憐れみ深い人々は幸いである 2013年3月03日(日曜 朝の礼拝)
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憐れみ深い人々は幸いである
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- 村田寿和 牧師
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マタイによる福音書 5章1節~12節
聖書の言葉
5:1 イエスはこの群衆を見て、山に登られた。腰を下ろされると、弟子たちが近くに寄って来た。
5:2 そこで、イエスは口を開き、教えられた。
5:3 「心の貧しい人々は、幸いである、/天の国はその人たちのものである。
5:4 悲しむ人々は、幸いである、/その人たちは慰められる。
5:5 柔和な人々は、幸いである、/その人たちは地を受け継ぐ。
5:6 義に飢え渇く人々は、幸いである、/その人たちは満たされる。
5:7 憐れみ深い人々は、幸いである、/その人たちは憐れみを受ける。
5:8 心の清い人々は、幸いである、/その人たちは神を見る。
5:9 平和を実現する人々は、幸いである、/その人たちは神の子と呼ばれる。
5:10 義のために迫害される人々は、幸いである、/天の国はその人たちのものである。
5:11 わたしのためにののしられ、迫害され、身に覚えのないことであらゆる悪口を浴びせられるとき、あなたがたは幸いである。
5:12 喜びなさい。大いに喜びなさい。天には大きな報いがある。あなたがたより前の預言者たちも、同じように迫害されたのである。」マタイによる福音書 5章1節~12節
メッセージ
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山上の説教の冒頭に置かれている「幸いの教え」について学んでおります。今朝は、7節の「憐れみ深い人々は幸いである、その人たちは憐れみを受ける」というイエス様の御言葉をご一緒に学びたいと思います。
「憐れみ深い人々は幸いである、その人たちは憐れみを受ける」。『広辞苑』によれば、「憐れみ」とは「あわれむこと」であり、「憐れむ」とは「ふびんに思う。同情する。気の毒に思う」ことを意味します。しかし、聖書において「憐れみ」とはただ心の中で同情することではありません。聖書において憐れみとは、行動において表される同情であるのです。ルカによる福音書の第10章で、イエス様は「善いサマリア人」のお話をなされました。そこには、サマリア人が追いはぎに襲われ、服をはぎ取られ、殴りつけられて半殺しにされた人を憐れに思い、近寄って傷に油とぶどう酒を注ぎ、包帯をして、自分のろばに乗せ、宿屋に連れて行って介抱したことが記されています。サマリア人は憐れに思って通り過ぎたのではなく、その憐れみを行動によって表したのでありました。そして、これこそ、聖書における「憐れみ」であるのです。では、生まれながらの人間は、このような「憐れみ」に生きることができるのでしょうか?そもそもイエス様はどのような文脈で、「善きサマリア人」のお話をされたのでしょうか?少し長いですが、ルカによる福音書第10章25節から37節までをお読みします。新約聖書の126ページです。
すると、ある律法の専門家が立ち上がり、イエスを試そうとして言った。「先生、何をしたら、永遠の命を受け継ぐことができるでしょうか。」イエスが、「律法に何と書いてあるか。あなたはそれをどう読んでいるか」と言われると、彼は答えた。「『心を尽くし、精神を尽くし、力を尽くし、思いを尽くして、あなたの神である主を愛しなさい。また、隣人を自分のように愛しなさい』とあります。」イエスは言われた。「正しい答えだ。それを実行しなさい。そうすれば命を得られる。」しかし、彼は自分を正当化しようとして、「では、わたしの隣人とはだれですか」と言った。イエスはお答えになった。「ある人がエルサレムからエリコへ下って行く途中、追いはぎに襲われた。追いはぎはその人の服をはぎ取り、殴りつけ、半殺しにしたまま立ち去った。ある祭司がたまたまその道を下って来たが、その人を見ると、道の向こう側を通って行った。同じように、レビ人もその場所にやって来たが、その人を見ると、道の向こう側を通って行った。ところが、旅をしていたあるサマリア人は、そばに来ると、その人を見て憐れに思い、近寄って傷に油とぶどう酒を注ぎ、包帯をして、自分のろばに乗せ、宿屋に連れて行って介抱した。そして、翌日になると、デナリオン銀貨二枚を取り出し、宿屋の主人に渡して言った。『この人を介抱してください。費用がもっとかかったら、帰りがけに払います。』さて、あなたはこの三人の中で、だれが追いはぎに襲われた人の隣人になったと思うか。」律法の専門家は言った。「その人を助けた人です。」そこで、イエスは言われた。「行って、あなたも同じようにしなさい。」
