柔和な人々は幸いである 2013年2月03日(日曜 朝の礼拝)
問い合わせ
柔和な人々は幸いである
- 日付
-
- 説教
- 村田寿和 牧師
- 聖書
マタイによる福音書 5章1節~12節
聖書の言葉
5:1 イエスはこの群衆を見て、山に登られた。腰を下ろされると、弟子たちが近くに寄って来た。
5:2 そこで、イエスは口を開き、教えられた。
5:3 「心の貧しい人々は、幸いである、/天の国はその人たちのものである。
5:4 悲しむ人々は、幸いである、/その人たちは慰められる。
5:5 柔和な人々は、幸いである、/その人たちは地を受け継ぐ。
5:6 義に飢え渇く人々は、幸いである、/その人たちは満たされる。
5:7 憐れみ深い人々は、幸いである、/その人たちは憐れみを受ける。
5:8 心の清い人々は、幸いである、/その人たちは神を見る。
5:9 平和を実現する人々は、幸いである、/その人たちは神の子と呼ばれる。
5:10 義のために迫害される人々は、幸いである、/天の国はその人たちのものである。
5:11 わたしのためにののしられ、迫害され、身に覚えのないことであらゆる悪口を浴びせられるとき、あなたがたは幸いである。
5:12 喜びなさい。大いに喜びなさい。天には大きな報いがある。あなたがたより前の預言者たちも、同じように迫害されたのである。」マタイによる福音書 5章1節~12節
メッセージ
関連する説教を探す
序.
山上の説教のはじめに置かれている「幸いの教え」について学んでおります。イエス様は群衆を視野に入れながら、弟子たちにどのような人々が幸いであるのかをここで教えておられます。つまり、イエス様はまだ信仰を言い表わしていない者たちを視野に入れつつ、すでに信仰を言い表わしている私たちに対して、幸いについて教えられているのです。今朝は、5節のイエス様の御言葉、「柔和な人々は幸いである、その人たちは地を受け継ぐ」について御一緒に学びたいと思います。
1.イエスの言われる柔和
「柔和な人々は幸いである、その人たちは地を受け継ぐ」。手元にありました国語辞典で、「柔和」という言葉を引きますと「優しくて穏やかな様子」と記されておりました。ですから、「柔和な人々」とは、「優しくて穏やかな人々」と言えます。ここでイエス様が「幸いである」と言われる「柔和な人々」も「優しくて穏やかな人々」のことであると考えてよろしいと思います。しかし、それだけでは薄っぺらな解釈でありまして、問題はその「優しさ」「穏やかさ」が何を源としているかということであります。
これまで二回、「幸いの教え」についてお話ししてきましたが、イエス様が教える幸いを正しく理解するために大切な三つのポイントをお話ししました。一つ目のポイントは、ここでイエス様が言われている「幸い」は人間が生れながらにもっている気質のことではなくて、聖霊によって与えられる新しい人としての気質であるということです。生れながらに柔和な人々がいて、そのような人々をイエス様は幸いであると言われたのではありません。聖霊のお働きによって、柔和にさせられた人々、そのような人々をイエス様は幸いであると言っておられるのです。
「幸いの教え」を正しく理解するために大切な二つ目のポイントは、一つ一つの教えを切り離さずに、全体として読むことであります。なぜなら、イエス様は九つの幸いを九つのグループに対して語っておられるのではなくて、ただ一つのグループ、すなわち御自分の弟子たちに対して語っておられるからです(11節の「あなたがたは幸いである」参照)。ですから、心の貧しい人々は悲しむ人々であり、悲しむ人々は柔和な人々であるわけです。
「幸いの教え」を正しく理解するために大切な三つ目のポイントは、前の教えとのつながり、論理的展開を重んじて読むことであります。イエス様は九つの幸いについて教えておられますが、その教えられた順序にも大切な意味があるのです(イザヤ61:1、2参照)。ですから、イエス様が「幸いである」と言われる「柔和」を、私たちはその直前の教え、「悲しむ人々は幸いである、その人たちは慰められる」とのつながりから理解すべきであるのです。
