心の清い人々は幸いである 2013年3月10日(日曜 朝の礼拝)
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心の清い人々は幸いである
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- 村田寿和 牧師
- 聖書
マタイによる福音書 5章1節~12節
聖書の言葉
5:1 イエスはこの群衆を見て、山に登られた。腰を下ろされると、弟子たちが近くに寄って来た。
5:2 そこで、イエスは口を開き、教えられた。
5:3 「心の貧しい人々は、幸いである、/天の国はその人たちのものである。
5:4 悲しむ人々は、幸いである、/その人たちは慰められる。
5:5 柔和な人々は、幸いである、/その人たちは地を受け継ぐ。
5:6 義に飢え渇く人々は、幸いである、/その人たちは満たされる。
5:7 憐れみ深い人々は、幸いである、/その人たちは憐れみを受ける。
5:8 心の清い人々は、幸いである、/その人たちは神を見る。
5:9 平和を実現する人々は、幸いである、/その人たちは神の子と呼ばれる。
5:10 義のために迫害される人々は、幸いである、/天の国はその人たちのものである。
5:11 わたしのためにののしられ、迫害され、身に覚えのないことであらゆる悪口を浴びせられるとき、あなたがたは幸いである。
5:12 喜びなさい。大いに喜びなさい。天には大きな報いがある。あなたがたより前の預言者たちも、同じように迫害されたのである。」マタイによる福音書 5章1節~12節
メッセージ
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序.
山上の説教の冒頭にあります「幸いの教え」について学んでおります。ここでイエス様は八つの幸いについて教えておられますが、今朝は6番目の幸いの教え、「心の清い人々は幸いである、その人たちは神を見る」という教えについてご一緒に学びたいと願います。
1.心の清さとは?
「心の清い人々は幸いである、その人たちは神を見る」。ここで「清い」と訳されている言葉は、「まじりけのない」「純粋な」とも訳すことができます。イエス様が「心の清い人々は幸いである」と言われるとき、そこで言われている心の清さとは、心がまじりけのないこと、純粋なことであるのです。まじりけのない純粋な心で神様を愛する人々、それが「心の清い人々」であるのです。前回、私たちは「憐れみ深い人々は幸いである、その人たちは憐れみを受ける」という教えについて学んだのでありますが、そのとき私は、「憐れみ深い人々とは、『隣人を自分のように愛する人』である」と申しました。憐れみ深い人々は、「隣人を自分のように愛しなさい」という最も重要な第二の掟を守る人々であるのです。そして、今朝の「心の清い人々」は最も重要な第一の掟である「心を尽くし、精神を尽くし、思いを尽くして、あなたの神である主を愛しなさい」という掟を守る人々であるのです。「心の清い人々」とは「心を尽くして神を愛する人々」であるのです。また詩編第86編11節に、「御名を畏れ敬うことができるように/一筋の心をわたしにお与えください」とありますように、「心の清い人々」とは、一筋の心をもって神様に仕える人々であるのです。それでは、生まれながらの人間は心を尽くして神様を愛することができるのでしょうか?また、一筋の心をもって神様にお仕えすることができるのでしょうか?聖書の答えは「できない」であります。イエス様は、「『心を尽くし、精神を尽くし、思いを尽くして、あなたの神である主を愛しなさい。』これが最も重要な第一の掟である」と言われましたが、生まれながらの人間は誰も、この最も重要な第一の掟を完全に守ることはできないのです。生まれながらの人間は、神を愛するよりも神を憎む傾向を持っているからです。神様は人間を御自分との愛の交わりに生きるように、御自分のかたちに似せて造られました。しかし、はじめの人・アダムの堕落によって、生まれながらの人間は、自らを神とするものとなってしまったのです。それゆえ、私たちは神様にではなく、自分の欲望に仕えるものとなってしまったのです。私たちはここでも「幸いの教え」が、生まれながらの人間が持つ気質のことではなくて、聖霊によって新しく生まれた人間が持つ気質であることを思い起こす必要があります。イエス様は、生まれながらに「心の清い人々」を見出されて、その人々を「幸いである」と言われるのではなくて、聖霊のお働きによって「心を清くされた人々」のことを「幸いである」と言われるのです。そして、それはキリストの弟子である私たちであるのです。心を探り、はらわたを究められる神様の御前に、「心の清い」と言えるような人々は、本来はおりません。いるのはただ一人の「心の清い人」・イエス・キリストだけであります。イエス様だけが心を尽くして神様を愛され、一筋の心をもって神様に仕えられたのです。
