2025年02月16日「賢い管理人 ルカ12:35-48 ハバクク2:1-4」

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賢い管理人 ルカ12:35-48 ハバクク2:1-4

日付
日曜朝の礼拝
説教
小峯明 牧師
聖書
ルカによる福音書 12章35節~48節

聖書の言葉

ルカによる福音書 12章35節~48節

メッセージ

ルカ12:35以下の段落を二回に分けて聞いています。前回は前半の 40節までを聞きました。今朝は41節以下を見ていきます。この段落は 、主人の不在の中で、僕たちがどのように託された使命を果たすかが問わ れています。それを主イエスは、婚宴に出掛けて、帰って来る主人と主人 の帰宅に備えて目を覚まして準備している僕のたとえで教えています。こ のたとえを聞いた弟子たちと群衆は、主イエスがやがて不在になる期間が あることを十分には理解できなかったかも知れません。彼らにとっては主 イエスがこの後弟子たちから離れて祈りに集中され、その間は自分たちで 主イエスの教えを伝えていくというイメージだったかもしれません。

この主イエスの譬えは、むしろ、後の教会の時代、そしてわたしたちの 時代から見ると良く分かるかもしれません。後に弟子たちは主イエスの十 字架と復活と昇天を経験します。その昇天については使徒言行録1章に記 されていますが、その時に弟子たちは再臨の教えを聞きます。主イエスは 行ったきりではなく、再び来られます。

この主人と僕の譬えは、ですから、この後の昇天から再臨の間に生きる 弟子たちの生きかたを教えたたとえです。ペトロたちと弟子たちも、後の 教会のわたしたちも主イエスがいつ帰って来られても良いように、目を覚 まして備えて生きることが求められています。そこにキリスト者の使命が あるわけです。

1.誰に語られたのか。

しかし、この時点では、十字架も復活も昇天もまだ先のことですから、 弟子たちを代表して、ペトロが「主よ、このたとえはわたしたちのために 話しておられるのですか。それとも、みんなのためですか」と質問しまし た。その質問に対して、主イエスは再び譬えを用いて答えられます。主イ エスはここで直接答えません。主イエスの教えは、弟子たちと後の時代に 教会の指導者に成長して行く多くの群衆を含めてのことでしょう。

しかし、譬えを見ていきますと、まず指導的な役割を担う中心的な働き 手が語られていますので、弟子たち、また教会で言えば役員たち、様々な奉仕を担う先輩の信徒たち、やがてはそのようになる信徒たちでしょう。

2.忠実で賢い管理人と不忠実な管理人

わたしたちキリスト者が、主イエスの再臨を待って生きるその生活をど の様に整えるか。この譬えには忠実な賢い管理人とそうではない管理人が 比較されています。賢い管理人は主人の僕たちの上に立てられた人です。 僕の中でもよく仕事のできる人が管理を託されました。「主人が召使いた ちの上に立てて、時間どおりに食べ物を分配させることにした忠実で賢い 管理人はいったいだれであろか」と主イエスは言われます。

彼の仕事は、時間通りに食べ物を分配することてす。食べ物の分配とい うのは当時は、賃金が現物支給でしたから奴隷たちに賃金を支給する働き でした。彼は奴隷たちの働きを管理して、自分も奴隷ですが、奴隷頭とし て仕事を任されています。その僕は「主人が帰って来たとき、言われたと おりにしているのを見られる僕は幸いである」と言われます。この幸いは この段落の前半では目を覚ましている僕を主人が食卓で接待してくれると 語られていました。主人から特別な待遇を与えられるという幸いです。

後半の譬えでは、この僕の幸いは「主人は彼に全財産を管理させるにち がいない」とより大きな責任を託されます。僕の賃金だけの管理ではなく 主人の全財産の管理ですから、主人の次に権威があるような働きを任され るということでしょう。国で言えば財務大臣のような職務を託されるとい うことです。

しかし、もしその同じ僕が「主人の帰りは遅れると思い、下男や女中を 殴ったり、食べたり飲んだり、酔うようなことになるならば、その僕の主 人は予想しない日、思いがけない時に帰って来て、彼を厳しく罰し、不忠 実な者たちと同じ目に遭わせ」ます。今日も、明日も主人は帰って来ない だろう。来週も、その次の週も、年内も、来年も、帰って来ないかも知れ ない。主イエスの再臨を教会は2000年以上も待っています。こうなれ ば自分たちが死ぬ方が早いかも知れない。そう思えばまだよいかも知れま せん。危機を意識できるからです。ただ、感覚が鈍って来ると問題です。 彼は、主人が帰って来ないと思い真面目に仕事をしなくなりました。そし て、下男や女中を殴るようになりました。この者たちは管理を託された同 じ僕仲間です。言わば暴力によって支配するようになりました。言うこと

