悲しむ人々は幸いである 2013年1月27日(日曜 朝の礼拝)

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悲しむ人々は幸いである

日付
説教
村田寿和 牧師
聖書
マタイによる福音書 5章1節~12節

聖句のアイコン聖書の言葉

5:1 イエスはこの群衆を見て、山に登られた。腰を下ろされると、弟子たちが近くに寄って来た。
5:2 そこで、イエスは口を開き、教えられた。
5:3 「心の貧しい人々は、幸いである、/天の国はその人たちのものである。
5:4 悲しむ人々は、幸いである、/その人たちは慰められる。
5:5 柔和な人々は、幸いである、/その人たちは地を受け継ぐ。
5:6 義に飢え渇く人々は、幸いである、/その人たちは満たされる。
5:7 憐れみ深い人々は、幸いである、/その人たちは憐れみを受ける。
5:8 心の清い人々は、幸いである、/その人たちは神を見る。
5:9 平和を実現する人々は、幸いである、/その人たちは神の子と呼ばれる。
5:10 義のために迫害される人々は、幸いである、/天の国はその人たちのものである。
5:11 わたしのためにののしられ、迫害され、身に覚えのないことであらゆる悪口を浴びせられるとき、あなたがたは幸いである。
5:12 喜びなさい。大いに喜びなさい。天には大きな報いがある。あなたがたより前の預言者たちも、同じように迫害されたのである。」マタイによる福音書 5章1節~12節

原稿のアイコンメッセージ

序.

 先週から私たちは、山上の説教の最初に置かれている「幸いの教え」について学んでおります。今朝の御言葉でイエス様は、「どのような人々が幸いであるのか」を私たちに教えてくださっております。前回は1節から3節までを学びましたので、今朝は4節の「悲しむ人々は幸いである、その人たちは慰められる」というイエス様の御言葉について学びたいと願っております。

1.イエスの言われる悲しみ

 4節に次のように記されています。「悲しむ人々は幸いである。その人たちは慰められる」。このイエス様の御言葉を聞きます時に、世が教える幸いとは何と違うことかと思います。なぜなら、世は、悲しむ人々は不幸であると教えるからです。なぜなら、悲しみはしばしば不幸と呼ばれることによってもたらされるからであります。手元にありました国語辞典で「悲しい」という言葉を引きますと、「〔不幸に会った時など〕取り返しのつかない事どもを思い続けて、絶望的な気持ちになる様子」と記されておりました(『新明解国語辞典第三版』)。悲しみはしばしば不幸によってもたらされる。よって、悲しむ人々は不幸である。これが世の教える、いわば常識であります。しかし、イエス様は「悲しむ人々は幸いである」と言われるのです。そうであれば、私たちはイエス様が言われる悲しみの意味をよく考えなくてはならないと思います。国語辞典に記されている「悲しみ」とイエス様が「幸いである」と言われる「悲しみ」を同じものと考えてよいのか、ということです。イエス様が「幸いである」と言われる「悲しみ」を正しく理解するために、私たちはイエス様が教えている「幸いの教え」全体から理解する必要があります。イエス様はここで九つの幸いについて教えているのですが、「悲しむ人々は幸いである」もその中の一つであるのです。特に、前に語られている「幸いの教え」とのつながりから読むことが大切であります。イエス様は何のお考えもなく、九つの幸いについて教えられたのではなくて、熟慮されて、論理的に展開されるものとして九つの幸いについて教えられたのです。イエス様は「幸いの教え」を「心の貧しい人々は幸いである、天の国はその人たちのものである」という御言葉をもって始められました。なぜ、イエス様は「悲しむ人々は幸いである」という言葉から始められなかったのでしょうか?あるいは、「心の清い人々は幸いである」という言葉から始められなかったのでしょうか?そこにはやはり理由があるわけです。イエス様は「幸いの教え」を「悲しむ人々は幸いである」でも、「心の清い人々は幸いである」でもなくて、「心の貧しい人々は幸いである」という言葉で語り始められました。それは心の貧しい人々こそが、天の国の祝福に入ることができるからです。前回も学びましたように、心の貧しい人々とは、「神様の御前により頼むもの、誇るべきものを何一つ持たない人々」のことを言います。「あらゆる試練によって打ち砕かれ、聖霊によって神様の御前にへりくだることを教えられた人々」、それが「心の貧しい人々」であるのです。そして、心の貧しいことこそ、天の国に入るための必要条件であるわけです。心の貧しい人々だけが、神のメシアであるイエス・キリストにあって、今、天の国の祝福にあずかることができるのです。その幸いについて語った後で、イエス様は「悲しむ人々は幸いである、その人たちは慰められる」と言われたのです。つまり、ここでイエス様が言われる悲しみは、心の貧しい人々の悲しみであるのです。言い換えるならば、心の貧しい人々とは悲しむ人々でもあるのです。イエス様は九つの幸いについて教えられましたが、それは九つのグループについて語られたものではなくて、ただ一つのグループについて語られたものであります。そして、その一つのグループとは、イエス様の近くに寄って来た「弟子たち」であるのです。イエス様は「幸いの教え」によって、御自分の弟子たちがどのような人々であるのかを、また、御自分の弟子たちがいかに幸いな者であるのかを教えておられるのです。このことを確認したうえで、イエス様が「幸いである」と言われる悲しみについて考えてみたいと思います。

