マタイによる福音書 5章1節~12節
メッセージ
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序.
山上の説教の冒頭に置かれています、「幸いの教え」について一つずつ学んでおります。今朝は、7番目の幸いの教えである9節の「平和を実現する人々は幸いである、その人たちは神の子と呼ばれる」というイエス様の御言葉について御一緒に学びたいと思います。
1.平和とは?
「平和を実現する人々は幸いである、その人たちは神の子と呼ばれる」。新共同訳聖書は、「平和を実現する人々」と翻訳しておりますが、口語訳聖書は「平和をつくり出す人たち」と翻訳しております。この口語訳聖書の翻訳の方が元の言葉に近いのです。「平和を実現する人々」とは「平和をつくり出す人々」であるのです。イエス様は「平和のうちに過ごしている人々は幸いである」と言われたのではなくて、「平和をつくり出す人々は幸いである」と言われているのです。
では、「平和」とは何でしょうか?手元にありました国語辞典で「平和」という言葉の意味を調べてみると次のように記されていました。「①心配・もめごとが無く、和やかな状態。②戦争や災害などが無く、不安を感じないで生活できる状態」。私たちが「平和」と聞きますと、おそらく「戦争」のない状態を考えるのではないかと思います。しかし、イエス様が「平和をつくり出す人々は幸いである」と言われるとき、その「平和」とは何よりも神様の平和、神様との平和であるのです。聖書は神様を「平和の主」(士師記6:24)、「平和の神」(フィリピ4:9)、「平和の源である神」(ローマ16:20)と呼んでおります。ですから、神様を抜きにして平和について語ることはできないのです。
イエス様が「幸いである」と言われる「平和をつくり出す人々」の「平和」が何よりも神様の平和であり、神様との平和であるならば、私たちは誰がそのような平和をつくり出すことができるであろうかと思わされます。なぜなら、聖書はすべての人が神の御前に罪人であり、神から遠く離れており、神の御怒りに値する者であると教えているからです。ですから、私たちはここでも、私たちの思いを先ずイエス様へと向けなくてはなりません。「平和を実現する人々は幸いである、その人たちは神の子と呼ばれる」と言われるイエス様御自身が、私たちに先立って、私たちのために、平和を実現してくださったのです。
2.平和をつくり出す人
では、イエス様はどのようにして神様との平和をつくり出してくださったのでしょうか?水曜日の「聖書と祈りの会」では、今、コロサイの信徒への手紙を学んでいますが、その第1章15節から20節までをお読みします。新約聖書の368ページです。
御子は、見えない神の姿であり、すべてのものが造られる前に生まれた方です。天にあるものも地にあるものも、見えるものも見えないものも、王座も主権も、支配も権威も、万物は御子において造られたからです。つまり、万物は御子によって御子のために造られました。御子はすべてのものよりも先におられ、すべてのものは御子によって支えられています。また、御子はその体である教会の頭です。御子は初めの者、死者の中から最初に生まれた方です。こうして、すべてのことにおいて第一の者となられたのです。神は、御心のままに、満ちあふれるものを余すところなく御子の内に宿らせ、その十字架の血によって平和を打ち立て、地にあるものであれ、天にあるものであれ、万物をただ御子によって、御自分と和解させられました。
パウロはこのところを当時の賛美歌を用いて記していると言われておりますが、15節から18節前半までと、18節後半から20節までの大きく二つに区分することができます。第一区分の15節から18節前半では、御子イエス・キリストが万物の創造主であり、摂理の主であることが記されています。また第二区分の18節後半から20節では御子イエス・キリストが万物の贖い主であることが記されております。今朝、注目したいのは、19節、20節であります。「神は、御心のままに、満ちあふれるものを余すところなく御子の内に宿らせ、その十字架の血によって平和を打ち立て、地にあるものであれ、天にあるものであれ、万物をただ御子によって、御自分と和解させられました」。ここで「平和を打ち立て」と訳されている言葉が「平和をつくり出す」という言葉であるのです。口語訳聖書は、「十字架の血によって平和をつくり」と翻訳しております。しかし、私たちはここでの主語がイエス様ではなく、神様であることに注目したいと思います。神様が、御心のままに、満ちあふれるものを余すところなく御子の内に宿らせ、その十字架の血によって平和をつくり出してくださったのです。「満ちあふれるものを余すところなく御子の内に宿らせ」とは、「満ち満ちた神の本質を御子の内に宿らせ」られたということです(新改訳聖書参照)。つまり、肉となられた言であるイエス・キリスト、地上を歩まれたイエス・キリストの内には満ち満ちた神の本質が宿っておられるのです。イエス・キリストの十字架の死は、神と同じ本質を持つ神の子としての死であったのです。それゆえ、イエス・キリストの十字架の死は、万物を罪から贖うことができるのです。神様は御子の十字架の血によって御自分と私たち罪人との間に平和をつくり出してくださいました。すなわち、万物をただ御子によって、御自分と和解させられたのです。イエス様はこのような神様の御心に従って、神様と同じ心をもって、私たち罪人の身代わりに刑罰としての十字架の死を死んでくださったのです。このようなイエス様こそ「神様の愛する子であり、神様の御心に適う者」であるのです(マタイ3:17、17:5参照)。