イエス様は、「わたしの隣人とはだれですか」と尋ねる律法学者に、「行って、あなたもこのサマリア人のようにしなさい」と言われるのでありますが、問題は、このサマリア人のような憐れみに生きることができるか?ということであります。そして、その答えは「できない」であるのです。イエス様は28節で、「正しい答えだ。それを実行しなさい。そうすれば命を得られる」と言われましたけれども、「善きサマリア人」のお話をされることによって、それは不可能であるということを示されたのです。つまり、「善きサマリア人」のお話でイエス様が教えておられることは、人は「隣人を自分のように愛しなさい」という掟を完全に守ることはできないということであるのです。そのことは、今朝の御言葉で言えば、「憐れみ深い人々は幸いであるが、生まれながらの人はその幸いに生きることができない」ということであります。では、私たちは一体どうすればよいのでしょうか?もう一度、マタイによる福音書に戻りたいと思います。新約聖書の6ページです。
「憐れみ深い人々は幸いである。その人たちは憐れみを受ける」。これまで「幸いの教え」について学んできましたが、そこで何度も確認したことは、ここでイエス様が幸いであると言われるのは、生まれついて持っている人間の気質ではなく、聖霊によって与えられる新しい人としての気質であるということです。そして、そのことは、今朝の「憐れみ深い人々」についても言えるのであります。イエス様は生まれながらに同情心のあつい人を見出されて、その人々を幸いであると言われているのではありません。イエス・キリストを信じて、聖霊のお働きによって憐れみ深くされた人々のことを、イエス様は幸いであると言われているのです。つまり、ここでイエス様は、御自分の弟子たちのことを、私たちのことを言っておられるのです。私たちは神様の深い憐れみを受けて、憐れみ深い者たちとされているのです。そのような私たちに、イエス様は「憐れみ深い人々は幸いである、その人たちは憐れみを受ける」と言われるのです。
聖書は、神様が憐れみ深いお方であることを、繰り返し教えています。例えば、詩編の第145編8節、9節に次のように記されています。旧約聖書の985ページです。
主は恵みに富み、憐れみ深く/忍耐強く、慈しみに満ちておられます。主はすべてのものに恵みを与え/造られたすべてのものを憐れんでくださいます。
このように神様は、憐れみ深く、造られたすべてのものを憐れんでくださるお方であります。では、神様の深い憐れみは、どのようにして表されるのでしょうか?それはすべてのものに食べ物を与え、その生活を支えてくださることによってであります。14節から16節に次のように記されています。
主は倒れようとする人をひとりひとり支え/うずくまっている人を起こしてくださいます。ものみながあなたに目を注いで待ち望むと/あなたはときに応じて食べ物をくださいます。すべて命あるものに向かって御手を開き/望みを満足させてくださいます。
このように神様は、私たちに食べ物を与え、私たちひとりひとりの生活を支えて、私たちを憐れんでくださっているのです。
また、神様の深い憐れみは、私たちの叫びを聞いて、私たちを罪の悲惨から救ってくださることによって表されます。17節から19節に次のように記されています。
主の道はことごとく正しく/御業は慈しみを示します。主を呼ぶ人すべてに近くいまし/まことをもって呼ぶ人すべてに近くいまし/主を恐れる人々の望みをかなえ/叫びを聞いて救ってくださいます。
このように神様の深い憐れみは、私たちを罪の悲惨から救ってくださることによって表されるのです。小教理の言葉で言えば、神様の深い憐れみは、創造と摂理の御業によって、さらには贖いの御業によって私たちに表されるのです。
