聖書の言葉 ミカ書 7章1節~7節 メッセージ 2月は「政教分離と信教の自由のために」を祈りの課題としています。 それは2月11日が建国記念の日とされたことを意識してのことです。その日は戦前の紀元節でしたが、敗戦後GHQによって廃止されました。しかし、日本の独立後に繰り返し国会に提案されて建国記念の日として制定されました。同じ紀元節の日とされ、わたしたちはキリスト者の思想信条を束縛する危険があると感じています。先の戦争の時代には信教の自由は圧迫されました。ですから信教の自由と平和の問題はわたしたちの国で深く結び付いた課題になっています。そこでその日にわたしたちの教会は政教分離と平和の集いを毎年開き、事柄の理解を深めています。全国の教会会議では必要に応じて為政者たちに抗議声明を出しています。 今年も東京恩寵教会を会場として同盟キリスト教団の朝岡勝牧師から講演を伺いました。昨今の国際情勢にも触れながら、身近な所から平和を考えることを主題とした講演でした。具体的な人間関係の破れをいかに平和的に克服していくかということも語られて興味深く聞きました。 1. 主イエスのもたらす平和が引き起こす分裂 主イエスは、わたしたちに神を愛することと自分を愛するように隣人を愛することを教え、平和に生きる祝福を語っておられます。クリスマスにしばしば読まれるルカ2:14には天使の大群の賛美として「いと高きところには栄光、神にあれ、地には平和、御心に適う人にあれ」と記されていました。主イエスのご降誕により、神と人との平和の道が開かれたということです。さらに、ルカ7:50では罪深い女性の罪を赦し「あなたの信仰があなたを救った。安心して行きなさい」と語られています。安心と訳された言葉は平和という言葉です。平和の内に行きなさいと語られています。 しかしながら、今朝共に聞きました51節には「あなたがたは、わたしが地上に平和をもたらすために来たと思うのか。そうではない。言っておくが、むしろ分裂だ」と語られています。「地には平和」が始まりましたがここでは平和ではなく分裂だと言うのはいかなることでしょうか。 確かに、主イエスはマタイ5:9では「平和を実現する人々は、幸いである。その人たちは神の子と呼ばれる」と語っています。ルカ10:5でも弟子たちを派遣されるに際して主イエスは「どこかの家に入ったら、まず、『この家に平和があるように』と言いなさい」と言われました。主イエスにとって平和は主イエスの教えの中心です。 主が弟子たちに平和の福音を宣べ伝えるようにと教えて派遣しましたから、主イエスが平和をもたらすために来られたことは間違いありません。しかし、ルカ10:6で「平和の子がそこにいるなら、あなたがたの願う平和はその人にとどまる。もし、いなければ、その平和はあなたがたに戻って来る」と語りました。また、ルカ10:10-11では「町に入っても、迎え入れられなければ、広場に出てこう言いなさい。『足についたこの町の埃さえも払い落として、あなたがたに返す。しかし、神の国が近づいたことを知れ。』と。言っておくが、かの日には、その町よりまだソドムの方が軽い罰で済む」と語られています。 主イエスがもたらす平和は、神の国の平和です。神の国の平和は、神との和解による平和であり、神との間にもはや戦争は終結したという完全な平和でありました。主イエスによって神はわたしたちの味方となり、わたしたちは敵ではなくなりました。わたしたちは神の裁きを受けることはなくなり、罪赦されて完全な祝福を約束されています。 しかし、この平和は、御心に適う人たちに与えられると天使たちも歌いましたし、弟子たちが語る平和の福音を受け入れない家も町もあります。主イエスがもたらす神の国に敵対する者が分裂を生み出します。 救い主が来られたために平和が失われ分裂が引き起こされ、5人家族が2人と3人に分かれてしまいます。しかし、主イエスも神も分裂を望んでいるわけではありません。むしろ、主イエスを拒絶し、神の救いを拒絶する者たちが分裂を引き起こします。主イエスはそれを予告したわけです。 2. 火を投ずる主イエス 主イエスは「わたしが来たのは、地上に火を投ずるためである」と言われました。そして「その火が既に燃えていたらと、どんなに願っていることか」と言われました。主イエスが地上に投ずる火とは何でしょうか。 火は焼き尽くす炎として裁きのイメージがあります。罪の世界を焼き尽くす裁きの火です。