このような三つのポイントを念頭において、イエス様が「幸いである」と言われる「柔和な人々」について考えるとき、イエス様が言われる柔和さ、優しさ、穏やかさが、自らの罪と他の人々の罪を悲しむ心を源とすることが分かるのです。イエス様が「幸いである」と言われる柔和さ、優しさ、穏やかさは、自らの罪と他の人々の罪を悲しむ人々が持つ柔和さ、優しさ、穏やかさのことであるのです。心の貧しい人々、神様の御前に誇るべきもの、より頼むべきものを何一つ持たない人々は、自分の罪に、また他の人々の罪に嘆き悲しむ人々でもありました。そして、自分の罪に、また他の人々の罪に嘆き悲しむ人々は、柔和になることができるのです。自分が神様の御前に罪人であり、そのことを嘆き悲しんでいる人は、他人から軽んじられようと、悪口を言われようと優しく穏やかに対応することができるのであります。それは、その人が自分の罪だけではなく、自分を軽んじ、自分に対して悪口を言う他人の罪をも悲しんでいるからです。もう少し分かりやすく、具体的に申しましょう。私たちは神様の御前に、すなわち祈りの中で、自分が罪人であることを告白いたします。また、自分が取るに足らない愚かな者、汚れた者であることを告白いたします。そのように私たちは自分の口で自分のことを言い表わすのですが、他人からそのように言われることを好まないのです。自分で自分のことを罪深い者であると言っても、他人から「あなたは罪深い人ですね」と言われるのが我慢できないのです。しかし、イエス様が「幸いである」と言われる「柔和な人々」はそうではありません。神様との関係において罪深い自分を、他人との関係においても認めるのです。「わたしは神様との関係において罪人であるが、人からそのようにを言われる筋合いはない」と言うのは「柔和な人々」の言うことではありません。「自分が神様の御前に罪人であることを、人に対しても認めている人」。それがイエス様の言われる「柔和な人々」であるのです。
2.パウロに見られる柔和
イエス様が「幸いである」と言われる「柔和な人々」の実例を、私たちは使徒パウロに見ることができます。パウロが柔和な人であったことは、彼の手紙を読むとよく分かります。特に、問題の多かったコリントの信徒たちへの手紙を読むとき、パウロが柔和な人であったことよく分かるのであります。コリントの信徒への手紙一第4章で、パウロは使徒としての労苦を次のように記しております。コリントの信徒への手紙一第4章9節から13節までをお読みします。新約聖書の303ページです。
考えてみると、神はわたしたち使徒を、まるで死刑囚のように最後に引き出される者となさいました。わたしたちは世界中に、天使にも人にも、見せ物となったからです。わたしたちはキリストのために愚か者となっているが、あなたがたはキリストを信じて賢い者となっています。私たちは弱いが、あなたがたは強い。あなたがたは尊敬されているが、わたしたちは侮辱されています。今の今までわたしたちは、飢え、渇き、着る物がなく、虐待され、身を寄せる所もなく、苦労して自分の手で稼いでいます。侮辱されては祝福し、迫害されては耐え忍び、ののしられては優しい言葉を返しています。今に至るまで、わたしたちは世の屑、すべてのものの滓とされています。
なぜパウロは、侮辱されては祝福し、迫害されては耐え忍び、ののしられては優しい言葉を返すことができたのでしょうか?それは、パウロが柔和な人であったからです。そして、そのパウロの柔和さは、かつて自分がキリスト者を侮辱し、迫害し、ののしっていた罪を悲しむ心から生まれて来たものなのです。かつて教会を迫害する者であり、その罪を悲しむ者であるからこそ、パウロは侮辱されては祝福し、迫害されては耐え忍び、ののしられては優しい言葉を返す、柔和な人となることができたのです。パウロはイエス・キリストの使徒である自分を侮辱し、迫害し、ののしる人々が今もなお罪の支配下に置かれていることを悲しんで、柔和な心で福音を宣べ伝えたのです(使徒26:18参照)。
また、パウロが侮辱されては祝福し、迫害されては耐え忍び、ののしられては優しい言葉を返すことができたのは、自分がイエス・キリストにあって神から重んじられていることを知っていたからです。イエス様が「幸いである」と言われる柔和さの源は罪を悲しむことだけではありません。そのような罪に悲しむ私たちを神が受け入れ、愛してくださっているのです。「悲しむ人々は幸いである。なぜなら、彼らは慰められるであろうから」とイエス様が言われたように、悲しむ人々は、神から慰められる人々でもあるのです。そして、その慰めは何より神様に受け入れられ、重んじられているという愛の認識によるのです。神様がわたしを愛し、わたしを重んじておられる。そのわたしの心を誰が傷つけることができるでしょうか?パウロは、イエス・キリストにおいて示された神様の愛をいただくことによって、誰に対しても柔和に接することができる人とされたのです。
