Q.37 問い 信者は、死の時、キリストからどんな祝福を受けますか。 答え 信者の霊魂は、死の時、全くきよくされ、直ちに栄光にはいります。信者の体は、依然としてキリストに結びつけられたまま、復活まで墓の中で休みます。
解説 小教理は問32から問36で、有効召命されている者が〈この世で〉分け与えられる祝福について告白しました。 問37は、信者が〈死の時〉キリストから受ける祝福について告白しています。「信者の霊魂は、死の時、全くきよくされ、直ちに栄光に入ります。信者の体は、依然としてキリストに結びつけられたまま、復活まで墓の中で休みます」。 この告白の前提には「人間は霊魂と体からなる。死とは霊魂と体の分離である」という考え方があります。そのような考え方に基づいて、小教理は、信者の霊魂について、また信者の体について告白しています。 信者の霊魂については「死の時、全くきよくされ、直ちに栄光に入ります」と告白しています。問35で、聖化について解説したときに、聖化は継続的な神の御業であって、この地上で完成することはないと申しました。しかし、死の時、信者の霊魂は全くきよくされ、直ちに栄光に入れられるのです。死によって、信者の霊魂は完全に聖化されるのです。それは、信者の死が、罪の刑罰としての死ではなく、罪からの解放としての意味を持っていることを教えています。キリストを信じる者は、死によって罪の支配から完全に解放され、完全にきよいものとされ、直ちに栄光へと入れられるのです。十字架につけられたイエス様が、御自分を信じた強盗に「はっきり言っておくが、あなたは今日わたしと一緒に楽園にいる」と言われたように、信者にとって死は、天国の入口であるのです(ルカ23:43)。 信者の体については「依然としてキリストと結びつけられたまま、復活まで墓の中で休みます」と告白しています。人間は霊魂と体からなっていると言えますが、霊魂と体は本来一体的な関係にあります(創世2:7参照)。死は霊魂と体の一体的な関係が崩されることですが、復活では霊魂と体の一体的な関係が回復されるのです。しかも、復活のときに、信者は、完全に清くされた、栄光に入るのにふさわしい栄光の体に復活させられるのです。しかし、その復活の時まで、すなわち、イエス・キリストが再び来られる日まで、信者の体は、依然としてキリストに結びつけられたまま、墓の中で休みます(小教理が作成された17世紀のイングランドでは、遺体は土葬されたので、「墓の中で休む」というイメージはピッタリだったのでしょう)。 私たちは今、霊魂と体を持つトータル(全体的)な私として、キリストに結ばれて歩んでいます。霊魂だけがキリストに結ばれているのではありません。霊魂と体からなる私がキリストに結ばれているのです。それゆえ、信者の体は、死の時も、依然としてキリストに結ばれているのです。ですから、私たちは、天に召された信者の体をキリストの体を葬るように、丁重に葬らねばならないのです。 イエスが死んで復活されたと、わたしたちは信じています。神は同じように、イエスを信じて眠りについた人たちをも、イエスと一緒に導き出してくださいます。テサロニケの信徒への手紙一 4章14節 2018年08月30日 村田寿和 牧師
小教理は問32から問36で、有効召命されている者が〈この世で〉分け与えられる祝福について告白しました。
問37は、信者が〈死の時〉キリストから受ける祝福について告白しています。「信者の霊魂は、死の時、全くきよくされ、直ちに栄光に入ります。信者の体は、依然としてキリストに結びつけられたまま、復活まで墓の中で休みます」。
この告白の前提には「人間は霊魂と体からなる。死とは霊魂と体の分離である」という考え方があります。そのような考え方に基づいて、小教理は、信者の霊魂について、また信者の体について告白しています。
信者の霊魂については「死の時、全くきよくされ、直ちに栄光に入ります」と告白しています。問35で、聖化について解説したときに、聖化は継続的な神の御業であって、この地上で完成することはないと申しました。しかし、死の時、信者の霊魂は全くきよくされ、直ちに栄光に入れられるのです。死によって、信者の霊魂は完全に聖化されるのです。それは、信者の死が、罪の刑罰としての死ではなく、罪からの解放としての意味を持っていることを教えています。キリストを信じる者は、死によって罪の支配から完全に解放され、完全にきよいものとされ、直ちに栄光へと入れられるのです。十字架につけられたイエス様が、御自分を信じた強盗に「はっきり言っておくが、あなたは今日わたしと一緒に楽園にいる」と言われたように、信者にとって死は、天国の入口であるのです(ルカ23:43)。
信者の体については「依然としてキリストと結びつけられたまま、復活まで墓の中で休みます」と告白しています。人間は霊魂と体からなっていると言えますが、霊魂と体は本来一体的な関係にあります(創世2:7参照)。死は霊魂と体の一体的な関係が崩されることですが、復活では霊魂と体の一体的な関係が回復されるのです。しかも、復活のときに、信者は、完全に清くされた、栄光に入るのにふさわしい栄光の体に復活させられるのです。しかし、その復活の時まで、すなわち、イエス・キリストが再び来られる日まで、信者の体は、依然としてキリストに結びつけられたまま、墓の中で休みます(小教理が作成された17世紀のイングランドでは、遺体は土葬されたので、「墓の中で休む」というイメージはピッタリだったのでしょう)。
私たちは今、霊魂と体を持つトータル(全体的)な私として、キリストに結ばれて歩んでいます。霊魂だけがキリストに結ばれているのではありません。霊魂と体からなる私がキリストに結ばれているのです。それゆえ、信者の体は、死の時も、依然としてキリストに結ばれているのです。ですから、私たちは、天に召された信者の体をキリストの体を葬るように、丁重に葬らねばならないのです。