ルカ3:16-17は「その方は、聖霊と火であなたたちに洗礼をお授けになる。そして、手に箕を持って、脱穀場を隅々まできれいにし、麦を集めて倉に入れ、殻を消えることのない火で焼き払われる」と語ります。火は裁きを意味しています。しかし、まだ燃えていません。神の火が燃えていないので、それに反対する者は、簡単に消すことができる状態にあるのでしょう。こうして主イエスも弟子たちも救いの福音を宣べ伝えているのに、反対され、また家族からも反対されてしまい、神との真実な平和が拒絶されてしまいます。 けれども、続けて主イエスはわたしには受けねばならない洗礼があると語られました。この言葉は主イエスが地上に投ずる火と関連しています。主イエスの洗礼が終わるまで、主イエスは苦しみ続けます。しかし、その後には火は燃え上がります。 そうするとこの火についてのもう一つの理解の可能性も出てきます。それは裁きの火であると共に聖霊をも意味しているとの理解です。使徒言行録2:3-4には「そして、炎のようなな舌が分かれ分かれに現れ、一人一人の上にとどまった。すると一同は聖霊に満たされ、霊が語らせるままに、ほかの国々の言葉で話しだした」とあります。聖霊が炎のような姿で降り、一同は外国の言葉で語り出しました。そして一同を代表してペトロが主イエスを証言し、福音を宣べ伝えます。 3. 主イエスが受ける洗礼と燃える火 しかし、その火が燃え広がる前に主イエスが「受けねばならない洗礼」とは何でしょうか。主イエスは既に洗礼者ヨハネから洗礼を授けられました。ルカ3:21-22に記されています。ですから、これは主イエスがもう一度洗礼を受けることではありません。洗礼と訳された言葉は沈むという意味の言葉です。そしてその言葉は受け身形です。神によって沈められねばならないということです。主イエスが水の中に沈められて死ぬことを意味しています。ですから、この主イエスの洗礼は主イエスの苦難を意味しています。それは主イエスの十字架の苦難と死を譬えています。しかも、それは神の意志によって定められていることであり、それが成就して後に、火は燃え上がります。 主イエスは、この地上に火を投ずるために来られました。そのために苦難の地上のご生涯を全うしなければなりません。そのように、主イエスの苦難の後に投ぜられる火が聖霊です。聖霊によって弟子たちの心に信仰の火が燃やされました。そして、その時から、全世界に向けて大胆に主イエスの平和の福音は燃え広がりました。それは焼き尽くす火として人々の心をとらえ、その罪を明るみに出し、悔い改めへと導きました。 しかし、その弟子たちの福音宣教によって人々は主イエスの福音を受け入れるか拒否するかの別れ道に立つことになりました。拒否すれば、聖霊による炎は裁きの火となって焼き尽くします。受け入れるならば、聖霊は信仰の炎を内に燃やしてくださり、主イエスの弟子として分裂を恐れることなく、主に従う者とされて行きます。ですから、主イエスによって投ぜられる火は裁きでもあり、聖霊でもあり、あれかこれかというよりは両方の意味が込められていると思います。 神による平和は、それまで偶像の神々との平和に馴染んできた者たちにとっては対立となりました。ですから、平和の福音を受け入れない者は主イエスと弟子たちを拒絶しました。それは今も続いています。 わたしたちの社会は既に戦後80年を迎えようとしています。この間、教会に対する迫害はありませんでした。しかし、教会も社会批判の力を失っているかも知れません。わたしたちは、今、この社会の中で分裂を引き起こすほどの力もないかも知れません。世と妥協すれば分裂は起こらないからです。 しかし、どれほどわたしたちの力が弱くても、神は既に主イエスの十字架によってこの地上に火を投じました。この火を誰も消すことはできません。その火はわたしたちをも裁くかも知れません。けれども、その火こそが、わたしたちに信仰を与えわたしたちを導いてくださる聖霊です。聖霊なる神は、平和の福音によって、分裂を引き起こします。福音をねじ曲げて妥協を重ねる偽りの平和ではなく、清められ焼き尽くされた地に建てあげられる平和です。 主イエスによる平和の福音を拒絶するのが罪人の姿です。主イエスを信ずる以前はわたしたちも自分中心に生きており、主イエスによる平和には無関心でした。そのわたしたちを愛し、わたしたちのために主イエスは苦難の道を歩んでくださいました。主イエスの苦難と死の故に平和の火がわたしたちの内に灯されているのです。祈ります。
