心の貧しい人々は幸いである 2013年1月20日(日曜 朝の礼拝)
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心の貧しい人々は幸いである
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- 村田寿和 牧師
- 聖書
マタイによる福音書 5章1節~12節
聖書の言葉
5:1 イエスはこの群衆を見て、山に登られた。腰を下ろされると、弟子たちが近くに寄って来た。
5:2 そこで、イエスは口を開き、教えられた。
5:3 「心の貧しい人々は、幸いである、/天の国はその人たちのものである。
5:4 悲しむ人々は、幸いである、/その人たちは慰められる。
5:5 柔和な人々は、幸いである、/その人たちは地を受け継ぐ。
5:6 義に飢え渇く人々は、幸いである、/その人たちは満たされる。
5:7 憐れみ深い人々は、幸いである、/その人たちは憐れみを受ける。
5:8 心の清い人々は、幸いである、/その人たちは神を見る。
5:9 平和を実現する人々は、幸いである、/その人たちは神の子と呼ばれる。
5:10 義のために迫害される人々は、幸いである、/天の国はその人たちのものである。
5:11 わたしのためにののしられ、迫害され、身に覚えのないことであらゆる悪口を浴びせられるとき、あなたがたは幸いである。
5:12 喜びなさい。大いに喜びなさい。天には大きな報いがある。あなたがたより前の預言者たちも、同じように迫害されたのである。」マタイによる福音書 5章1節~12節
メッセージ
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序.
私たちは今朝から、イエス様が山の上で教えられた、いわゆる山上の説教を学び始めます。山上の説教は、福音書記者マタイが、イエス様の教えをまとめ、編集したものでありまして、第5章から第7章に渡って記されております。今朝は第5章1節から12節までを読んでいただきましたが、このところは大変内容の豊かなところでありますので、何回かに分けてお話したいと思っております。今朝は、1節から3節までを学びたいと願っております。
1.山上の説教は誰に語られたか
1節前半に、「イエスはこの群衆を見て、山に登られた」とあります。「この群衆」にはイエス様に癒していただいた「いろいろな病気や苦しみに悩む者、悪霊に取りつかれた者、てんかんの者、中風の者など」のあらゆる病人が含まれております。イエス様はガリラヤ中を回って、会堂で教え、御国の福音を宣べ伝え、民のあらゆる病気を癒されました。その評判を聞いて、多くの人々が自分の家族や友人で病気や苦しみに悩む者たちをイエス様のもとに連れて来たのです。そして、イエス様はこれらの人々を癒されたのであります。こうして、ガリラヤ、デカポリス、エルサレム、ユダヤ、ヨルダン川の向こう側から、大勢の群衆が来てイエス様に従ったのです。イエス様はその群衆を見て、山に登られたのであります。「山」とありますが、小高い丘のようなものであったと言われております。イエス様が山に登られたのは、大勢の群衆から逃れるためであったというよりも、大勢の群衆に御国の福音を告げ知らせるためでありました。もちろん、「弟子たちが近くに寄って来た」とありますように、山上の説教は直接には弟子たちに対する教えであります。しかし、イエス様の視野には、群衆も入っているのです。そのことは、山上の説教の最後のところを見ると分かります。第7章28節、29節に次のように記されています。「イエスがこれらの言葉を語り終えられると、群衆はその教えに非常に驚いた。彼らの律法学者のようにではなく、権威ある者としてお教えになったからである」。このように、群衆もイエス様の山上の説教を聞いていたのです。山上の説教は直接には弟子たちへの教えでありますが、群衆もその聞き手であったのです。イエス様は群衆を視野に入れながら、山上の説教を弟子たちに語られたのです。
2.イエスの教える幸い
