イエス・キリストの誕生 2012年11月18日(日曜 朝の礼拝)
問い合わせ
イエス・キリストの誕生
- 日付
-
- 説教
- 村田寿和 牧師
- 聖書
マタイによる福音書 1章18節~25節
聖書の言葉
1:18 イエス・キリストの誕生の次第は次のようであった。母マリアはヨセフと婚約していたが、二人が一緒になる前に、聖霊によって身ごもっていることが明らかになった。
1:19 夫ヨセフは正しい人であったので、マリアのことを表ざたにするのを望まず、ひそかに縁を切ろうと決心した。
1:20 このように考えていると、主の天使が夢に現れて言った。「ダビデの子ヨセフ、恐れず妻マリアを迎え入れなさい。マリアの胎の子は聖霊によって宿ったのである。
1:21 マリアは男の子を産む。その子をイエスと名付けなさい。この子は自分の民を罪から救うからである。」
1:22 このすべてのことが起こったのは、主が預言者を通して言われていたことが実現するためであった。
1:23 「見よ、おとめが身ごもって男の子を産む。その名はインマヌエルと呼ばれる。」この名は、「神は我々と共におられる」という意味である。
1:24 ヨセフは眠りから覚めると、主の天使が命じたとおり、妻を迎え入れ、
1:25 男の子が生まれるまでマリアと関係することはなかった。そして、その子をイエスと名付けた。
マタイによる福音書 1章18節~25節
メッセージ
関連する説教を探す
序.
先週からマタイによる福音書を学び始めました。前回は、「イエス・キリストの系図」についてご一緒に学んだのでありますが、その16節に、「ヤコブはマリアの夫ヨセフをもうけた。このマリアからメシアと呼ばれるイエスがお生まれになった」と記されておりました。このことが、今朝の御言葉では物語として記されているわけです。今朝はご一緒に、「イエス・キリストの誕生の次第」について学びたいと思います。
1.聖霊による受胎
18節に、「イエス・キリストの誕生の次第は次のようであった。母マリアはヨセフと婚約していたが、二人が一緒になる前に聖霊によって身ごもっていることが明らかになった。」と記されています。ここで「母マリア」とありますが、「父ヨセフ」と記されていないことに私たちは注意したいと思います。なぜなら、イエス・キリストの母マリアは、ヨセフによってではなく、聖霊によって身ごもっていることが明らかになったからです。聖霊とは、神の霊のことであります。聖書の最初の書物である創世記を見ますと、天地万物が聖霊のお働きによって創造されたことが記されています。詩編の第33編6節に、「御言葉によって天は造られ/主の口の息吹によって天の万象は造られた」と記されているように、聖霊は創造の霊であられるのです。その聖霊のお働きによって、イエス・キリストは、処女マリアの胎に宿ったのです。私は、今、「処女マリア」と言いましたけれども、マリアとヨセフは婚約していましたが、まだ生活を共にしてはおりませんでした。つまり、肉体的な関係を持ってはいなかったのです。ユダヤでは、十代の中頃、あるいは後半に結婚したと言われていますが、およそ一年間の婚約期間を経てから生活を共にいたしました。ちなみに、ユダヤでは、婚約したことは、法的には結婚したも同じことでありました。ですから、19節でヨセフは「夫ヨセフ」と記されており、20節でマリアは「妻マリア」と記されているのです。婚約は結婚と同じであり、ヨセフとマリアは夫婦であったのです。しかし、二人が生活を共にする前に、ヨセフはマリアが身ごもっていることを見いだしたのであります。聖書は、「聖霊によって身ごもっていることが明らかになった」と記していますが、ヨセフには到底信じられないことであったと思います。妻マリアが自分と生活を共にする前に、妊娠していることが判明した。そうとなれば、当然、ヨセフは、マリアが自分以外の男と関係を持ったと考えたと思います。ですから、ヨセフはマリアとひそかに縁を切ろうとしたのです。
