本物と証明された信仰 2021年3月21日(日曜 朝の礼拝)
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本物と証明された信仰
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- 村田寿和 牧師
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ペトロの手紙一 1章6節~12節
聖書の言葉
1:6 今しばらくの間、いろいろな試練に悩まねばならないかもしれませんが、
1:7 あなたがたの信仰は、その試練によって本物と証明され、火で精錬されながらも朽ちるほかない金よりはるかに尊くて、イエス・キリストが現れるときには、称賛と光栄と誉れとをもたらすのです。
1:8 あなたがたは、キリストを見たことがないのに愛し、今見なくても信じており、言葉では言い尽くせないすばらしい喜びに満ちあふれています。
1:9 それは、あなたがたが信仰の実りとして魂の救いを受けているからです。
1:10 この救いについては、あなたがたに与えられる恵みのことをあらかじめ語った預言者たちも、探求し、注意深く調べました。
1:11 預言者たちは、自分たちの内におられるキリストの霊が、キリストの苦難とそれに続く栄光についてあらかじめ証しされた際、それがだれを、あるいは、どの時期を指すのか調べたのです。
1:12 彼らは、それらのことが、自分たちのためではなく、あなたがたのためであるとの啓示を受けました。それらのことは、天から遣わされた聖霊に導かれて福音をあなたがたに告げ知らせた人たちが、今、あなたがたに告げ知らせており、天使たちも見て確かめたいと願っているものなのです。ペトロの手紙一 1章6節~12節
メッセージ
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序.
前回(1月31日)、私たちは、神様が豊かな憐れみにより、死者の中からのイエス・キリストの復活を通して、私たちを新たに生まれさせ、生ける希望を与えてくださったことを御一緒に学びました。生ける希望とは、私たちを生き生きと生かす希望であり、必ず実現する希望のことです。イエス・キリストにあって神の子とされた私たちは、天に蓄えられている、朽ちず、汚れず、しぼまない財産を必ず受け継ぐことができるのです。私たちは、キリストと共同の相続人として、義の宿る新しい天と新しい地を必ず受け継ぐことになるのです。なぜなら、私たちは、終わりの時に現されるように準備されている救いを受けるために、神の力により、信仰によって守られているからです。
ここまでは前回の振り返りであります。今朝は、6節後半から12節より、御言葉の恵みにあずかりたいと願っております。
1.本物と証明された信仰
6節後半から7節までをお読みします。
今しばらくの間、いろいろな試練に悩まねばならないかも知れませんが、あなたがたの信仰は、その試練によって本物と証明され、火で精錬されながらも朽ちるほかない金よりもはるかに尊くて、イエス・キリストが現れるときには、称賛と光栄と誉れとをもたらすのです。
私たちは、神の力により、信仰によって守られています。しかし、そのことは、私たちがいろいろな試練に遭って悩むことがなくなることを意味してはいません。私たちは、イエス・キリストを信じて、神様の祝福に生きる者でありますが、今しばらくの間、いろいろな試練に悩まねばならないのです。「今しばらくの間」とは、イエス・キリストが天から再び来られる日まで、ということです。あるいは、私たちが地上の生涯を終えて、イエス・キリストの御もとに召される日まで、ということです。こう聞きますと、地上に生きている間ずっとではないかと思うかも知れません。しかし、永遠という尺度からすれば、「今しばらくの間」であるのです。実際、この手紙の宛先である小アジアのキリスト者たちは、いろいろな試練に悩まされていました。その一つが、イエス・キリストを信じるゆえに、周りの人たちから悪口を言われるということでした。小アジアのキリスト者たちは、イエス・キリストを信じるゆえに、悪人呼ばわりされ、ののしられていたのです(一ペトロ2:12、3:16参照)。そのような試練は、私たちキリスト者にとって、父なる神様からの訓練でもあります。父なる神様は、私たちをいろいろな試練に遭わせることによって、私たちの信仰を訓練されるのです。そのような試練の積極的な面を、ペトロは金が火で精錬されることに譬えます。金が火で精錬されることによって、不純物が取り除かれ純度が増すように、私たちの信仰も試練によって、イエス様だけに依り頼む本物の信仰とされるのです(ヨブ36:19「苦難を経なければ、どんなに叫んでも/力を尽くしても、それは役に立たない」参照)。ペトロは、試練によって本物と証明された信仰は、金よりも遥かに尊いと言います。なぜなら、試練によって本物と証明された信仰は、イエス・キリストが現れるときに、私たちに称賛と光栄と誉れとをもたらすからです。イエス様は、ご自分に対する私たちの信仰を、金よりもはるかに尊いものと見なしてくださるのです(ルカ18:8「人の子が来るとき、果たして地上に信仰を見いだすだろうか」参照)。
試練によって本物と証明された信仰が称賛と光栄と誉れをもたらすこと。このことは、イエス様において起こったことであります。「試練によって本物と証明された信仰」とは、イエス・キリストの信仰であります。イエス様はいろいろな試練によって本物と証明された信仰によって、父なる神様から称賛と光栄と誉れを受けたのです。そのイエス様がいろいろな試練の中でイエス様を信じる私たちの信仰を見て、「忠実な僕よ、良くやった」と称賛してくださり、「主人の喜びに入れ」と栄光と誉れを与えてくださるのです(マタイ25:21、23参照)。
2.魂の救い
8節と9節をお読みします。
あなたがたは、キリストを見たことがないのに愛し、今見なくても信じており、言葉では言い尽くせないすばらしい喜びに満ち溢れています。それは、あなたがたが信仰の実りとして魂の救いを受けているからです。
