Q.95
- 問い
- 洗礼は、だれに執行されるのですか。
- 答え
- 洗礼は、可見的教会の外にいる人には、キリストへの信仰と服従とを告白するまでは、だれにも執行してはなりません。しかし、可見的教会の会員の幼児は、洗礼を受けなければなりません。
すると、ペトロは彼らに言った。「悔い改めなさい。めいめい、イエス・キリストの名によって洗礼を受け、罪を赦していただきなさい。そうすれば、賜物として聖霊を受けます。この約束は、あなたがたにも、あなたがたの子供にも、遠くにいるすべての人にも、つまり、わたしたちの神である主が招いてくださる者ならだれにでも、与えられているものなのです。」使徒言行録 2章38節~39節
問88によれば、キリストがあがないの祝福を私たちに伝えるのに用いられる外的手段とは、キリストの規定、特に御言葉と礼典と祈りです。また、問93によれば、新約の礼典は、洗礼と主の晩餐の二つです。
問95は、洗礼がだれに執行されるべきかについて、次のように告白しています。「洗礼は、可見的教会の外にいる人には、キリストへの信仰と服従とを告白するまでは、だれにも執行してはなりません。しかし、可見的教会の幼児は、洗礼を受けなければなりません」。
「可見的(かけんてき)教会」という言葉が出て来ますが、元の言葉はヴィジブルチャーチ(visible church)で、「見える教会」のことです。大教理問答は、問62で「見える教会」について、問64で「見えない教会」について告白しています。簡単に言うと、見える教会とは地上の教会のことであり、見えない教会とは天上の教会のことです。私たちは使徒信条で「わたしは聖なる公同の教会・・・を信じます」と告白しています。その聖なる公同の教会とは見えない教会、天上の教会のことです。そして、見えない教会、天上の教会に入るための通常の手段が、見える教会、地上の教会の一員となることなのです。
小教理は「洗礼は、見える教会の外にいる人には、キリストへの信仰と服従を告白するまでは、だれにも執行してはなりません」と告白しています。見える教会の外にいる人とは、教会員ではない人のことです。教会員ではない人に、誰にでも洗礼を授けてよいかと言えば、そうではありません。キリストへの信仰と服従を告白するまで、すなわちキリストの弟子となることを決心し告白するまでは、だれにも洗礼を授けてはならないのです。このことは、成人洗礼のことを考えればよくお分かりいただけると思います。
続けて小教理は次のように告白しています。「しかし、可見的教会の会員の幼児は、洗礼を受けなければなりません」。ここでは幼児洗礼のことが告白されています。可見的教会の会員の幼児とは、見える教会、地上の教会の会員の子供のことです。見える教会の外にいる人は、恵みの契約と関わりのない人ですから、恵みの契約の頭であるキリストへの信仰と服従を告白し、洗礼を受けることによって、初めて恵みの契約の祝福にあずかる者となります。しかし、見える教会の会員の子供は、恵みの契約の中に生まれてくるので、洗礼を受けなくてはならないのです。旧約において、幼子も契約のしるしである割礼を受けたように、新約においても、幼子は契約のしるしである洗礼を受けるべきであるのです。そして、恵みの契約の中に生まれ、洗礼を受けた幼児は、成長し、自分で物事の判断ができる年齢になったときに、それぞれが自分の口で信仰を言い表すことが求められているのです。