3.平和をつくり出す人々
神様の御心に従って十字架の死を死なれたイエス様こそ、「平和をつくり出す人」でありますが、その弟子である私たちもイエス・キリストにあって、「平和をつくり出す人々」とされております。何度も申しておりますように、ここでイエス様が「幸いである」と言われているのは、生れながら持つ気質のことではなくて、聖霊によって与えられる気質のことであるからです。イエス・キリストの十字架の死が、自分の罪のためであったと信じるとき、また、イエス・キリストが自分を正しいとするために死から三日目に復活されたと信じるとき、その人は、イエス・キリストにあって神様の平和、神様との平和を与えられ、平和をつくり出す人々とされるのです。そして、その平和が実現している交わりこそ、キリストの教会であるのです。エフェソの信徒への手紙第2章14節から18節までをお読みします。新約聖書の354ページです。
実に、キリストはわたしたちの平和であります。二つのものを一つにし、御自分の肉において敵意という隔ての壁を取り壊し、規則と戒律ずくめの律法を廃棄されました。こうしてキリストは、双方を御自分において一人の新しい人に造り上げて平和を実現し、十字架を通して、両者を一つの体として神と和解させ、十字架によって敵意を滅ぼされました。キリストはおいでになり、遠く離れているあなたがたにも、また、近くにいる人々にも、平和の福音を告げ知らせられました。それで、このキリストによってわたしたち両方の者が一つの霊に結ばれて、御父に近づくことができるのです。
16節に、「十字架を通して、両者を一つの体として神と和解させ、十字架によって敵意を滅ぼされました」とありますが、ここで十字架によって滅ぼされた敵意は、神様と人との間にある敵意ばかりではなく、異邦人とユダヤ人との間にある敵意でもあります。すなわち、イエス・キリストは、十字架の死によって人と人の間にある敵意を滅ぼしてくださり、一人の新しい人に造り上げて、平和を実現してくださったのです。そして、この「一人の新しい人」こそ、イエス・キリストを頭とする教会であるわけです。ですから、教会こそ、神様の平和が実現している交わりであるのです。そして、そこで告げ知らせる福音は、「平和の福音」なのであります。私たちは、「平和をつくり出す人々」と聞きますと、デモをなして、「戦争反対」と叫ぶ人々を思い浮かべるかも知れません。しかし、イエス様が「幸いである」と言われる「平和をつくり出す人々」とは、平和の福音に生き、平和の福音を告げ知らせる人々のことであるのです。その最たる人は、使徒パウロであります。パウロは、コリントの信徒への手紙二第5章18節から21節で次のように記しています。新約聖書の331ページです。
これらはすべて神から出ることであって、神は、キリストを通してわたしたちを御自分と和解させ、また和解のために奉仕する任務をわたしたちにお授けになりました。つまり、神はキリストによって世を御自分と和解させ、人々の罪の責任を問うことなく、和解の言葉をわたしたちにゆだねられたのです。ですから、神がわたしたちを通して勧めておられるので、わたしたちはキリストの使者の務めを果たしています。キリストに代わってお願いします。神と和解させていただきなさい。罪と何のかかわりもない方を、神はわたしたちのために罪となさいました。わたしたちはその方によって、神の義を得ることができたのです。
このような和解の言葉こそ、平和の福音であります。そして、このような平和の福音を受け入れ、神と人との平和に生きる人々。このような平和の福音を告げ知らせる人々こそ、イエス様が「幸いである」と言われる「平和を実現する人々」であるのです。
今朝の御言葉に戻ります。新約聖書の6ページです。
結.その人たちは神の子と呼ばれる
イエス様は、「平和をつくり出す人々は幸いである、その人たちは神の子と呼ばれるであろうから」と言われました。「神の子と呼ばれる」の「呼ばれる」は元の言葉を見ますと未来形で記されています。ですから、これは将来のこと、イエス・キリストの再臨によって完成される神の国においてのことであります。そうしますと、ここで私たちを神の子と呼ばれるのが誰であるのかが分かってきます。つまり、私たちを神の子と呼んでくださるのは、父なる神様であるのです。この地上の誰かが、私たちを「神の子」と呼ぶのではありません。キリストの再臨によって完成される神の国において、神様が私たちを「神の子」と呼んでくださるのです。前回私たちは、「心の清い人々は幸いである、その人たちは神を見る」という御言葉について学びました。心の清い人々、それは神様に向かって「アッバ、父よ」と叫ぶ、幼子としての一筋の心を持つ人々のことでありました。そして、それは御子の霊を与えられている私たちキリスト者であるわけです。私たちは今、目に見えない方をまるで見えるようにして、信仰をもって礼拝しているわけでありますが、キリストの再臨によって完成される神の国においては、神様を見ることができるのです。そのとき、神様は、私たちを御自分の子と呼んでくださるのです。ヨハネの手紙一の御言葉によれば、私たちは今すでに神の子ですが、御子が現れるとき、御子に似た者となるのです。つまり、私たちは実質的にも神の子とされるのです。私たちも御子イエス様と同じように、神様の御心に完全に適う者たちとしていただけるのです。