この手紙を書いている使徒ペトロは、イエス様を見たことがありました。見たどころか、三年間、生活を共にして、イエス様から親しく教えを受けたのです。他方、この手紙の宛先の小アジアのキリスト者たちは、キリストを見たことがありませんでした。しかし、彼らは、イエス様を見たことがないのに愛し、今見なくても信じており、言葉では言い尽くせないすばらしい喜びに満ち溢れていたのです。そのことは、私たちも同じであります。私たちもイエス様を見たことがありません。しかし、イエス様を見たことがないのに愛し、今見なくても信じており、言葉では言い尽くせないすばらしい喜びに満ち溢れているのです。ペトロは、その理由を、「それは、あなたがたが信仰の実りとして魂の救いを受けているからです」と記します。「信仰の実りとしての魂の救い」とは、言い換えますと、「信仰によって、イエス様との交わりに生かされている」ということです。私たちは、確かに、イエス様を見たことはありません。しかし、イエス様に出会って、イエス様との交わりに今生かされているのです。イエス様の姿を見たことがなくても、イエス様と人格的に出会うということが起こるのですね。イエス様は聖霊と御言葉によって、私たちの心に触れてくださり、私たちと出会ってくださいました。目には見えませんけれども、私たちは、信仰によって、イエス様との交わりに生かされているのです。そして、イエス様との交わりには、言葉では言い尽くせないすばらしい喜びがあるのです。それは、地上の喜びを越えた天国の喜びです。親しい人(家族、友人、恋人など)と過ごす時間は、すばらしい喜びの時間でありましょう。それと同じように、いや、それ以上に、私たちにとって、イエス様との交わりの時間は、すばらしい喜びの時間であるのです。イエス様との交わりの時間の最たるものは、私たちが今ささげている礼拝の時間です。私たちは、この礼拝においてこそ、自分が信仰の実りとしての魂の救いを受けていることを実感できるのです。
3.あらかじめ語った預言者たち
10節から12節までをお読みします。
この救いについては、あなたがたに与えられる恵みのことをあらかじめ語った預言者たちも、探求し、注意深く調べました。預言者たちは、自分たちの内におられるキリストの霊が、キリストの苦難とそれに続く栄光についてあらかじめ証しされた際、それがだれを、あるいはどの時期を指すのか調べたのです。彼らは、それらのことが、自分たちのためではなく、あなたがたのためであるとの啓示を受けました。それらのことは、天から遣わされた聖霊に導かれて福音をあなたがたに告げ知らせた人たちが、今、あなたがたに告げ知らせており、天使たちも見て確かめたいと願っているものなのです。
信仰によってイエス・キリストに出会い、イエス・キリストとの交わりに生きる。この救いは、昔から預言者たちを通して、語られてきたものでした。旧約の預言者たちは、救い主によって恵みが与えられることを預言し、探求し、注意深く調べたのです。預言者たちは、自分たちの内におられるキリストの霊が、キリストの苦難とそれに続く栄光についてあらかじめ証しされた際、それがだれを、あるいは、どの時期を指すのか調べたのです。ここでペトロは、預言者たちの内にいる霊を「キリストの霊」と言っています。ペトロは「神の霊」とは言わずに、「キリストの霊」と言うのです。このキリストは、聖霊によっておとめマリアの胎に宿り、人としてお生まれになる前のキリストのことです。三位一体の神の第二位格である子なる神であるキリストのことです(ヨハネ1:1参照)。ペトロは、預言者たちの内で働かれたのは、キリストの霊であったと言うのです。そして、そのキリストの霊によって、預言者たちは、キリストの苦難とそれに続く栄光についてあらかじめ証ししたというのです。ここでの「キリスト」は、油を注がれた者、メシア、救い主のことです。預言者イザヤは、『イザヤ書』の第53章で、主のしもべの苦難の死と栄光について記しました。この「主のしもべ」は、油を注がれたメシア、救い主でもあります(マルコ1:11参照)。このように、預言者イザヤは、キリストの霊に導かれて、来たるべきお方であるキリストの苦難と栄光についてあらかじめ証ししたのです。
預言者たちは、それがだれを、どの時期を指すのかを調べました。そして、彼らに示された答えは、それらのことが、自分たちのためではなくて、イエス・キリストを信じて生きる私たちのためであるというものでした。預言者たちは、イエス・キリストを信じる私たちのために預言していたのです。それは、預言者たちがあらかじめ証しした苦難を通して栄光に入られるキリストこそ、十字架の死を死なれて、三日目に栄光の体で復活されたイエス様であるからです。私たちが、十字架の死を死なれて、三日目に栄光の体で復活されたイエス様を、キリスト、救い主として信じることができるのは、なぜでしょうか?それは、預言者たちが、キリストの苦難とそれに続く栄光についてあらかじめ証ししてくれていたからです。
私たちは、イエス・キリストを信じて、神様の救いにあずかっています。私たちは、イエス・キリストにあってすべての罪を赦されて、神様との親しい交わりに生かされているのです。その救いに、私たちはどのようにしてあずかることができたのでしょうか。それは、イエス・キリストの福音を聞くことによってでありました。イエス・キリストがあなたの罪のために十字架の死を死んでくださった。そして、あなたを正しい者とするために栄光の体で復活してくださった。この良き知らせを聞いて、そして、信じて、私たちは救いにあずかることができたのです。そして、その福音を、今度は私たちが宣べ伝える者とされているのです。十字架の死から復活されて、天におられるイエス・キリストの聖霊に導かれて、今度は、私たちが、まだ信じていない人たちのために福音を宣べ伝える者とされているのです。私たちが信じ、宣べ伝えている救いは、天使たちが見て確かめたいと願っているほどの、すばらしい救いであるのです。天上で神様に仕えている天使たちが、身をかがめて、のぞき込みたいほどの、すばらしい救いに、私たちは今、あずかっているのです。