2025年02月09日「忠実な僕(しもべ) イザヤ13:9-10 ,ルカ12:35-40」

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忠実な僕(しもべ) イザヤ13:9-10 ,ルカ12:35-40

日付
日曜朝の礼拝
説教
小峯明 牧師
聖書
イザヤ書 13章9節~10節

聖書の言葉


イザヤ書 13章9節~10節

メッセージ

先週の金曜日にS姉の葬儀式を会堂で行いました。親しい信仰の先輩た ちを天の教会に送ることは、地上の教会に残されたわたしたちにとりまし ては寂しく、深い悲しみがあります。ご家族と教会に神様の慰めを祈りま す。礼拝の時に座る席は概ね決まってきます。あの席に座っておられた方 が天の教会に移られ、この席に座っておられた方も天の教会にと毎年のよ うにわたしたちは信仰の友との別れを経験します。それだけに、わたした ちもその時に目を覚まして備えることの大切さを覚えます。

1.時に備える

共に聞きました箇所は35-48節が一つの段落になっています。今朝 はその前半を聞きました。段落の小見出しに「目を覚ましている僕」と語 られています。この箇所には個人の終わりではなく、世界の終わりの備え が語られています。しかしながら、終わりの時に備える点では個人の終わ りも世界の終わりも共通するところがあります。

S姉も2021年にご主人を送られ、お一人での生活になりました。ご 家族とも相談し終わりの時の備えを始めました。足も弱りましたが、毎週 礼拝に集い、祈祷会にもオンラインで参加しておられました。心を天に上 げて、いつその時が来てもよいように礼拝と祈祷会に集中していました。

この前の段落では、地上のものに心を向けるのではなく、富を天に積み なさいと主イエスは教えておられます。そのように天に富を積み、神の前 に豊かに生きる人は、いつその時が来てもよいように備える人です。愚か な金持ちの譬えがルカ12:13以下に記されていましたが、この金持ち は自分の時をわきまえることができませんでした。ですから、天に富を積 むことができず地上の命を取り上げられてしまいました。富の誘惑に警戒 し、わたしたちも相応しい備えを祈り求めたいと思います。

2.主人を待つ僕

その上で、ここで語られている終わりの時は、既に触れましたように世 界の終わりが意識されています。世界の終わりと言われてもピンと来ない

かも知れません。天変地異や疫病は歴史の中で繰り返されて来ました。し かし、そのようなことで世界は終わりません。

それでは、いつ終わりは来るのか。それは分かりません。しかし、ここ では主人が帰って来ると語られています。その時が終わりの時です。婚宴 に行って帰って来る主人は40節を見ると「人の子」と語りなおされてい ます。「人の子」称号は主イエスがしばしばご自身を示すために用いられ た称号です(ルカ5:24-25)。この人の子称号は来るべきメシアを 示す方として旧約聖書のダニエル書7:13節に語られています。ですか ら、ここでは救い主であられる主イエスが主人で、婚宴から戻って来るこ とは主イエスの再臨を譬えています。

そうしますと僕は41節以下にまた解説されていきますが、主イエスの 弟子たちであり、後の時代の弟子たちに続く者たちです。それはわたした ちを含んでいます。そしてここで「僕」と訳されている言葉は、もともと の言葉では「奴隷」を意味する言葉です。主人に使える「召使」です。当 時のギリシャ世界ではこの言葉は侮蔑的な意味で文字通り奴隷として用い られていました。しかし、旧約聖書は神に仕える者に用いていました。

ですから、使徒パウロはローマの信徒への手紙の冒頭で、自己紹介をし て、「キリスト・イエスの僕、神の福音のために選び出され、召されて使 徒となったパウロから」と語りました。「キリスト・イエスの僕」そのあ とにわたしたちは自分の名前を語ることができます。それだけに、忠実に 主イエスに仕える、主人に仕えることが問われています。しかし、わたし たちも主人は今日帰って来ないだろうと思いサボる誘惑に陥ります。わた したちを眠りに誘う力は強力です。ですから、そうではなく、幸いだと言 われるように目を覚ましていなさいと主イエスは言われるわけです。

3.幸いな僕の姿

その幸いな僕の姿を主イエスは「腰に帯を締め、ともし火をともしてい なさい」と命じています。「腰に帯を締め」というのは、働く準備が整っ ていることを意味していました。ともし火をともしていなさいという言葉 は、この後夜主人が帰ってくることが譬えで語られますので、暗くなって も自分の仕事がきちんとできるようにともし火をともして準備をして置く ということです。

