再生できない方はこちらをクリック 聖書の言葉 ルカによる福音書 12章57節~59節 メッセージ 正しい判断とは何かと問われましても、それぞれの状況に応じた様々な 判断があるだろうと思います。受験生であれば志望先を考える判断、就職 先を決める判断、結婚の判断など大小様々な判断をわたしたちは日々の生 活の中でしています。もちろん、生活の中には個人の事から、家族、そし て会社や学校や地域社会での事など様々な判断の機会があるでしょう。 1. 様々な判断 自分の判断によって国家の将来が決まるという方もおられるかも知れま せん。今、大河ドラマの坂の上の雲が再放送されていますが、かつて日露 戦争の時に、日本海海戦を指導した秋山真之参謀の判断によって日本海軍 はロシアのバルチック艦隊に勝利しました。その勝利に日本中は湧きまし たが、後の時代に日本海軍は大艦巨砲主義に陥り戦艦大和が沖縄の特攻作 戦で沈没し、日本はやがて敗戦を迎えます。その時の判断は正しくても、 後の時代にその判断が影響を与えることもあります。 わたしたちの教会も1月には定期会員総会を行い、教会の一年の歩みに ついて、昨年の報告を審議し、新しい年の予算を確定してこの年の歩みを 始めました。例年同じことの繰り返しのようですが、わたしたちの教会に 与えられた課題が整理され次の計画の作業が続けられていきます。総会で の報告は皆承認されました。わたしたちは信仰者として祈りつつ、福音に 照らし、そして自分の信仰の良心に照らして判断をします。けれども、そ の判断が、後の時代にわたしたちの思いどおりになるとは限りません。病 になったり、思いがけない転勤があったり、大きな社会変動に巻き込まれ たり、想定外の災害に遭ったりすることもあります。ですから、わたした ちの生活の中での判断はどうしても相対的なものになります。そしてその 時は良くても、そのためにまた別の困難が引き起こされることも起こりま す。そうしますと正しい判断とは何なのでしょうか。 2. 決定的な判断 この所で主イエスは、計画や予測に基づく相対的な判断ではなく、絶対的な判断の必要性を語っておられます。その判断をどうして自分でしない のかと主イエスは問われます。 そしてこの段落も前の段落と関連して時が意識されています。それは最 後の時であり、裁きの時です。その時が迫っています。ですから、主イエ スはここで、訴える人と和解の必要のある被告のたとえを語りました。こ のたとえは直接には、たとえを聞いている群衆に語られています。という ことは、ここでも主イエスの言葉を聞いている群衆は、和解をしないと牢 屋に投げ込まれてしまう危機に直面しているわけです。 恐らく聞いていた人々は、今、わたしたちは誰からも訴えられるような ことはしていませんと思ったでしょう。ここでは訴える人と被告の関係は 債務に関わることだと考えられています。債権者と債務者の関係です。金 を借りた人が返さないことで訴えられています。返せと言っても、何のこ とかと逃げ回っている。この場合、やむを得ず訴えると言う手段を取らざ るを得ないでしょう。それが子供の小遣い程度であれば、無かったことに することもできるでしょうが、金額が大きければ返済をして貰わなければ なりません。返済がなされなければ裁判所に訴えることになるでしょう。 そして、このたとえの状況は最後の時が近づいています。裁判官のところ に行く途中です。もう少しで裁判所に到着します。その途中で仲直りする ことができるなら彼は牢屋に投げ込まれないで済みます。「仲直りするよ うに努めなさい」と訳された言葉は、もともとの言葉では、「彼から解放 される仕事のために最善の努力をせよ」と語られています。自分が間違っ ていました。債務については、少しずつでも返済しますので猶予をくださ いと謝罪して赦しを願うことです。そうすれば、道は開かれると主イエス は言われました。 このたとえを聞いている群衆もわたしたちも、それは主イエスの言われ る通りだと思うでしょう。お詫びして、悔い改めて、和解して、何とか裁 判所に行かないで済むようにすることが為すべきただ一つのことだと思い ます。この被告の場合には双方が意見を言って、弁護して無罪になるとい うことはない状況です。このたとえはそのような状況です。しかし、その 上で和解の可能性があります。仲直りに努めなさいと主イエスは命じまし た。そうでないと、有罪とされ看守に引き渡し、看守は牢屋に投げ込みま す。「言っておくが、最後の一レプトンを返すまで、決してそこから出ることはでき」ません。