イエスに従う 2013年1月13日(日曜 朝の礼拝)
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- 村田寿和 牧師
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マタイによる福音書 4章18節~25節
聖書の言葉
4:18 イエスは、ガリラヤ湖のほとりを歩いておられたとき、二人の兄弟、ペトロと呼ばれるシモンとその兄弟アンデレが、湖で網を打っているのを御覧になった。彼らは漁師だった。
4:19 イエスは、「わたしについて来なさい。人間をとる漁師にしよう」と言われた。
4:20 二人はすぐに網を捨てて従った。
4:21 そこから進んで、別の二人の兄弟、ゼベダイの子ヤコブとその兄弟ヨハネが、父親のゼベダイと一緒に、舟の中で網の手入れをしているのを御覧になると、彼らをお呼びになった。
4:22 この二人もすぐに、舟と父親とを残してイエスに従った。
4:23 イエスはガリラヤ中を回って、諸会堂で教え、御国の福音を宣べ伝え、また、民衆のありとあらゆる病気や患いをいやされた。
4:24 そこで、イエスの評判がシリア中に広まった。人々がイエスのところへ、いろいろな病気や苦しみに悩む者、悪霊に取りつかれた者、てんかんの者、中風の者など、あらゆる病人を連れて来たので、これらの人々をいやされた。
4:25 こうして、ガリラヤ、デカポリス、エルサレム、ユダヤ、ヨルダン川の向こう側から、大勢の群衆が来てイエスに従った。マタイによる福音書 4章18節~25節
メッセージ
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序.
今朝の御言葉の直前の17節に、「そのときから、イエスは、『悔い改めよ。天の国は近づいた』と言って、宣べ伝え始められた」と記されております。ガリラヤにおいて宣教を始められたイエス様が最初にしたこと、それは4人の漁師を御自分の弟子にするということでありました。イエス様はただお一人で、御国の福音を宣べ伝えたのではなくて、弟子たちを従えて、御国の福音を宣べ伝えたのです。
1.4人の漁師を弟子にする
18節に次のように記されています。「イエスは、ガリラヤ湖のほとりを歩いておられたとき、二人の兄弟、ペトロと呼ばれるシモンとその兄弟アンデレが、湖で網を打っているのを御覧になった。彼らは漁師だった」。ガリラヤ湖は南北20キロメートル、東西最大12キロメートルで、風景の美しい、漁業の盛んな湖でありました(『新共同訳聖書聖書辞典』参照)。そのガリラヤ湖のほとりをイエス様が歩いておられる。そして、二人の兄弟、ペトロと呼ばれるシモンとその兄弟アンデレが、湖で網を打っているのを御覧になられたのです。「彼らは漁師だった」とありますから、シモンとアンデレはこのとき、仕事の真っ最中であったわけです。そのような彼らに、イエス様はこう言われるのです。「わたしについて来なさい。人間をとる漁師にしよう」。「わたしについて来なさい」。これは律法の教師であるラビが弟子を招くときの決まった言い回しであると言われています。「わたしについて来なさい」は、もう少し丁寧に翻訳すると「わたしの後ろについて来なさい」となります。先生の後ろについて行く者、それが弟子であるわけです。イエス様はシモンとアンデレを御自分の弟子として招かれたのでありますが、続けて、「人間を取る漁師にしよう」と言われました。これももう少し丁寧に翻訳すると「わたしがあなたがたを人間を取る漁師にしてあげよう」となります。イエス様が、網を打って魚を捕っているシモンとアンデレを、人間を取る漁師にしてくださると言うのです。「人間をとる漁師」と聞きますと、なんだか物騒だなぁ、まるで人を誘拐するかのようだと思われるかも知れません。しかし、もちろんそのような意味ではありません。イエス様は、彼らを天の国へと人をとる漁師にしようと言われたのです。そして、二人はすぐに網を捨ててイエス様に従ったのです。
イエス様はシモンとアンデレを従えて、そこから進み、別の二人の兄弟、ゼベタイの子ヤコブとその兄弟ヨハネが、父親のゼベタイと一緒に、舟の中で網の手入れをしているのを御覧なり、彼らをお呼びになりました。イエス様が何という言葉で彼らをお呼びになったのかは記されておりませんが、おそらくシモンとアンデレに言われたのと同じ言葉であったと思います。そして、この二人もすぐに、舟と父親とを残してイエス様に従ったのです。
ペトロと呼ばれるシモン、その兄弟アンデレ、ゼベタイの子ヤコブとその兄弟ヨハネ、この4人は、後に12人の弟子に選ばれる者たちであります。特に、ペトロとヤコブとヨハネの三人は、イエス様から特別に目をかけられた弟子でありました。その者たちがどのようにしてイエス様の弟子となったかがこの所に記されているわけです。そこで、私たちが不思議に思うのは、「大の大人が、これほど簡単に従っていくだろうか」ということであります。イエス様に呼ばれるとシモンとアンデレは大切な仕事道具である網を捨ててすぐに従いました。また、ヤコブとヨハネも、イエス様に呼ばれると、舟と父親とを残してすぐに従ったのです。このような記述を読みますと、私たちは、この4人の漁師たちは、イエス様のことを以前から知っており、イエス様のお話を聞いたことがあったに違いないと考えます。そして、現に、ルカによる福音書やヨハネによる福音書を読みますと、そのようなことが書いてあるわけです。しかし、福音書記者マタイは、そのようなことを一切記しておりません。マタイが記していることは、イエス様がガリラヤ湖で網を打っている二人の兄弟を弟子として召されると、彼らがイエス様にすぐ従ったということです。