2月は「政教分離と信教の自由のために」を祈りの課題としています。
それは2月11日が建国記念の日とされたことを意識してのことです。その日は戦前の紀元節でしたが、敗戦後GHQによって廃止されました。しかし、日本の独立後に繰り返し国会に提案されて建国記念の日として制定されました。同じ紀元節の日とされ、わたしたちはキリスト者の思想信条を束縛する危険があると感じています。先の戦争の時代には信教の自由は圧迫されました。ですから信教の自由と平和の問題はわたしたちの国で深く結び付いた課題になっています。そこでその日にわたしたちの教会は政教分離と平和の集いを毎年開き、事柄の理解を深めています。全国の教会会議では必要に応じて為政者たちに抗議声明を出しています。
今年も東京恩寵教会を会場として同盟キリスト教団の朝岡勝牧師から講演を伺いました。昨今の国際情勢にも触れながら、身近な所から平和を考えることを主題とした講演でした。具体的な人間関係の破れをいかに平和的に克服していくかということも語られて興味深く聞きました。
1. 主イエスのもたらす平和が引き起こす分裂
主イエスは、わたしたちに神を愛することと自分を愛するように隣人を愛することを教え、平和に生きる祝福を語っておられます。クリスマスにしばしば読まれるルカ2:14には天使の大群の賛美として「いと高きところには栄光、神にあれ、地には平和、御心に適う人にあれ」と記されていました。主イエスのご降誕により、神と人との平和の道が開かれたということです。さらに、ルカ7:50では罪深い女性の罪を赦し「あなたの信仰があなたを救った。安心して行きなさい」と語られています。安心と訳された言葉は平和という言葉です。平和の内に行きなさいと語られています。
しかしながら、今朝共に聞きました51節には「あなたがたは、わたしが地上に平和をもたらすために来たと思うのか。そうではない。言っておくが、むしろ分裂だ」と語られています。「地には平和」が始まりましたがここでは平和ではなく分裂だと言うのはいかなることでしょうか。
確かに、主イエスはマタイ5:9では「平和を実現する人々は、幸いである。その人たちは神の子と呼ばれる」と語っています。ルカ10:5でも弟子たちを派遣されるに際して主イエスは「どこかの家に入ったら、まず、『この家に平和があるように』と言いなさい」と言われました。主イエスにとって平和は主イエスの教えの中心です。
主が弟子たちに平和の福音を宣べ伝えるようにと教えて派遣しましたから、主イエスが平和をもたらすために来られたことは間違いありません。しかし、ルカ10:6で「平和の子がそこにいるなら、あなたがたの願う平和はその人にとどまる。もし、いなければ、その平和はあなたがたに戻って来る」と語りました。また、ルカ10:10-11では「町に入っても、迎え入れられなければ、広場に出てこう言いなさい。『足についたこの町の埃さえも払い落として、あなたがたに返す。しかし、神の国が近づいたことを知れ。』と。言っておくが、かの日には、その町よりまだソドムの方が軽い罰で済む」と語られています。
主イエスがもたらす平和は、神の国の平和です。神の国の平和は、神との和解による平和であり、神との間にもはや戦争は終結したという完全な平和でありました。主イエスによって神はわたしたちの味方となり、わたしたちは敵ではなくなりました。わたしたちは神の裁きを受けることはなくなり、罪赦されて完全な祝福を約束されています。
しかし、この平和は、御心に適う人たちに与えられると天使たちも歌いましたし、弟子たちが語る平和の福音を受け入れない家も町もあります。主イエスがもたらす神の国に敵対する者が分裂を生み出します。
救い主が来られたために平和が失われ分裂が引き起こされ、5人家族が2人と3人に分かれてしまいます。しかし、主イエスも神も分裂を望んでいるわけではありません。むしろ、主イエスを拒絶し、神の救いを拒絶する者たちが分裂を引き起こします。主イエスはそれを予告したわけです。
2. 火を投ずる主イエス
主イエスは「わたしが来たのは、地上に火を投ずるためである」と言われました。そして「その火が既に燃えていたらと、どんなに願っていることか」と言われました。主イエスが地上に投ずる火とは何でしょうか。