1節後半から2節に、「腰を下ろされると、弟子たちが近くに寄って来た。そこで、イエスは口を開き、教えられた」とあります。「腰を下ろして教える」ことは、律法の教師であるラビが正式に教えるときの姿勢でありました。前回私たちは、イエス様が4人の漁師を弟子にするお話を学んだのでありますが、ペトロとアンデレ、ヤコブとヨハネを始めとする弟子たちが、腰を下ろされたイエス様の近くに寄ってきたのです。そこで、イエス様は口を開き教えられたのです。この持って回った言い方は、イエス様がこれから教えられることがどれほど大切であるかを暗示しております。イエス様は群衆を視野に入れつつ、弟子たちにこう教えられました。「心の貧しい人々は幸いである、天の国はその人たちのものである。悲しむ人々は幸いである、その人たちは慰められる。柔和な人々は幸いである、その人たちは地を受け継ぐ。義に飢え渇く人々は幸いである、その人たちは満たされる。憐れみ深い人々は幸いである、その人たちは憐れみを受ける。心の清い人々は幸いである、その人たちは神を見る。平和を実現する人々は幸いである、その人たちは神の子と呼ばれる。義のために迫害される人々は幸いである、天の国はその人たちのものである。わたしのためにののしられ、迫害され、身に覚えのないことであらゆる悪口を浴びせられるとき、あなたがたは幸いである。喜びなさい。大いに喜びなさい。天には大きな報いがある。あなたがたより前の預言者たちも、同じように迫害されたのである」。このところは九つの幸いの教えが記されておりますが、今朝は3節の「心の貧しい人々は幸いである、天の国はその人たちのものである」というイエス様の御言葉をご一緒に学びたいと思います。
3.心の貧しい人々は幸いである
新共同訳聖書は、「心の貧しい人々は幸いである」と翻訳していますが、文語訳聖書は、「幸いなるかな、心の貧しき者」と翻訳しています。こちらの方がもとの言葉に近く、イエス様の言われた言葉の勢いをよく表していると思います。イエス様は「幸いなるかな、心の貧しい人たち」と言われたのです。旧約聖書の詩編第1編に、「いかに幸いなことか、・・・・・・主の教えを愛し/その教えを昼も夜も口ずさむ人」とありますが、イエス様は「いかに幸いなことか、心の貧しい人たちは」と言われるのです。ここで「心」と訳されている言葉は、8節の「心」とは違う言葉でありまして、むしろ「霊」と訳すべき言葉であります。イエス様は「霊において貧しい人々は幸いである」と言われたのです。また、ここで「貧しい」と訳されている言葉は、「物乞いする」とも訳すことができます。つまり、ここで言われている貧しさは、物乞いをしなくては生きていかれない極度の貧しさであるのです。では、「霊において貧しい人々」とはどのような人々のことを言うのでしょうか?それは神様の御前に誇るもの、より頼むものを何一つ持たない人々のことであります。そのような人々をイエス様は「幸いである」と言われるのです。なぜなら、「天の国はその人たちのものである」からです。「天の国はその人たちのものである」。ここに、イエス様が「心の貧しい人々は幸いである」と言われる根拠があるのです。そして、このことは旧約聖書のイザヤ書にも記されていたことでありました。実際に確認したいと思います。イザヤ書の第57章15節をお読みします。旧約聖書の1156頁です。
高く、あがめられて、永遠にいまし/その名を聖と唱えられる方がこう言われる。わたしは、高く、聖なる所に住み/打ち砕かれて、へりくだる霊の人と共にあり/へりくだる霊の人に命を得させ/打ち砕かれた心の人に命を得させる。
神様は、「打ち砕かれて、へりくだる霊の人と共にあり、へりくだる霊の人に命を得させ、打ち砕かれた心の人に命を得させる」と言われます。この「打ち砕かれて、へりくだる霊の人」こそ、イエス様が「幸いである」と言われる「心の貧しい人々」であるのです。心の貧しい人々とは、いろいろな病気や苦しみによって打ち砕かれて、神様の御前にへりくだることを教えていただいた者たちであるのです。
今朝の御言葉に戻ります。新約聖書の6頁です。
イエス様はいろいろな病気や苦しみに悩んでいた群衆を見て、山に登られましたが、私はこの群衆こそ、霊において貧しい人々であったのではないかと思います。彼らはいろいろな病気や苦しみに悩まされたことによって打ち砕かれ、神の御前にへりくだることを神から教えられた者たちであったのではないかと思うのです。宗教改革者ジャン・カルヴァンは、神が私たちをこの地上でいろいろな苦しみや悩みに遭わせられるは、私たちの心を来たるべき生へと向けさせるためであると述べております(『キリスト教綱要』3:9:1参照)。それゆえ、いろいろな病気や苦しみ、悩みは私たちが打ち砕かれて、神の御前にへりくだるための招きであると言うことができるのです。イエス様は、「心の貧しい人たちは幸いである」と言われました。しかし、生まれながらの人間は神の御前に自らを誇り、高ぶっているのです。ですから、イエス様が言われる「心の貧しい人々」とは、神の霊、聖霊のお働きによって心の貧しくされた人々のことを言っているのです。