19節に、「夫ヨセフは正しい人であったので、マリアのことを表ざたにするのをのぞまず、ひそかに縁を切ろうとした。」と記されております。ヨセフが正しい人と言われるとき、それは何よりも神の御前に正しい人であった、ということです。神の掟に従って正しく生きてきたヨセフにとって、妻マリアが身ごもった以上、縁を切ることは当然のことでありました。しかし、ヨセフは、マリアを姦淫の罪で告発し、さらしものにすることは望まず、ひそかに縁を切ろうとしたのです。夫ヨセフの正しさは、妻マリアへの憐れみの心でもあったのです。このことについて、ある人は、次のような趣旨のことを述べています。ヨセフから離縁されたマリアは、後に子供を産む。すると、人々はその子供がヨセフの子だと思う。ヨセフは、婚約の間にマリアと関係を持ち、身ごもらせたにもかかわらず、離縁した。ヨセフはなんと卑劣な男であろうか、そのような人々からの非難を自分が受ける覚悟をもって、このとき、ヨセフはマリアをひそかに離縁しようと決心したのだと。ヨセフがマリアのことを表ざたにするのを望まず、ひそかに縁を切ろうとしたこと。私たちはここに、ヨセフの神に対する正しさと妻マリアへの愛を見ることができるのです。
2.神の子イエス・キリスト
ヨセフはマリアとひそかに縁を切ろうと決心したのでありますが、そのヨセフの夢に主の天使が現れます。聖書において「夢」は、神の啓示の一形態でありますから、私たちはこのヨセフの夢を彼の深層心理が造りだしたものと考えてはなりません。ヨセフの夢に主の天使が現れたことは、ヨセフに対して主なる神様の啓示があったということであるのです。ヨセフの夢に現れた主の天使は次のように言いました。「ダビデの子ヨセフ、恐れず妻マリアを迎え入れなさい。マリアの胎の子は聖霊によって宿ったのである。マリアは男の子を産む。その子をイエスと名付けなさい。この子は自分の民を罪から救うからである。」。主の天使は、ヨセフを「ダビデの子ヨセフ」と呼びかけました。私たちが系図によって教えられましたように、ヨセフはダビデの子孫であるのです。主の天使は、ダビデの子ヨセフに、「恐れず妻マリアを迎え入れなさい」と命じます。なぜなら、「マリアの胎の子は聖霊によって宿ったのである」からです。他の男によってマリアは身ごもったのではない。マリアは聖霊によって身ごもったのである。このことをヨセフは主の天使によって告げられるのです。さらに、主の天使は、マリアが男の子を産むことを告げ、「その子をイエスと名付けなさい」と命じるのです。イエスとは、ヨシュアのギリシャ語名であり、「主は救い」という意味であります。当時、イエスという名前は、ありふれた名前でありましたが、天使は聖霊によってマリアから生まれてくる男の子に、「イエス」という名前を付けるようヨセフに命じるのです。なぜなら、「この子は自分の民を罪から救うからである」からです。イエス・キリストが聖霊によって処女マリアの胎に宿られたこと、ヨセフがイエスと名付けるように命じられたことは、イエス・キリストが神の御子であることを私たちに教えているのです。
3.主の預言の成就
22節、23節は、福音書記者マタイによる注釈と考えられていますが、そこには次のように記されています。「このすべてのことが起こったのは、主が預言者を通して言われたいたことが実現するためであった。『見よ、おとめが身ごもって男の子を産む。その名はインマヌエルと呼ばれる。』この名は、『神は我々と共におられる』という意味である。」。マタイは、ダビデの子であるヨセフの妻マリアが聖霊によって身ごもり、男の子を産むのは、旧約聖書の預言が成就するためであると語ります。旧約聖書の預言の成就として、ダビデの子ヨセフの妻マリアは聖霊によって身ごもったのです。ここで、マタイが引用しております預言とは、旧約聖書のイザヤ書第7章14節の御言葉であります。この預言は元々は、紀元前8世紀に、ユダの王ウジヤに対して語られた主の預言でありました。この預言はウジヤの次の王、ヒゼキヤにおいて成就されるのですが、マタイは、この預言の最終的な、また完全な実現を、イエス・キリストの誕生において見ているのです。マタイは、イザヤの預言は最終的に、イエス・キリストの誕生において実現したと主張しているのです。「見よ、おとめが身ごもって男の子を産む」。新共同訳聖書は「おとめ」と翻訳していますが、新改訳聖書は「処女」と翻訳しています。新改訳聖書では、「見よ、処女がみごもっている。」と翻訳しています。マタイは、ここでヘブライ語聖書のギリシャ語訳、いわゆる七十人訳聖書を引用しているのですが、そこには確かに「処女」と記されているのです。ヘブライ語聖書では「未婚・既婚にかかわらず若い女性」を意味する「アルマー」という言葉が用いられているのですが、そのギリシャ語訳である七十人訳聖書では、「処女」を意味する「パルセノス」という言葉が用いられているのです。もちろん、「処女が身ごもって男の子を産む」というとき、それは夫婦の交わりによると考えられるわけです。しかし、マタイは、ここで文字通り、処女が身ごもって男の子を産むという奇跡が起こったと、言っているわけであります。そして、その男の子は、インマヌエル(神は我々と共におられる)と呼ばれる言うのであります。「神は我々と共におられる」という祝福は、処女マリアから生まれてくる男の子によって実現するのです。