3.イエスに見られる柔和
私たちは柔和な人の実例を使徒パウロに見たのですが、「柔和な人々は幸いである」と言われたイエス様が誰よりも柔和な人であったことを忘れてはなりません。イエス様御自身、この福音書の第11章28節から30節で次のように言っています。新約聖書の21ページです。
疲れた者、重荷を負う者は、だれでもわたしのもとに来なさい。休ませてあげよう。わたしは柔和で謙遜な者だから、わたしの軛を負い、わたしに学びなさい。そうすれば、あなたがたは安らぎを得られる。わたしの軛は負いやすく、わたしの荷は軽いからである。
ここでイエス様は、「わたしは柔和で謙遜な者だから」と言われております。イエス様は柔和であられた。それはイエス様が人々の罪を悲しみ、御自分が父なる神様から愛されていることを御存じであったからです。イエス様は軍馬にまたがる威張る王ではなくて、子ロバにまたがる柔和な王として、エルサレムに入城されるのです(21:5参照)。イエス様が柔和なお方であることが最も鮮やかに示されたのが、あの十字架の場面でありました。ルカによる福音書によれば、十字架につけられたイエス様は、自分を十字架につけ、ののしる者たちのためにこう祈られました。「父よ、彼らをお赦しください。自分が何をしているのか知らないのです」。イエス様がこのように祈ることができたのはなぜか。それはイエス様が人々の罪を悲しみ、神様から愛されていることを知っている柔和な人であったからです。このイエス様の聖霊を与えられたからこそ、パウロも「ののしられては優しい言葉を返す」ことができるようになったのです。ガラテヤの信徒への手紙第5章22節に、「霊の結ぶ実は愛であり、喜び、平和、寛容、親切、善意、誠実、柔和、節制です」とありますように、私たちはイエス様の聖霊によって、柔和という実を結ばせていただくことができるのです。
今朝の御言葉に戻ります。新約聖書の6ページです。
結.地を受け継ぐ幸い
イエス様は「柔和な人々は幸いである」と言われましたが、それは「その人たちが地を受け継ぐ」からです。イエス様は何の根拠もなしに、「柔和な人々は幸いである」と言われたのではなくて、「その人たちは地を受け継ぐ」ゆえに幸いであると言われたのです。「地を受け継ぐ」という言葉は、旧約の民にとっては、約束の地カナンを受け継ぐということを意味していました。しかし、ここでの「天の国」はイエス・キリストの再臨によって到来する「新しい天と新しい地」を意味しています。柔和な人々は天の国を、すなわち新しい天と新しい地を受け継ぐ者となるのです。なぜなら、柔和な王であるイエス様こそ、神様から天と地の一切の権能を授けられた王であられるからです。「柔和な人々は幸いである、その人たちは地を受け継ぐ」と言われたイエス様こそ、柔和な人であり、神様から地を受け継いだお方であるのです。それゆえ、イエス様の聖霊を与えられ、神の子とされた私たちも地を受け継ぐ者とされているのです。使徒パウロはローマの信徒への手紙第8章14節から17節で次のように記しています。新約聖書の284ページです。
神の霊によって導かれる者は皆、神の子なのです。あなたがたは、人を奴隷として再び恐れに陥れる霊ではなく、神の子とする霊を受けたのです。この霊によってわたしたちは、「アッバ、父よ」と呼ぶのです。この霊こそは、わたしたちが神の子供であることを、わたしたちの霊と一緒になって証ししてくださいます。もし子供であれば、相続人でもあります。神の相続人、しかもキリストと共同の相続人です。キリストと共に苦しむなら、共にその栄光をも受けるからです。
神様は柔和な人イエス・キリストを、地を受け継ぐ者となさいました。そして、イエス・キリストの弟子である私たちは、聖霊によって柔和な者たちへと造り変えていただき、キリストと共に地を受け継ぐ者とされているのです。「柔和な人々は幸いである、その人たちは地を受け継ぐ」。このイエス様の御言葉は、今朝私たちに対して語られている祝福の宣言なのであります。