イギリスの有名な説教者にD・M・ロイドジョンズという人がおります。ロイドジョンズが記した『山上の説教』という書物が翻訳されて出版されております。そこで、ロイドジョンズ先生が強調しておりますことは、「イエス様が幸いであると言われているのは、人間が生まれながらにもっている気質ではなくて、聖霊によって与えられる気質のことである」ということです。生まれながらに「心の貧しい人」がいて、その人をイエス様は幸いであると言われているのではないのです。生まれついての人間の気質というものは神の御前に自らを誇り、高ぶっているわけです。しかし、そのような人間が、さまざまな苦しみや悩みによって打ち砕かれて、聖霊のお働きによって神の御前にへりくだる者とされるのです。そのようにして、自分ではなくて、神様に依り頼む者とされるのです。そして、イエス様は「天の国はその人たちのものである」と言われるのであります。
結.イエスの教える幸いに生きる
イエス様は弟子たちに幸いについて教えられましたが、イエス様御自身がこの幸いに生きられたことを私たちは忘れてはなりません。天の国、神の国は、イエス・キリストにおいて到来したのでありますが、それはイエス様が「心の貧しい人」であったからです。イエス様は御自分を空しくして、父なる神の御意志に従われました。イエス様が父なる神の御意志に完全に従うことができたのは、イエス様が心の貧しい人であったからです。イエス様はヨハネによる福音書第14章10節でこう言われています。「わたしが父の内におり、父がわたしの内におられることを、信じないのか。わたしがあなたがたに言う言葉は、自分から話しているのではない。わたしの内におられる父が、その業を行っておられるのである」。イエス様は「わたしがあなたがたに言う言葉は、自分から話しているのではない」と言われるほどに、自分を空しくして、神様の御支配に従われたのです。また、これと同じような言葉を、使徒パウロもガラテヤ信徒への手紙の中で記しております(2:20)。「生きているのは、もはやわたしではありません。キリストがわたしの内に生きておられるのです。わたしが今、肉において生きているのは、わたしを愛し、わたしのために身を献げられた神の子に対する信仰によるものです」。パウロは、「生きているのはもはやわたしではない。キリストがわたしの内に生きているのだ」と語るほどに、自分ではなく、キリストにより頼んで歩む者とされたのです。このように、私たちは主イエスや使徒パウロに、「心の貧しい人」の実例を見ることができるのです。主イエスは、まことの神のであり、まことの人となられた独特無比のお方でありますから、私たちと全く同じであるとは言えませんが、使徒パウロは私たちと同じ人間であります。生まれながらのパウロは神の御前に自らを誇り高慢な者でありました。フィリピの信徒への手紙の第3章を見ますと、パウロがかつてより頼んでいた肉の誇りのリストが記されています。パウロは自らの誇りによって、教会を、すなわちイエス・キリストを迫害したほどであったのです。そのようなパウロに、栄光の主イエスは現れてくださり、パウロを心の貧しい人に造り変えてくださったのです。そして、同じことが、イエス・キリストを信じ、イエス・キリストの弟子となった私たち一人一人にも起こったのです。成人洗礼を受けた者、幼児洗礼を受けて信仰告白した者は、誰でも神と教会の前に六つの誓約をしております。そこで、私たちは「自分が神の御前に罪人であり、神の怒りに価し、神の憐れみによらなければ、望みのないことを認め」(第二項)、「主イエス・キリストを神の御子、また罪人の救い主と信じ、救いのために、福音において提供されているキリストのみを受け入れ、彼にの依り頼み」(第三項)、「聖霊の恵みに謙虚に信頼し、キリストのしもべとしてふさわしく生きることを決心し約束し」たのです(第四項)。このようなことを神と教会の前に誓約することができるのは、心の貧しい人だけであります。私たちはイエス様が「幸いである」と言われる心の貧しい者として、天の国の祝福に入れられたのです。「心の貧しい人々は幸いである。天の国はその人たちのものである」。このイエス様の御言葉は、気休めのような空しい言葉ではありません。この地上において神の国を樹立されるメシア、王としての宣言であります。イエス様は心の貧しい者として父なる神の御意志に従い、十字架と復活によって、この地上に神の国を樹立されたのです。そのようなイエス様の御言葉として、私たちは幸いの教えを学んでいきたいと願います。