2.心の清い人
イエス様はヨハネによる福音書第8章29節で、「わたしは、いつもこの方の御心に適うことを行う」と言われましたが、イエス様がいつも神様の御心に適うことを行うことができたのは、イエス様が心を尽くして、神様を愛する人であったからです。また、一筋の心をもって神様に仕える人であったからです。イエス様が「心を尽くし、精神を尽くし、思いを尽くして、あなたの神である主を愛しなさい」という最も重要な第一の掟を完全に守られたことは、イエス様が神様の御心に従って十字架の死を死なれたことから分かります。イエス様は第22章37節以下で、「『心を尽くし、精神を尽くし、思いを尽くして、あなたの神である主を愛しなさい。』これが最も重要な第一の掟である。第二もこれと同じように重要である。『隣人を自分のように愛しなさい。』律法全体と預言者は、この二つの掟に基づいている」と言われました。そして、イエス様は、この二つの掟を成就する者として、十字架の死を死なれたのであります。言い換えれば、イエス様は「心の清い人」として、また「憐れみ深い人」として、十字架の死を死んでくださったのです。では、イエス様の十字架の死と「心を尽くし、精神を尽くし、思いを尽くして、あなたの神である主を愛しなさい」という掟がどのように結びつくのでしょうか?それは、十字架の死が神様の望んでおられることであり、神様の御心であられたからです。イエス様は、心を尽くして神様を愛して、十字架におつきになられたのです。また、イエス様の十字架の死と「隣人を自分のように愛しなさい」という掟がどのように結びつくのかと言えば、それはイエス様の十字架の死が私たちの罪を償う贖いの死であったからです。イエス様は、全身全霊をもって神様を愛し、自分のように私たちを愛して、十字架についてくださったのです。そして、神様はそのイエス様を死から三日目に栄光の体へと復活させてくださいました。神様は十字架の上で死んだイエス・キリストを墓の中から復活させることによって、この方が、心の清いお方であり、憐れみ深いお方であることを証明なされたのです。それゆえ、生まれながらの人間は、ただイエス・キリストにあって、「心の清い人々」となることができるのです。心の清い人であるイエス・キリストの聖霊と御言葉によって、私たちも「心の清い人々」としていただけるのです。心を尽くして神様を愛する者たち、一筋の心をもって神様に仕える者たちとしていただけるのです。
3.心の清い人々
心の清い人であるイエス・キリストの聖霊と御言葉が、私たちの心を清めてくださる。このことは、イエス様御自身が教えていることでもあります。ヨハネによる福音書の第15章1節から5節で、イエス様は次のように言われています。新約聖書の198ページです。
わたしはまことのぶどうの木、わたしの父は農夫である。わたしにつながっていながら、実を結ばない枝はみな、父が取り除かれる。しかし、実を結ぶものはみな、いよいよ豊かに実を結ぶように手入れをなさる。わたしの話した言葉によって、あなたがたはすでに清くなっている。わたしにつながっていなさい。わたしもあなたがたにつながっている。ぶどうの枝が、木につながっていなければ、自分では実を結ぶことができないように、あなたがたも、わたしにつながっていなければ、実を結ぶことができない。わたしはぶどうの木、あなたがたはその枝である。人がわたしにつながっており、わたしもその人につながっていれば、その人は豊かに実を結ぶ。わたしを離れては、あなたがたは何もできないからである。
