解説 小教理は、問1で「人のおもな目的は、何ですか」と問うています。「人のおもな目的は、何ですか」。これはまことに大きな問いです。「学生のおもな目的は学ぶことである」。「親のおもな目的は子供を育てることである」。このように言うことができるかも知れません。それでは、学生である前の、親である前の人としてのおもな目的は何でしょうか。それは、その人が自分で見つけて、「これがわたしのおもな目的です」と言えるものなのでしょうか。もし、そのように言うならば、それは「その人のおもな目的」となってしまいます。 しかし、小教理が問うていることは、「人のおもな目的」です。老若男女を問わず、国籍や民族の違いを問わず、人間であれば共通に持っているおもな目的です。この目的を外してしまうならば、的(まと)外れな人生を送ることになってしまう根源的、究極的な目的です。 そのような問いの答えは、実は、私たちの中からは出て来ません。私たち人間を造られた神様に聞かなくては分からないのです。神様は、聖書を通して、私たちに語りかけておられます。聖書は神の霊の導きの下に人間が記した神の言葉です(二テモテ3:16参照)。その聖書全体の教えから絞り出すようにして、小教理は、「人のおもな目的は、神の栄光をあらわし(to glorify God)、永遠に神を喜ぶことである(to enjoy him forever)」と告白しているのです。 聖書は、神様が人を御自分のかたちに似せて、造られたと教えています(創世1:27参照)。人間だけが神様のかたちに似せて造られたのです。それは、人間が「神の栄光をあらわし、永遠に神を喜ぶ」ものとして造られたことを教えているのです。 「神の栄光をあらわす」とは、イエス・キリストを信じて、神様を礼拝し、ほめたたえることです。また、「永遠に神を喜ぶ」とは、イエス・キリストを信じて、神様との永遠の愛の交わりを喜び、楽しむことです。それだけではありません。食べるにも、飲むにも、何事をするにも、私たちがイエス・キリストの父なる神様に感謝するならば、私たちの生活全体が神様の栄光をあらわし、永遠に神様を喜ぶものとなるのです。 あなたがたは食べるにしろ飲むにしろ、何をするにしても、すべて神の栄光を現すためにしなさい。コリントの信徒への手紙一 10章31節 2018年07月31日 村田寿和 牧師
小教理は、問1で「人のおもな目的は、何ですか」と問うています。「人のおもな目的は、何ですか」。これはまことに大きな問いです。「学生のおもな目的は学ぶことである」。「親のおもな目的は子供を育てることである」。このように言うことができるかも知れません。それでは、学生である前の、親である前の人としてのおもな目的は何でしょうか。それは、その人が自分で見つけて、「これがわたしのおもな目的です」と言えるものなのでしょうか。もし、そのように言うならば、それは「その人のおもな目的」となってしまいます。
しかし、小教理が問うていることは、「人のおもな目的」です。老若男女を問わず、国籍や民族の違いを問わず、人間であれば共通に持っているおもな目的です。この目的を外してしまうならば、的(まと)外れな人生を送ることになってしまう根源的、究極的な目的です。
そのような問いの答えは、実は、私たちの中からは出て来ません。私たち人間を造られた神様に聞かなくては分からないのです。神様は、聖書を通して、私たちに語りかけておられます。聖書は神の霊の導きの下に人間が記した神の言葉です(二テモテ3:16参照)。その聖書全体の教えから絞り出すようにして、小教理は、「人のおもな目的は、神の栄光をあらわし(to glorify God)、永遠に神を喜ぶことである(to enjoy him forever)」と告白しているのです。
聖書は、神様が人を御自分のかたちに似せて、造られたと教えています(創世1:27参照)。人間だけが神様のかたちに似せて造られたのです。それは、人間が「神の栄光をあらわし、永遠に神を喜ぶ」ものとして造られたことを教えているのです。
「神の栄光をあらわす」とは、イエス・キリストを信じて、神様を礼拝し、ほめたたえることです。また、「永遠に神を喜ぶ」とは、イエス・キリストを信じて、神様との永遠の愛の交わりを喜び、楽しむことです。それだけではありません。食べるにも、飲むにも、何事をするにも、私たちがイエス・キリストの父なる神様に感謝するならば、私たちの生活全体が神様の栄光をあらわし、永遠に神様を喜ぶものとなるのです。