4.ダビデの子イエス・キリスト
24節、25節には、主に従うヨセフの姿が記されています。「ヨセフは眠りから覚めると、主の天使が命じたとおり、妻を迎え入れ、男の子が生まれるまでマリアと関係することはなかった。そして、その子をイエスと名付けた。」。ヨセフは夢の中で、主の天使から2つのことを命じられておりました。1つは、「恐れずに妻マリアを迎え入れること」。そしてもう一つは、「生まれてくる男の子をイエスと名付けること」であります。ヨセフは、この主の命令に従いました。私たちはここに、ヨセフの主に対する信仰を見ることができるのです。ヨセフは、妻マリアが聖霊によって身ごもったという主の御言葉をそのまま信じて受け入れました。ですから、主の天使が命じたとおり妻を迎え入れたのです。なぜ、ヨセフは、主の天使の御言葉を受け入れることができたのでしょうか?それは、天使がヨセフを「ダビデの子ヨセフ」と呼びかけていることと関係があると思います。なぜ、マリアは聖霊によって身ごもったのか?それは、彼女がダビデの子ヨセフのいいなずけであったからです。ダビデの子孫からメシア、救い主がお生まれになる。そのことを信じ、期待していたのは誰よりもダビデの子であったヨセフであったと思います。その救い主が聖霊によって妻マリアから生まれる。そして、その救い主は自分の民を罪から救う救い主であることが、ヨセフに告げられたのです。それゆえ、ヨセフは主の天使に命じられたとおり、妻マリアを迎え入れ、産まれてきた男の子をイエスと名付けたのです。このことによって、ヨセフはマリアから生まれてくる男の子を自分の子として受け入れたのです。このようにして、イエス・キリストはダビデの子としてお生まれになったのであります。
結.インマヌエル
イエス・キリストは聖霊によっておとめマリアの胎に宿り、生まれた神の御子でありますが、ヨセフを法的な父として持つゆえに、ダビデの子であるのです。しかし、なぜ、神はこのようなことをされたのでしょうか?それは、イエス・キリストがもたらす救いと関係があります。イエス・キリストは御自分の民を罪から救ってくださるのでありますが、そのためには自分に罪がないことが必要であります。罪のある者が、他の人を罪から救うことはできません。罪のない方だけが、他の人を罪から救うことができるのです。しかし、アダムの子孫である私たち人間には生まれながらに罪があります。ですから、普通の生まれ方で生まれてくる者に、他の人を罪から救うことなどできないのです。ですから、イエス・キリストは、聖霊によって処女マリアの胎に宿り、お生まれになったのです。イエス・キリストは、聖霊によっておとめマリアからお生まれになった。このことはイエス・キリストが罪のないお方としてお生まれになったことを教えているのです。そして、それゆえに、イエス・キリストは御自分を信じるすべての者たちを、罪から救うことができるのです。生まれながらに罪に捕らわれているすべての人間は、ただイエス・キリストにあって、「神は我々と共におられる」というインマヌエルの祝福にあずかることができるのです。「神は我々と共におられる」という祝福は、今、私たちがあずかっている祝福でもあります。この福音書の最後で、復活されたイエス様は弟子たちにこう言われています。「わたしは世の終わりまで、いつもあなたがたと共にいる。」。天と地の一切の権能を授かっている復活の主イエス・キリストが、御言葉と聖霊において、私たちと共におられるのです。ですから、キリストの教会は、聖霊によって処女マリアから生まれたイエス・キリストこそ、私たちを罪から救ってくださる救い主であると大胆に語り、神と共に歩む祝福を告げ知らせることができるのです。