ここでイエス様は、御自身を「まことのぶどうの木」と言われ、弟子たちを「その枝」であると言われました。つまり、ぶどうの木とその枝が生命的な関係にあるように、イエス様と弟子たちも生命的な関係にあるのです。それは、弟子たちにイエス様の聖霊が与えられるからであります。第15章の前の、第14章15節以下で、イエス様は「聖霊を与える約束」についてお語りになりました。第15章の「まことのぶどうの木」のお話は、弟子たちに聖霊が与えられること、あるいは与えられていることを前提として語られているのです。すなわち、イエス様と弟子である私たちは聖霊によって結ばれ、「わたしが生きているので、あなたがたも生きるようになる」と言われる生命的な関係に生かされているのです。それゆえ、イエス様は、「わたしの話した言葉によって、あなたがたは既に清くなっている」と言われるのです。聖霊は、弟子たちにすべてのことを教え、イエス様が話したことをことごとく思い起こさせてくださる霊であります(14:26参照)。その聖霊によってイエス様と結びつけられている私たちは、イエス様の御言葉によって既に清くなっているのです。今朝の御言葉で言えば、私たちはイエス様の聖霊と御言葉によって「心の清い人々」とされているのです。
また、このことは、使徒言行録の第15章で、使徒ペトロが語っていることでもあります。新約聖書の243ページ、使徒言行録の第15章8節から11節までをお読みします。
人の心をお見通しになる神は、わたしたちに与えてくださったように異邦人にも聖霊を与えて、彼らをも受け入れられたことを証明なさったのです。また、彼らの心を信仰によって清め、わたしたちと彼らとの間に何の差別をもなさいませんでした。それなのに、なぜ今あなたがたは、先祖もわたしたちも負いきれなかった軛を、あの弟子たちの首に懸けて、神を試みようとするのですか。わたしたちは、主イエスの恵みによって救われると信じているのですが、これは、彼ら異邦人も同じことです。
ここでペトロは、「彼らの心を信仰によって清め」と言っておりますが、ここでも聖霊が与えられていることが前提とされています。イエス様の聖霊と御言葉によって心を清められることは、信仰によって心を清められることであるのです。それゆえ、「心の清い人々」とは、「イエスは主である」と告白するキリスト者であるのです。イエス様が「幸いである」と言われる「心の清い人々」とは、信仰によって心を清くされた人々であるのです。そして、このようにして、神様はダビデの祈りに応えてくださったのです。詩編第51編でダビデは、「神よ、わたしの内に清い心を創造し/新しく確かな霊を授けてください」と祈っておりますが、神様はイエス・キリストにあって、私たちの内に清い心を創造し、新しい確かな霊を与えてくださったのです。そして、その清い心とは幼子の心であり、新しい確かな霊とは、「アッバ、父よ」と叫ぶ御子の霊であるのです(ガラテヤ4:6、ローマ8:15参照)。私たちがイエス・キリストにあって与えられた一筋の心、それは神様に全幅の信頼を置き、「アッバ、父よ」と叫ぶ神の子としての心であるのです。
今朝の御言葉に戻ります。新約聖書の6ページです。
結.その人たちは神を見る
イエス様は、「幸いなるかな、心の清い人たち、なぜなら、その人たちは神を見るであろうから」と言われました。新共同訳聖書は、「神を見る」と訳していますが、元の言葉を見ますと未来形で記されています。ちなみに、3節と10節の「天の国はその人たちのものである」は現在形で記されております。しかし、それに挟まれている、「その人たちは慰められる」「その人たちは地を受け継ぐ」「その人たちは満たされる」「その人たちは憐れみを受ける」「その人たちは神を見る」「その人たちは神の子と呼ばれる」はいずれも未来形で記されています(口語訳参照)。このことは、私たちが神の国の祝福に今既にあずかっていることと、私たちが神の国の祝福に完全にあずかるのは終末においてであることを教えています。使徒パウロが、コリントの信徒への手紙一第13章で「わたしたちは、今は、鏡におぼろに映ったものを見ている。だがそのときには、顔と顔とを合わせて見ることになる。わたしは、今は一部しか知らなくとも、そのときには、はっきりと知られているようにはっきり知ることになる」と記しているように、私たちが「神を見る」のは、終末においてであるのです。ですから、私たちは今、この地上において、目に見えない方を見えるようにして礼拝しているのです(ヘブライ11:27参照)。私たちはイエス・キリストへの信仰によって清められた心をもって、目に見えない方を見えるようにして礼拝しているのです。私たちはこの地上で神を見ることはできませんが、しかし神の言葉を聞くことができます。それゆえ、私たちは、イエス・キリストの名によってささげられるこの礼拝に、神様が豊かに御臨在してくださっていることを信じることができるのです。「天の父よ」と一筋の心をもって祈る私たちに、神様が御顔を向けてくださっていることが分かるのです。そして、その神の御顔は、イエス・キリストにあって私たちを愛してやまない御父の御顔であるのです。