一レプトンという貨幣の単位は当時流通していた最 小の銅貨です。 今のわたしたちの貨幣価値から換算しますと、一日の労働者の賃金の1 /128ですから、一日8000円とすれば、62.5円にあたります。 負債を全額返済するまで牢屋から出ることはできません。しかし本人には もはや返済の能力も機会もありません。この方は二度と出て来ることはで きないことが教えられています。 3. たとえの意図 そうしますと、やはり、ここでもこのたとえを聞いた方たちは、この被 告は愚かだなあと、これは自業自得だなあ、仕方がないなあと思うでしょ う。わたしたちもそのように思うでしょう。それは、このたとえは主イエ スが群衆に語り、そして今朝、ここが朗読されて聞いているわたしたちに も語られていますが、これはわたしの状況ではなく、誰か架空の愚かな被 告の話で自分とは関係がないと思うからです。 しかし、そうであれば、わたしたちは自分で何が正しいかを判断できて いるということになります。この時、主イエスは群衆に「あなたがたは、 何が正しいかを、どうして自分で判断しないのか」と言われました。とい うことは、自分はこの被告ではないと思い込み、呑気に構えているけれど も、主イエスの目から見れば、あなたたち群衆は正しい判断が自分で出来 ているのかと問われているわけです。 これはたとえです。このたとえの中にあなたたち群衆の姿が語られてい ます。そうしますと、ここには自分の姿はないとわたしたちは思いました が探してみるとよいでしょう。自分は役人かと思う方もあるかも知れませ ん。あるいは牢屋の看守かもしれません。それとも債権者でしょうか。誰 も自分が被告とは思わないでしょう。 この前のたとえでは時を見分けることが問われていました。その時は、 主イエスによって始められた救いの時を示しています。そしてこの後の1 3:1-5は次週続けて聞きますが、「悔い改めなければ滅びる」ことが 鍵の言葉です。悔い改めなければ滅びる。この前後の関連で見ますと、主 イエスの救いの時を見分け、滅びる前に悔い改めて仲直りしないと滅びて しまいます。ここで滅びとは、13:1以下で言えば死です。そうすると 裁判所は死の法廷です。誰もが死というゴールに向かってその道を歩みま す。わたしたちは人生というすばらしい賜物を神に与えられています。命 と申し上げてもよい。その命が神に支えられ、育まれて来ました。 イザヤ書46:4に「わたしはあなたたちの老いる日まで白髪になるま で、背負って行こう。わたしはあなたたちを造った。わたしが担い、背負 い、救い出す」と語られています。わたしたちは主イエスによって造られ た存在です。主イエスがすべて必要なものを備え、家族を備え、健康を与 え、人生を与えてくださり、わたしたちを守り支えておられます。 この恵みに感謝して生きることです。これが正しい判断です。主イエス によって始められた神とわたしたちとの和解を受け入れることです。当時 の主イエスを拒否していたユダヤ人の指導者たちは、自分たちは神の前に 正しいことをしていると自負していました。けれども、主イエスに言わせ ればそれは、神が旧約聖書で教えていたことから大きくずれていました。 一番ずれてしまったことは、旧約聖書に約束されていた救い主として来ら れた主イエスを受け入れることができなかったことです。主イエスが分か らなければ、神との和解の道は閉ざされてしまいます。 ユダヤ教の指導者たちは主イエスは悪霊の頭ベルゼブルの力で悪霊を追 い出していると言いました。当時の人々の中にもその言葉を鵜呑みにして 自分で考え判断しようとしない者たちもいたのでしょう。けれども、偉い 先生が間違っていれば、何も考えないで従う者も皆間違えてしまいます。 ですから、主イエスは「何が正しいかを、どうして自分で判断しないの か」と問われます。主イエスによる救いの道が主イエスによって開かれて います。主イエスは神との和解のためにご自身を犠牲にするために、この 世界に来られました。主イエスは十字架によって、わたしたちと神との間 にある負債を免除してくださいます。わたしたちはただこの主イエスの救 いを信ずればよいのです。 わたしたちは一人で生きているのではなく、神が担い背負ってくださっ て生かされています。これを知らず、感謝もしないことがそもそも神への 冒涜の罪でありました。この罪の負債によってわたしたちは裁かれます。 この裁きから救われることが正しい判断です。これこそ、人生の中で、最 も大切なそして決定的な判断です。悔い改めて主イエスを受け入れること です。ここに命が開かれているからです。祈ります。