2.自分の罪を悲しむ人々

 前の教えとのつながりから考えるとき、イエス様が「幸いである」と言われる悲しみは、愛する者の喪失といった悲しみではなくて、心の貧しい人々に特有の悲しみであることが分かります。そして、それは何より神の御心に従うことのできない自らの罪に対する悲しみであるのです。イエス様が「悲しむ人々は幸いである。その人たちは慰められる」と言われる「悲しむ人々」とは、「自らの罪に悲しむ人々」であるのです。ここで「悲しむ」と訳されている言葉は、「嘆く」とも訳すことができます。「悲しむ人々」とは、自らの罪に嘆く人であるのです。このことは、「悲しむ人々」が「心の貧しい人々」であるならば、当然のことであります。私たちが神様の御前により頼むもの、誇るものを何一つ持たない、心の貧しい者として立つとき、そこで悲しまざるを得ないのは、私たちが神様の御心に従うことのできない罪人であるということであります。私たちは礼拝のはじめに、司式者の勧告に従い、罪の告白をいたします。自分の罪を嘆き悲しみつつ、私たちは神の御前に罪を告白するのです。このように心の貧しい者たちである私たちは、自分の罪を嘆き悲しむ者たちでもあるのです。主の日ごとの礼拝だけではありません。一日の業を終えて、その日の自分の思いや言葉や行いを祈りの中で吟味することによって、私たちは神の御心に従うことのできない自らの罪を悲しむべきであるのです。そのとき、私たちはイエス様が言われる幸いに生きることができるのであります。そして、この幸いに生きた実例を、私たちはイエス・キリストの使徒パウロに見ることができるのです。パウロが自らの罪を嘆き悲しむ人であったことは、ローマの信徒への手紙第7章を読むと分かります。ローマの信徒への手紙第7章18節から24節までをお読みします。新約聖書の283頁です。

 わたしは、自分の内には、つまりわたしの肉には、善が住んでいないことを知っています。善をなそうとする意志はありますが、それを実行できないからです。わたしは自分の望む善は行わず、望まない悪を行っている。もし、わたしが望まないことをしているとすれば、それをしているのは、もはやわたしではなく、わたしの中に住んでいる罪なのです。それで、善をなそうと思う自分には、いつも悪が付きまとっているという法則に気づきます。「内なる人」としては神の律法を喜んでいますが、わたしの五体にはもう一つの法則があって心の法則と戦い、わたしを五体の内にある罪の法則のとりこにしているのが分かります。わたしはなんと惨めな人間なのでしょう。死に定められたこの体から、だれがわたしを救ってくれるでしょうか。

 ここでパウロが嘆き悲しんでいるのは、「自分の中にある罪」についてであります。パウロは、望む善を行わずに、望まない悪を行ってしまう罪の法則が自分の中にあることに気づき、それに捕らわれている惨めな人間であることを嘆き悲しんでいるのです。このように自分の罪に対して嘆き悲しみ人を、イエス様は「幸いである」と言われるのであります。なぜなら、「その人たちは慰められる」からです。ここで「慰められる」と訳されている言葉は、「励ます」とも「力づける」とも訳すことができます。自分の罪に嘆き悲しむ人々を、神様は慰め、励まし、力づけてくださるのです。ですから、パウロは、「わたしはなんと惨めな人間なのでしょう」と嘆いた後で、「わたしたちの主イエス・キリストを通して神に感謝します」と記すのです(7:25)。そればかりか、「従って、今や、キリスト・イエスに結ばれている者は、罪に定められることはありません。キリスト・イエスによって命をもたらす霊の法則が、罪と死との法則からあなたを解放したからです」と記すのです(8:1)。罪に悲しむ私たちを、神はイエス・キリストを通して慰めてくださいます。イエス様は、私たちの罪のために十字架に死に、復活されることによって、私たちを罪と死の法則から解放してくださったのです。それゆえ、私たちは自分の罪を嘆き悲しみつつ、イエス・キリストのもとへと立ち帰るべきであるのです。そのとき、神様は私たちのすべての罪を赦し、私たちを慰め、励まし、力づけてくださるのであります。