そこに主人が帰ってきますが、日時は分かりません。婚宴はわたしたち の時代のように時間通りに終わるわけではなかったからです。ですから、 いつ主人が帰って来てもよいように、「腰に帯を締めて、ともし火をとも して」と言われました。これは僕であれば通常の働きでした。

常在戦場という言葉があります。常に戦場にいることを覚悟して生きる 武士の生き方を示す言葉です。油断しないで緊張感を持って生きるという ことです。常在戦場は武士の生き方ですからわたしたちの生き方ではあり ませんが、罪と誘惑という敵に囲まれている状況を思うと重なる面もあり ます。それを主イエスは目を覚ましていなさいと語りました。

そして、「主人が帰って来た時、目を覚ましているのを見られる僕たち は幸いだ」と主イエスは語ります。これはこの後、45節以下に語られる 仕事を怠ける僕と対比されています。そのような僕に対して主人は「彼を 厳しく罰し、不忠実な者たちと同じ目に遭わせる」と語ります。今朝は旧 約聖書イザヤ書13:9-10を聞きました。9節には「見よ、主の日が 来る/残忍な、怒りと憤りの日が。大地を荒廃させ/そこから罪人を絶つ ために」とありました。主人の帰りを目を覚まして待つ者にはその日は幸 いな日ですが、備えをせずに怠けている者たちにはその日は裁きの日とな ります。

ですから38節にも「主人が真夜中に帰っても、夜明けに帰っても、目 を覚ましているのを見られる僕たちは幸いだ」と語られています。主人が 帰る時は分かりません。ですから、この時は徹夜になるかも知れません。 それでも、託された務めを忠実に果たすために目を覚ましている僕たちは 幸いです。

4.幸いの報酬

それでは主人が帰宅した時に幸いだと言われた僕にはどのような報酬が 与えられるのでしょうか。キリスト教信仰に何か報いがあると言われると 違和感を覚える方もあるかも知れません。キリスト教信仰は御利益信仰で はないからです。

しかしながら、この箇所ではとても興味深い報いが語られています。主 人が帰宅した後で「目を覚ましているのを見られる僕たちは幸いだ。はっ きり言っておくが、主人は帯を締めて、この僕たちを食事の席に着かせ、そばに来て給仕してくれる」とあります。

主人は疲れていないのでしょうか。遠い道を帰って来たことでしょう。 それにも係わらず目を覚まして待っていた僕の仕事ぶりを見るや否や、主 人が僕を接待します。主人が僕となり、僕が主人となります。一体この食 卓は何を意味しているのでしょうか。

もともとの聖書の言葉で見ますと、ここで用いられている「帯を締め、 食事の席に着かせ、給仕してくれる」という動詞は未来形の動詞です。主 イエスが弟子たちに語られたこの譬えは、将来、目を覚ましていた僕に与 えられる祝福、幸いを約束しています。将来とは何時のことでしょうか。 それこそ、主人が帰って来た時のことです。この主人は人の子です。40 節には「あなたがたも用意していなさい。人の子は思いがけない時に来る からである」と語られています。「人の子」は、ここでは主イエスご自身 を指していることは既に触れました。あなたがたも、幸いな僕のように用 意していなさいということは、目を覚ましている僕に譬えて弟子たちに語 られている言葉です。

この時点では、まだ主イエスは十字架の前ですから、当然弟子たちは復 活も知りません。しかし、メシアが終わりの時に再び来られることは旧約 聖書のダニエル書の預言等を通じて知っていました。最後の時に、裁きで はなく幸いな食卓に着くこと。それは世界の完成の時に招かれる祝宴をイ メージしているかも知れません。その食卓に着くことを許された事が報い です。そしてその食卓の給仕こそが、わたしたち罪人のためにご自身を十 字架で犠牲にされ、わたしたちのために僕として仕えてくださった主イエ スご自身です。

この方が腰に帯を締めて、彼らを席に着かせ、側によって、給仕してく ださいます。その日を望み見て、わたしたちはそれぞれが残された地上の 歩みを続けます。S姉は、その日の到来の前に、ご自分の日を迎えて、天 の教会に召されいかれました。

の時は思いがけない時に来ます。しかし、備えていれば心配はありま せん。39節の泥棒の譬えはそのことを意図しています。わたしたちも、 主人の帰宅のために用意が必要です。その備えは、主イエスとの交わりで ある礼拝と祈りを大切にすることです。わたしたちも主人の帰宅を楽しみ に待ち、託された務めを果たしましょう。祈ります