火は焼き尽くす炎として裁きのイメージがあります。罪の世界を焼き尽くす裁きの火です。ルカ3:16-17は「その方は、聖霊と火であなたたちに洗礼をお授けになる。そして、手に箕を持って、脱穀場を隅々まできれいにし、麦を集めて倉に入れ、殻を消えることのない火で焼き払われる」と語ります。火は裁きを意味しています。しかし、まだ燃えていません。神の火が燃えていないので、それに反対する者は、簡単に消すことができる状態にあるのでしょう。こうして主イエスも弟子たちも救いの福音を宣べ伝えているのに、反対され、また家族からも反対されてしまい、神との真実な平和が拒絶されてしまいます。
けれども、続けて主イエスはわたしには受けねばならない洗礼があると語られました。この言葉は主イエスが地上に投ずる火と関連しています。主イエスの洗礼が終わるまで、主イエスは苦しみ続けます。しかし、その後には火は燃え上がります。
そうするとこの火についてのもう一つの理解の可能性も出てきます。それは裁きの火であると共に聖霊をも意味しているとの理解です。使徒言行録2:3-4には「そして、炎のようなな舌が分かれ分かれに現れ、一人一人の上にとどまった。すると一同は聖霊に満たされ、霊が語らせるままに、ほかの国々の言葉で話しだした」とあります。聖霊が炎のような姿で降り、一同は外国の言葉で語り出しました。そして一同を代表してペトロが主イエスを証言し、福音を宣べ伝えます。
3. 主イエスが受ける洗礼と燃える火
しかし、その火が燃え広がる前に主イエスが「受けねばならない洗礼」とは何でしょうか。主イエスは既に洗礼者ヨハネから洗礼を授けられました。ルカ3:21-22に記されています。ですから、これは主イエスがもう一度洗礼を受けることではありません。洗礼と訳された言葉は沈むという意味の言葉です。そしてその言葉は受け身形です。神によって沈められねばならないということです。主イエスが水の中に沈められて死ぬことを意味しています。ですから、この主イエスの洗礼は主イエスの苦難を意味しています。それは主イエスの十字架の苦難と死を譬えています。しかも、それは神の意志によって定められていることであり、それが成就して後に、火は燃え上がります。
主イエスは、この地上に火を投ずるために来られました。そのために苦難の地上のご生涯を全うしなければなりません。そのように、主イエスの苦難の後に投ぜられる火が聖霊です。聖霊によって弟子たちの心に信仰の火が燃やされました。そして、その時から、全世界に向けて大胆に主イエスの平和の福音は燃え広がりました。それは焼き尽くす火として人々の心をとらえ、その罪を明るみに出し、悔い改めへと導きました。
しかし、その弟子たちの福音宣教によって人々は主イエスの福音を受け入れるか拒否するかの別れ道に立つことになりました。拒否すれば、聖霊による炎は裁きの火となって焼き尽くします。受け入れるならば、聖霊は信仰の炎を内に燃やしてくださり、主イエスの弟子として分裂を恐れることなく、主に従う者とされて行きます。ですから、主イエスによって投ぜられる火は裁きでもあり、聖霊でもあり、あれかこれかというよりは両方の意味が込められていると思います。
神による平和は、それまで偶像の神々との平和に馴染んできた者たちにとっては対立となりました。ですから、平和の福音を受け入れない者は主イエスと弟子たちを拒絶しました。それは今も続いています。
わたしたちの社会は既に戦後80年を迎えようとしています。この間、教会に対する迫害はありませんでした。しかし、教会も社会批判の力を失っているかも知れません。わたしたちは、今、この社会の中で分裂を引き起こすほどの力もないかも知れません。世と妥協すれば分裂は起こらないからです。
しかし、どれほどわたしたちの力が弱くても、神は既に主イエスの十字架によってこの地上に火を投じました。この火を誰も消すことはできません。その火はわたしたちをも裁くかも知れません。けれども、その火こそが、わたしたちに信仰を与えわたしたちを導いてくださる聖霊です。聖霊なる神は、平和の福音によって、分裂を引き起こします。福音をねじ曲げて妥協を重ねる偽りの平和ではなく、清められ焼き尽くされた地に建てあげられる平和です。
主イエスによる平和の福音を拒絶するのが罪人の姿です。主イエスを信ずる以前はわたしたちも自分中心に生きており、主イエスによる平和には無関心でした。そのわたしたちを愛し、わたしたちのために主イエスは苦難の道を歩んでくださいました。主イエスの苦難と死の故に平和の火がわたしたちの内に灯されているのです。祈ります。