 今朝の御言葉に戻ります。新約聖書の6頁です。

3.他の人の罪を悲しむ人々

 イエス様が「悲しむ人々は幸いである」と言われるとき、その悲しみは自分の罪だけに限られたものではありません。自分の罪を悲しむ人々は、他の人の罪をも悲しむのです。この地上に見られる罪の力、罪がもたらすあらゆる悲惨を悲しむのであります。この実例は、イエス様御自身であります。イエス様は聖霊によっておとめマリアからお生まれになった罪のないお方であります。ですから、自分の罪を悲しむということはありませんでした。しかし、イエス様は他の人の罪を悲しまれたお方でありました。福音書の中にイエス様が涙を流されたという記事が二箇所あります。1つは、ヨハネによる福音書の第11章35節であります。マルタとマリアの弟ラザロを、どこに葬ったのかとイエス様が尋ねる場面です。イエス様はラザロが葬られた墓の前に立って涙を流されました。イエス様は愛するラザロに死をもたらした罪の力を見て、それになすすべを持たない人々を見て、涙を流されたのです。イエス様は、罪の支配に泣くことしかできない人々のために、悲しまれたのであります。イエス様が涙を流されたことを記すもう一つの箇所はルカによる福音書の第19章であります。イエス様はエルサレムに入城するに先だって、その都のために泣かれました。イエス様は、エルサレムが御自分を拒絶し、滅ぼされる姿を見て、涙を流されたのです。イエス様を受け入れないこと、これも人々の罪であります(ヨハネ16:9参照)。イエス様はエルサレムが御自分を拒絶することによって滅びを招いてしまうことを悲しまれたのです。そのように彼らの罪のために涙を流されたのであります。そして、イエス様は人々の罪を悲しみながら、その人々を罪の支配から解き放つために十字架の死を死なれたのです。イエス様の心の内には、罪に捕らわれている人々への悲しみがいつもあったのです。そして、この悲しみをもって、使徒パウロもイエス・キリストの福音を宣べ伝えたのです。パウロはローマの信徒への手紙の第9章1節から3節で次のように述べています。

 わたしはキリストに結ばれた者として真実を語り、偽りは言わない。わたしの良心も聖霊によって証ししていることですが、わたしには深い悲しみがあり、わたしの心には絶え間ない痛みがあります。わたし自身、兄弟たち、つまり肉による同胞のためならば、キリストから離され、神から見捨てられた者となってもよいとさえ思っています。

 福音は喜びの知らせであります。しかし、パウロは、喜びの知らせを深い悲しみを抱きつつ、宣べ伝えたのです(フィリピ3:18参照)。

結.悲しみつつ福音を宣べ伝える

 私たちがまだイエス様を知らない人々に、イエス・キリストの福音を宣べ伝えるのはなぜですか?それは、その人が罪に捕らわれており、そのままでは滅んでしまうことを知っているからです。その人はそのことを知らないかも知れません。しかし、私たちはそのことを知っている者として、その人のために悲しまざるを得ないのです。私たちの語る言葉がその人に届かないのはなぜでしょうか?また、私たちがその人のために祈り続けることができないのはなぜでしょうか?それは私たちがその人のために本当に悲しんでいないからではないかと思うのです。なぜ、イエス様は十字架の死を死なれたのか?なぜ、パウロは迫害されながらも福音を宣べ伝えたのか?それは彼らが悲しむ人々であったからです。私たちが福音を宣べ伝えるのも同じ理由によるのです。そのような私たちに、イエス様は「その人たちは慰められる」と言われるのです。私たちが深い悲しみを抱きつつ語る言葉を用いて、聖霊なる神様がその人を説得してくださる。そのようにして、神様は私たちを慰めてくださいます。このことを信じて、私たちもイエス・キリストの福音を宣べ伝えていきたいと願います。

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