Q.18 問い 人が堕落した状態の罪性は、どの点にありますか。 答え 人が堕落した状態の罪性は、次の点にあります。すなわち、アダムの最初の罪の罪責を負うていること、原義を失っていること、人の性質全体の腐敗つまりいわゆる原罪があること、そこからあらゆる現行罪が生じていることです。
解説 小教理は、問17で「堕落は人類を、罪と悲惨の状態に落としました」と告白しました。続く問18では人が堕落した状態の罪性(ざいせい)、罪深さについて告白しています。「人が堕落した状態の罪性は、次の点にあります。すなわち、アダムの最初の罪の罪責(ざいせき)を負うていること、原義(げんぎ)を失っていること、人の性質全体の腐敗(ふはい)つまりいわゆる原罪(げんざい)があること、そこからあらゆる現行罪(げんこうざい)が生じていることです」。 ここには、アダムにあって罪を犯し、アダムと共に堕落した私たちの罪深さが告白されています。私たちの罪深さはどのような点にあるのでしょうか。小教理は四つの点をあげています。 一つは「アダムの最初の罪責を負うていること」です。神様がアダムと命の契約を結ばれたのは、彼とその子孫のためでした。それゆえ、普通の生まれかたでアダムから出る全人類は、アダムの最初の罪の責任(罪責)を負うているのです。 二つ目は「原義を失っていること」です。神様は人間を、知識と義と聖において御自身のかたちに似せて造られたました(問10参照)。神様は人間を正しい者として造られたのです。しかし、アダムにあって罪を犯し、アダムと共に創造された状態から堕落した人間は正しい者ではなくなってしまったのです。 三つ目は「人の性質全体の腐敗つまりいわゆる原罪があること」です。一つ目の「罪責」は法的な概念ですが、三つ目の「腐敗」は実質的な概念と言えます。証拠聖句であるローマの信徒への手紙3章10節から18節にこう記されています。「正しい者はいない。一人もいない。悟る者もなく、神を探し求める者もいない。皆迷い、だれもかれも役に立たない者となった。善を行う者はいない。ただの一人もいない。彼らののどは開いた墓のようであり、彼らは舌で人を欺き、その唇にはまむしの毒がある。口は、呪いと苦みで満ち、足は血を流すのに速く、その道には破壊と悲惨がある。彼らは平和の道を知らない。彼らの目には神への畏れがない」。このように私たちは性質全体において腐敗しているのです。 小教理は「人の性質全体の腐敗」を「いわゆる原罪があること」と言い換えています。私たちは母の胎にあるときから罪に汚れた者たちであるのです(詩編51:7参照)。私たち人間は罪をもって生まれてくるのです。 四つ目は「そこからあらゆる現行罪が生じていること」です。証拠聖句であるマタイによる福音書15章18節、19節で、イエス様はこう言われています。「口から出てくるものは、心から出てくるので、これこそ人を汚す。悪意、殺意、姦淫、みだらな行い、盗み、偽証、悪口などは、心から出てくるからである」。私たちの心が腐敗していることは、私たちの心から出てくる思いや言葉によって分かります。その腐敗した心から、あらゆる現行罪が生じているのです。私たちは罪に汚れているだけではなく、実際に日々、罪を犯しているのです。 わたしは咎のうちに産み落とされ/母がわたしを身ごもったときも/わたしは罪のうちにあったのです。詩編 51編7節 2018年08月28日 村田寿和 牧師
小教理は、問17で「堕落は人類を、罪と悲惨の状態に落としました」と告白しました。続く問18では人が堕落した状態の罪性(ざいせい)、罪深さについて告白しています。「人が堕落した状態の罪性は、次の点にあります。すなわち、アダムの最初の罪の罪責(ざいせき)を負うていること、原義(げんぎ)を失っていること、人の性質全体の腐敗(ふはい)つまりいわゆる原罪(げんざい)があること、そこからあらゆる現行罪(げんこうざい)が生じていることです」。
ここには、アダムにあって罪を犯し、アダムと共に堕落した私たちの罪深さが告白されています。私たちの罪深さはどのような点にあるのでしょうか。小教理は四つの点をあげています。
一つは「アダムの最初の罪責を負うていること」です。神様がアダムと命の契約を結ばれたのは、彼とその子孫のためでした。それゆえ、普通の生まれかたでアダムから出る全人類は、アダムの最初の罪の責任(罪責)を負うているのです。
二つ目は「原義を失っていること」です。神様は人間を、知識と義と聖において御自身のかたちに似せて造られたました(問10参照)。神様は人間を正しい者として造られたのです。しかし、アダムにあって罪を犯し、アダムと共に創造された状態から堕落した人間は正しい者ではなくなってしまったのです。
三つ目は「人の性質全体の腐敗つまりいわゆる原罪があること」です。一つ目の「罪責」は法的な概念ですが、三つ目の「腐敗」は実質的な概念と言えます。証拠聖句であるローマの信徒への手紙3章10節から18節にこう記されています。「正しい者はいない。一人もいない。悟る者もなく、神を探し求める者もいない。皆迷い、だれもかれも役に立たない者となった。善を行う者はいない。ただの一人もいない。彼らののどは開いた墓のようであり、彼らは舌で人を欺き、その唇にはまむしの毒がある。口は、呪いと苦みで満ち、足は血を流すのに速く、その道には破壊と悲惨がある。彼らは平和の道を知らない。彼らの目には神への畏れがない」。このように私たちは性質全体において腐敗しているのです。
小教理は「人の性質全体の腐敗」を「いわゆる原罪があること」と言い換えています。私たちは母の胎にあるときから罪に汚れた者たちであるのです(詩編51:7参照)。私たち人間は罪をもって生まれてくるのです。
四つ目は「そこからあらゆる現行罪が生じていること」です。証拠聖句であるマタイによる福音書15章18節、19節で、イエス様はこう言われています。「口から出てくるものは、心から出てくるので、これこそ人を汚す。悪意、殺意、姦淫、みだらな行い、盗み、偽証、悪口などは、心から出てくるからである」。私たちの心が腐敗していることは、私たちの心から出てくる思いや言葉によって分かります。その腐敗した心から、あらゆる現行罪が生じているのです。私たちは罪に汚れているだけではなく、実際に日々、罪を犯しているのです。