また、イエス様が舟で父親と網の手入れをしている二人の兄弟を弟子として召されると、彼らがイエス様にすぐに従ったことであります。ここでマタイが強調していることは、イエス様の御言葉が持つ権威、人を従わせる力です。「わたしについて来なさい」というイエス様の御言葉を本当に聞いたとき、人は全てを捨てて従わざるをえないのです。そして、ここにイエス様の弟子とは、全てを捨ててイエス様の後に従う者であることが鮮やかに描かれているのです(創世記12:1~4参照)。私たちがイエス・キリストを信じて、キリスト者として歩み出したことは、私たちもこの4人の漁師たちのように、全てを捨ててイエス様の後に従って歩み出したことを意味しているのです。全てを捨てるということは、言い換えれば、主イエスに従うことを第一のこととして歩むということであります。そのとき、イエス様は私たちそれぞれの能力や経験を福音宣教と教会形成のために用いてくださるのです。そのようにイエス様は、私たちを御自分の弟子としてくださるのであります。
2.あらゆる病人を癒すイエス
23節に次のように記されています。「イエスはガリラヤ中を回って、諸会堂で教え、御国の福音を宣べ伝え、また、民衆のありとあらゆる病気や患いをいやされた」。ここには、イエス様のガリラヤ宣教の様子が要約的に記されています。イエス様はシナゴーグと呼ばれる会堂で教え、御国の福音を宣べ伝え、民衆のありとあらゆる病気や患いを癒されました。イエス様が多くの病人を癒されたことは24節にも、「人々がイエスのところへ、いろいろな病気や苦しみに悩む者、悪霊に取りつかれた者、てんかんの者、中風の者など、あらゆる病人を連れて来たので、これらの人々をいやされた」と記されています。このようにイエス様があらゆる病人を癒されたことは、イエス様において、天の国が地上に到来したことのしるしであるのです(マタイ12:28参照)。先日、教会にある方からお電話がありました。その方は、「聖書を一人で読んでいるが、そこに書いてあることは本当だろうか。例えば、イエスが病人を癒されたと書いてあるが本当だろうか」と質問されました。私は、「自分は本当であると信じている」と答えました。そして、「イエス様があらゆる病人を癒されたことは、イエス様において天の国が到来したことのしるしである」と語り、逆に私の方から「あなたは天国でも病人がいると思われますか?」と質問しました。私の質問にその方が何と答えてくださったかうろ覚えでありますが、皆さんはどうお考えになるでしょうか?この地上で患っている病は天国でも続くのでしょうか?この地上でいろいろな病気や苦しみに悩む者は、天の国においても悩まされなければならないのでしょうか?もちろんそうではありません。天の国において私たちのあらゆる病は癒され、私たちは苦しみや悩みから解き放たれるのです(黙示録21:4、22:2参照)。そのような天国の祝福がイエス様において到来したのです。
前回の説教で、「イエス様がガリラヤ宣教を開始されたときの言葉、『悔い改めよ。天の国は近づいた』という言葉は洗礼者ヨハネと全く同じであるが、その指し示す恵みは遙かに大きい。なぜなら、イエス・キリストにおいて天の国そのものが到来したからである」と申しました。そのことは洗礼者ヨハネが一人の病人も癒さなかったのに対して、イエス様は多くの病人を癒されたことに表れているのです(ヨハネ10:41参照)。イエス様は天の国の福音を宣べ伝えると同時に、病を癒されることによって、天の国が御自身において到来したことを示されたのです。そのイエス様に、ガリラヤ、デカポリス、エルサレム、ユダヤ、ヨルダン川の向こう側から、大勢の群衆が従ったのです。
結.私たちの病を癒すイエス
今朝は最後に、私たちが病の癒しについてどのように考えればよいのかをお話して終わりたいと思います。原則的な事を申しますと、啓示の書物である新約聖書が完結して以来、しるしとしての病の癒しは止んでおります。初代教会において、使徒たちはイエス・キリストの名によって多くの病人を癒しましたけれども、新約聖書が完結したことによって、しるしとしての病の癒しは行われなくなりました。現在、イエス様は一般恩恵としての医療を通して、いろいろな病気を癒やしてくださっております。ですから、私たちは薬やお医者さんの手を通して、イエス様の癒しにあずかっているのです。そのような意味で、お医者さんは、その人が意識していなくとも、主が用いられる器であるのです。そのことを踏まえつつ、今回説教を準備して思わされたことは、では、私たちはいろいろな病気や苦しみに悩む人をイエス様のもとへと、すなわち教会へと連れて来なくても良いのだろうか?ということです。確かに、教会において、しるしとしての病の癒しは止んでおりますけれども、それでは、私たちはいろいろな病気や苦しみに悩む人を教会へと、イエス様のもとへと連れて来なくても良いのでしょうか?私はそうではないと思います。なぜなら、聖書はいろいろな病気や苦しみや悩みが究極的には人間の罪に由来すると教えているからです。そして、この罪から私たちを救ってくださるお方がイエス・キリストであるのです。それゆえ、イエス様こそ、私たちの本当の癒し主であるのです。いろいろな病気や苦しみに悩む人を教会に連れてきても、その病気が癒されるわけでも、苦しみや悩みが無くなるわけでもないかも知れない。しかし、イエス・キリストのおられる天の国においては、あらゆる病が癒され、苦しみや悩みから解き放たれることを、今朝の御言葉は私たちに教えているのです。そして、イエス・キリストに従う者は、今も、医療を通して、また医療を越えてイエス様の癒しの業にあずかることができるのです。