正しい判断とは何かと問われましても、それぞれの状況に応じた様々な
判断があるだろうと思います。受験生であれば志望先を考える判断、就職
先を決める判断、結婚の判断など大小様々な判断をわたしたちは日々の生
活の中でしています。もちろん、生活の中には個人の事から、家族、そし
て会社や学校や地域社会での事など様々な判断の機会があるでしょう。
1. 様々な判断
自分の判断によって国家の将来が決まるという方もおられるかも知れま
せん。今、大河ドラマの坂の上の雲が再放送されていますが、かつて日露
戦争の時に、日本海海戦を指導した秋山真之参謀の判断によって日本海軍
はロシアのバルチック艦隊に勝利しました。その勝利に日本中は湧きまし
たが、後の時代に日本海軍は大艦巨砲主義に陥り戦艦大和が沖縄の特攻作
戦で沈没し、日本はやがて敗戦を迎えます。その時の判断は正しくても、
後の時代にその判断が影響を与えることもあります。
わたしたちの教会も1月には定期会員総会を行い、教会の一年の歩みに
ついて、昨年の報告を審議し、新しい年の予算を確定してこの年の歩みを
始めました。例年同じことの繰り返しのようですが、わたしたちの教会に
与えられた課題が整理され次の計画の作業が続けられていきます。総会で
の報告は皆承認されました。わたしたちは信仰者として祈りつつ、福音に
照らし、そして自分の信仰の良心に照らして判断をします。けれども、そ
の判断が、後の時代にわたしたちの思いどおりになるとは限りません。病
になったり、思いがけない転勤があったり、大きな社会変動に巻き込まれ
たり、想定外の災害に遭ったりすることもあります。ですから、わたした
ちの生活の中での判断はどうしても相対的なものになります。そしてその
時は良くても、そのためにまた別の困難が引き起こされることも起こりま
す。そうしますと正しい判断とは何なのでしょうか。
2. 決定的な判断
この所で主イエスは、計画や予測に基づく相対的な判断ではなく、絶対的な判断の必要性を語っておられます。その判断をどうして自分でしない
のかと主イエスは問われます。
そしてこの段落も前の段落と関連して時が意識されています。それは最
後の時であり、裁きの時です。その時が迫っています。ですから、主イエ
スはここで、訴える人と和解の必要のある被告のたとえを語りました。こ
のたとえは直接には、たとえを聞いている群衆に語られています。という
ことは、ここでも主イエスの言葉を聞いている群衆は、和解をしないと牢
屋に投げ込まれてしまう危機に直面しているわけです。
恐らく聞いていた人々は、今、わたしたちは誰からも訴えられるような
ことはしていませんと思ったでしょう。ここでは訴える人と被告の関係は
債務に関わることだと考えられています。債権者と債務者の関係です。金
を借りた人が返さないことで訴えられています。返せと言っても、何のこ
とかと逃げ回っている。この場合、やむを得ず訴えると言う手段を取らざ
るを得ないでしょう。それが子供の小遣い程度であれば、無かったことに
することもできるでしょうが、金額が大きければ返済をして貰わなければ
なりません。返済がなされなければ裁判所に訴えることになるでしょう。
そして、このたとえの状況は最後の時が近づいています。裁判官のところ
に行く途中です。もう少しで裁判所に到着します。その途中で仲直りする
ことができるなら彼は牢屋に投げ込まれないで済みます。「仲直りするよ
うに努めなさい」と訳された言葉は、もともとの言葉では、「彼から解放
される仕事のために最善の努力をせよ」と語られています。自分が間違っ
ていました。債務については、少しずつでも返済しますので猶予をくださ
いと謝罪して赦しを願うことです。そうすれば、道は開かれると主イエス
は言われました。
このたとえを聞いている群衆もわたしたちも、それは主イエスの言われ
る通りだと思うでしょう。お詫びして、悔い改めて、和解して、何とか裁
判所に行かないで済むようにすることが為すべきただ一つのことだと思い
ます。この被告の場合には双方が意見を言って、弁護して無罪になるとい
うことはない状況です。このたとえはそのような状況です。しかし、その
上で和解の可能性があります。仲直りに努めなさいと主イエスは命じまし
た。そうでないと、有罪とされ看守に引き渡し、看守は牢屋に投げ込みま
す。「言っておくが、最後の一レプトンを返すまで、決してそこから出ることはでき」ません。一レプトンという貨幣の単位は当時流通していた最