神様の深い憐れみが、贖いの御業によって示されるというとき、私たちは主イエス・キリストのことを思わずにはおれません。なぜなら、神様は私たちを主イエス・キリストにあって罪から救ってくださったからです。神様の深い憐れみは、何よりもイエス・キリストにおいて、もっと言えば、イエス・キリストの十字架において表されたのであります。
今朝の御言葉に戻ります。新約聖書の6ページです。
福音書は、イエス様の公生涯について記しておりますが、それを読むとイエス様こそ、憐れみ深い人であったことが分かります。イエス様は人々を深く憐れまれて、人々の病をお癒しになり、御国の福音を宣べ伝えられました。そして、すべての人を罪の悲惨から救うために、憐れみ深い忠実な大祭司として、十字架の上で御自身をささげてくださったのです。先程、ルカによる福音書の第10章に記されている「善きサマリア人」のお話を読みましたけれども、追いはぎに襲われた人を憐れに思い、治療し、介抱したサマリア人こそ、イエス様であると読むことができます。と言いますのも、ここで「憐れに思い」と訳されている言葉(スプラグニゾマイ)は直訳すると「はらわたがちぎれる思い」でありまして、この言葉はイエス様だけに用いられる言葉であるからです(マタイ9:36、14:14、15:32、20:34参照)。そのことは、生まれながらの人間が隣人に対してそれほどの思いを抱くことができないことを前提としています。祭司やレビ人が追いはぎに襲われた人のわきを通り過ぎていったことは、私たちにそのことを教えているわけです。私たちの憐れみにはいつも「自分でなくて良かった」という思いがこびりついているのです。つまり、私たちは隣人を自分のように愛することができないのです。けれども、イエス様はそのような私たちを愛して、私たちと心を一つにして、私たちを救うために十字架についてくださったのです。イエス様は罪人である私たちを憐れんで、私たちと心を一つにされて、十字架のうえで、「わが神、わが神、なぜわたしをお見捨てになるのか」と叫ばれたのです。
わたしは先程、このお話は、律法を実行して命を得ることができない、つまり、生まれながらの人間は隣人を自分のように愛することができないことを教えるお話であると申しました。けれども、このお話の中で、このサマリア人と同じように振る舞える人がただ一人いるのです。それは、言うまでもなく、このサマリア人に救っていただいた人であります。サマリア人の深い憐れみを受け、救っていただいた人だけが、隣人を自分のように愛することができるのです。すなわち、イエス様から深い憐れみを受けた私たちは、イエス様と同じ深い憐れみに生きることができる者とされているのです。そして、ここに、イエス様が「幸いである」と言われる道が開かれているのであります。
では、私たちの憐れみは、どのようにして他の人に表されるのでしょうか?それは神様の深い憐れみを映し出すものとしてであります。神様の憐れみ、それはすべてのものに食べ物を与えてくださることによって表されます。私たちはその神様の憐れみを受けている者として、貧しい人に施しをすることによって憐れみを表すのです。憐れみ深い人々は、神様の御心に従って施す人々でもあるのです。また、神様の深い憐れみは、私たちを罪の悲惨から救い出すということによって表されました。これは言い換えれば、私たちの罪を赦すということであります。神様の深い憐れみは、私たちの罪を赦すことであるのです。憐れみ深い神様は、イエス・キリストにあって、私たちのすべての罪を赦してくださいました。そうであれば、私たちの憐れみは、イエス・キリストにあって自分に罪を犯す者を赦すという仕方で表されるのです。憐れみ深い人々は、イエス・キリストにあって自分に罪を犯す人を赦す人々であるのです(マタイ18:21~35参照)。
イエス様は、「憐れみ深い人々は幸いである、その人たちは憐れみを受ける」と言われました。「その人たちは憐れみを受ける」とありますが、ここでの主語は神様であります。イエス様は、「幸いなるかな、憐れみ深い人たち。なぜなら、神様がその人たちを憐れんでくださるであろうから」と言われるのです。私たちが神様の憐れみを映し出す憐れみに生きるとき、私たちはいよいよ神様から憐れみを受けることができます。神様から深く憐れまれている者として私たちが施し、イエス・キリストにあって自分に罪を犯す人を赦すとき、神様は私たちに必要なものを与え、イエス・キリストにあって私たちの罪を赦してくださるのです。