を聞かない者たちに制裁を加えはじめました。まるで自分がこの家の主人 であるかのような振る舞いです。そして仕事をせずに、食べたり飲んだり と忠実な管理を怠りました。

そのような不忠実な管理人に対して「その僕の主人は、予想しない日、 思いがけない時に帰って来て、彼を厳しく罰し、不忠実な者たちと同じ目 に遭わせる」と主イエスは言われました。ここで「厳しく罰し」と訳され ている言葉は、切り刻むという意味の言葉です。それは恐ろしい裁きが下 されるという意味です。文字通りに惨殺するというよりも断罪の厳しさが 語られていると見ることができるでしょう。未来形の動詞ですから、主人 が帰って来る将来に裁きがなされます。それは最後の審判で断罪されると いうことです。続けて47-48節には、僕が生きている状況を前提にし て語られています。主人が帰る前に、誘惑に陥り、サボらないで主イエス に立ち返るようにと警告として語られています。

3.使命に忠実に

キリスト教信仰には報いと裁きがあります。既に35-48節には明ら かに報いが語られていました。37節には主人の帰りに備えて目を覚まし ていた僕には、主人が食卓を用意してくださるという特別な待遇が約束さ れていました。44節には忠実で賢い管理人には「全財産を管理させるに ちがいない」と語られています。最初は小さな責任でしたが、忠実に働く 者には、より大きな責任が与えられます。これらの報いは、主イエスの再 臨において与えられる報いです。

けれども、主の僕とされた者が忠実に託された責任を果たさなければ厳 しい裁きを受けます。まず仕事を託されたにもかかわらず忠実に働かなか った者はひどく鞭打たれます。主イエスの再臨を期待せずにいた人です。 信仰生活で言えば、神礼拝と神への愛と隣人への愛を疎かにしていたとい うことでしょう。自分は僕なのに、主人が帰って来ないのを良いことに、 自分が主人になってしまいました。46節ではその末路はとても厳しいこ とが語られていますが47節では、ひどく鞭打たれると語りなおされてい ます。本当に最後まで警告を無視すれば、厳しい裁きになります。ですか ら、そうならないようにと主イエスは警告しておられます。

しかし、知らずにいて鞭打たれるようなことをした者は、打たれても少しで済むと主イエスは言われました。主人の思いを知らない弟子たちもい るということでしょう。たとえから考えると、僕たちは複数形で語られて います。主人は大勢僕がおりました。そして42節以下ではそれらの僕た ちの管理者として僕頭のような者がいました。ですから、主イエスの僕と された者たちの中にもいろいろなことを弁えている者たちとまだ十分理解 していない者たちがいるのでしょう。

これはわたしたちの教会の現実を見ればよく分かります。昨年、洗礼を 受けた方と何十年も信仰生活を続けて、役員とされた方では責任も働きも 異なります。そして、ここではそのように信仰の経験だけでなく、経験を 重ねた者たちであっても、知らずに犯す罪もあります。主イエスは僕とし て生きる時に、主人の帰りを忠実に待つようにと励まし、そして知らずに いて失敗した場合については少しの罰にしてくださいます。

そして、主イエスは「すべて多く与えられた者は、多く求められ、多く 任された者は、更に多く要求される」と言われました。譬えで考えれば、 僕として主人に仕えている間に少しずつ責任ある仕事に着くようになり、 僕たちの管理人とされた人は、多くを任されたので多くを要求されるとい うことです。

わたしたちは僕として、忠実に賢く生きることが求められています。そ こに主イエスの思いがありますから、それぞれが遣わされたところで、忠 実で賢い管理人として生きることです。教会員としては、主イエスの体な る教会の形成のために仕え、健康な間は礼拝と祈りに励みます。そしてキ リスト者として世に遣わされていますから、それぞれが遣わされたところ で神の栄光のために生活します。学生であれば勉強に励み、社会人であれ ば仕事をし、そして家庭と地域に遣わされていれば、それぞれの場で神を 愛して隣人を愛して生きるわけです。

使徒パウロは1コリ4:1-2で「こういうわけですから、人はわたし たちをキリストに仕える者、神の秘められた計画をゆだねられた管理者と 考えるべきです。この場合、管理者に要求されるのは忠実であることです」 と語っています。主イエスの指示はこれです。忠実であることが様々な場 面で求められます。そこにキリスト者の使命があります。そして、何より も主イエスがわたしたちのために忠実に救いを果してくださいました。主 イエスの忠実さに弟子としての歩みが支えられているのです。祈ります。