小の銅貨です。
今のわたしたちの貨幣価値から換算しますと、一日の労働者の賃金の1
/128ですから、一日8000円とすれば、62.5円にあたります。
負債を全額返済するまで牢屋から出ることはできません。しかし本人には
もはや返済の能力も機会もありません。この方は二度と出て来ることはで
きないことが教えられています。
3. たとえの意図
そうしますと、やはり、ここでもこのたとえを聞いた方たちは、この被
告は愚かだなあと、これは自業自得だなあ、仕方がないなあと思うでしょ
う。わたしたちもそのように思うでしょう。それは、このたとえは主イエ
スが群衆に語り、そして今朝、ここが朗読されて聞いているわたしたちに
も語られていますが、これはわたしの状況ではなく、誰か架空の愚かな被
告の話で自分とは関係がないと思うからです。
しかし、そうであれば、わたしたちは自分で何が正しいかを判断できて
いるということになります。この時、主イエスは群衆に「あなたがたは、
何が正しいかを、どうして自分で判断しないのか」と言われました。とい
うことは、自分はこの被告ではないと思い込み、呑気に構えているけれど
も、主イエスの目から見れば、あなたたち群衆は正しい判断が自分で出来
ているのかと問われているわけです。
これはたとえです。このたとえの中にあなたたち群衆の姿が語られてい
ます。そうしますと、ここには自分の姿はないとわたしたちは思いました
が探してみるとよいでしょう。自分は役人かと思う方もあるかも知れませ
ん。あるいは牢屋の看守かもしれません。それとも債権者でしょうか。誰
も自分が被告とは思わないでしょう。
この前のたとえでは時を見分けることが問われていました。その時は、
主イエスによって始められた救いの時を示しています。そしてこの後の1
3:1-5は次週続けて聞きますが、「悔い改めなければ滅びる」ことが
鍵の言葉です。悔い改めなければ滅びる。この前後の関連で見ますと、主
イエスの救いの時を見分け、滅びる前に悔い改めて仲直りしないと滅びて
しまいます。ここで滅びとは、13:1以下で言えば死です。そうすると
裁判所は死の法廷です。誰もが死というゴールに向かってその道を歩みま
す。わたしたちは人生というすばらしい賜物を神に与えられています。命
と申し上げてもよい。その命が神に支えられ、育まれて来ました。
イザヤ書46:4に「わたしはあなたたちの老いる日まで白髪になるま
で、背負って行こう。わたしはあなたたちを造った。わたしが担い、背負
い、救い出す」と語られています。わたしたちは主イエスによって造られ
た存在です。主イエスがすべて必要なものを備え、家族を備え、健康を与
え、人生を与えてくださり、わたしたちを守り支えておられます。
この恵みに感謝して生きることです。これが正しい判断です。主イエス
によって始められた神とわたしたちとの和解を受け入れることです。当時
の主イエスを拒否していたユダヤ人の指導者たちは、自分たちは神の前に
正しいことをしていると自負していました。けれども、主イエスに言わせ
ればそれは、神が旧約聖書で教えていたことから大きくずれていました。
一番ずれてしまったことは、旧約聖書に約束されていた救い主として来ら
れた主イエスを受け入れることができなかったことです。主イエスが分か
らなければ、神との和解の道は閉ざされてしまいます。
ユダヤ教の指導者たちは主イエスは悪霊の頭ベルゼブルの力で悪霊を追
い出していると言いました。当時の人々の中にもその言葉を鵜呑みにして
自分で考え判断しようとしない者たちもいたのでしょう。けれども、偉い
先生が間違っていれば、何も考えないで従う者も皆間違えてしまいます。
ですから、主イエスは「何が正しいかを、どうして自分で判断しないの
か」と問われます。主イエスによる救いの道が主イエスによって開かれて
います。主イエスは神との和解のためにご自身を犠牲にするために、この
世界に来られました。主イエスは十字架によって、わたしたちと神との間
にある負債を免除してくださいます。わたしたちはただこの主イエスの救
いを信ずればよいのです。
わたしたちは一人で生きているのではなく、神が担い背負ってくださっ
て生かされています。これを知らず、感謝もしないことがそもそも神への
冒涜の罪でありました。この罪の負債によってわたしたちは裁かれます。
この裁きから救われることが正しい判断です。これこそ、人生の中で、最
も大切なそして決定的な判断です。悔い改めて主イエスを受け入れること
です。ここに命が開かれているからです。祈ります。