解説 小教理は、問3で、「聖書がおもに教えている事は、人が神について何を信じなければならないか、また神は人にどんな義務を求めておられるか、ということです」と告白しました。これは、小教理全体の構成でもあります。小教理は、問4から問38で信仰について告白し、問39から問107で義務について告白しています。問4は、信仰篇の最初の問いです。 「神とは、どんなかたですか」と訳されていますが、原文(What is God?)を直訳すると「神とは何ですか」となります。「神とは、どんなかたですか」という訳は、神が人格的な存在であることを前提にしていますが、小教理が問うていることは「神は何ですか」ということです。 小教理は、「神は霊であられ、その存在、知恵、力、聖、義、善、真実において、無限、永遠、不変のかたです」と告白しています。「神は霊である」。これが核となる告白です。イエス様は、ヨハネによる福音書の4章で、サマリアの女に「神は霊である。だから、神を礼拝する者は、霊と真理をもって礼拝しなければならない」と言われました。このイエス様の御言葉を証拠聖句として、小教理は「神は霊である」と告白しているのです。 「神は霊である」とは、どのような意味でしょうか。先ず言えることは、神は肉体を持っておられず、目に見ることができないということです。さらに言えば、神は知識と感情と意志の座である心を持つ人格的な存在であるということです。神は「かた」と呼ぶことができる人格的な存在であるのです。それゆえ、私たちは「神」を「神様」と呼ぶことができるのです。 「神は人格である」という表現はおかしいかも知れませんが、私たち人間の人格の源こそ神様にあるのです。私たち人間は神のかたちに似せて造られたゆえに、心を持つ人格的な存在であるのです(創世1:27参照)。 「存在、知恵、力、聖、義、善、真実」といった7つの性質は、神のかたちに似せて造られた私たち人間にも見ることができます。しかし、私たち人間の存在は、有限で、つかの間で、変化します。知恵や力などについても同じことが言えます。しかし、神様は、その存在において無限、永遠、不変の霊であられます。また、神様はその知恵において無限、永遠、不変の霊であられます。力、聖、義、善、真実においても同じことが言えるのです。 神は霊である。だから、神を礼拝する者は、霊と真理をもって礼拝しなければならない。ヨハネによる福音書 4章24節 2018年08月05日 村田寿和 牧師
小教理は、問3で、「聖書がおもに教えている事は、人が神について何を信じなければならないか、また神は人にどんな義務を求めておられるか、ということです」と告白しました。これは、小教理全体の構成でもあります。小教理は、問4から問38で信仰について告白し、問39から問107で義務について告白しています。問4は、信仰篇の最初の問いです。
「神とは、どんなかたですか」と訳されていますが、原文(What is God?)を直訳すると「神とは何ですか」となります。「神とは、どんなかたですか」という訳は、神が人格的な存在であることを前提にしていますが、小教理が問うていることは「神は何ですか」ということです。
小教理は、「神は霊であられ、その存在、知恵、力、聖、義、善、真実において、無限、永遠、不変のかたです」と告白しています。「神は霊である」。これが核となる告白です。イエス様は、ヨハネによる福音書の4章で、サマリアの女に「神は霊である。だから、神を礼拝する者は、霊と真理をもって礼拝しなければならない」と言われました。このイエス様の御言葉を証拠聖句として、小教理は「神は霊である」と告白しているのです。
「神は霊である」とは、どのような意味でしょうか。先ず言えることは、神は肉体を持っておられず、目に見ることができないということです。さらに言えば、神は知識と感情と意志の座である心を持つ人格的な存在であるということです。神は「かた」と呼ぶことができる人格的な存在であるのです。それゆえ、私たちは「神」を「神様」と呼ぶことができるのです。
「神は人格である」という表現はおかしいかも知れませんが、私たち人間の人格の源こそ神様にあるのです。私たち人間は神のかたちに似せて造られたゆえに、心を持つ人格的な存在であるのです(創世1:27参照)。
「存在、知恵、力、聖、義、善、真実」といった7つの性質は、神のかたちに似せて造られた私たち人間にも見ることができます。しかし、私たち人間の存在は、有限で、つかの間で、変化します。知恵や力などについても同じことが言えます。しかし、神様は、その存在において無限、永遠、不変の霊であられます。また、神様はその知恵において無限、永遠、不変の霊であられます。力、聖、義、善、真実においても同じことが言えるのです。