聖書の言葉 ガラテヤの信徒への手紙 3章6節~7節 メッセージ 5月は春の伝道礼拝と聖霊降臨日があり、それぞれ別の聖書の箇所から 聞きましたのでガラテヤ書に戻るのは3週間振りになります。パウロが伝 道して誕生したガラテヤ地方の諸教会に、パウロの後に来たユダヤ人キリ スト者の指導者たちが、パウロの使徒としての権威を否定し、それゆえに パウロの教えも不十分であり、キリスト者と言えどもユダヤ人の律法に従 う必要があることを教えました。 それに対するパウロの反論を続けて聞いています。パウロは、結論から 言えば、主イエス・キリストを信ずる信仰だけで誰でも救われ、神に受け 入れられることを語り、そのためにユダヤ人の律法を実践する必要はない ことを語っています。具体的には割礼と食物規定、エルサレムでユダヤ人 たちが実践しているユダヤ人の暦に従う生活でした。 そこで、ユダヤ人キリスト者の影響を受けたガラテヤの諸教会に、パウ ロはまず共に体験した聖霊の導きを思い起こさせました(3:1-5)。 それは彼ら自身霊を受けた体験であったようです。しかし、その霊の働き はイエス・キリストの十字架を異邦人たちに示し、心に刻む働きでした。 そのような聖霊体験は、割礼を施したからではなく、パウロが語った主 イエス・キリストの福音を聞いて信じることによるものでした。ガラテヤ の信徒たちは、もともと異教徒たちですからユダヤ人の習慣や律法につい て知識はあったかも知れませんが、自分たちとは関わりのないことだと思 っていましたし、パウロ自身もユダヤ人の実践は伝えていませんでした。 ですから、ユダヤ人のようになるはずはないにもかかわらず、後にエル サレムから来た指導者たちの言葉を受け入れしまったわけです。そこでパ ウロはさらに旧約聖書に基づいて信仰のみの教えを語ります。 1.アブラハムの例 それがここで引用されている創世記15:6の言葉です。この時、旧約 聖書ではアブラハムはまだアブラムという名前でしたが、創世記17章で アブラハムと改名します。ここで、パウロが旧約聖書に基づいて論証する のは、ガラテヤの信徒たちを惑わしたユダヤ人キリスト者たちの主張を前 提としているからでしょう。割礼の問題は5:2でも再度取り上げられま す。そこでは「もし、割礼を受けるなら、あなたがたにとってキリストは 何の役にもたたない方になります」とあります。 ガラテヤの諸教会の信徒たちは、それほど旧約聖書に精通していたわけ ではなかったでしょう。わたしたちも、ここでいきなりアブラハムの話が 出てくることに違和感を覚えるかも知れません。 けれども、この時ユダヤ人キリスト者が割礼を勧めた時にその根拠とし たのがアブラハムと神様との契約でした。神様がアブラハムとその子孫に 神の民のしるし、契約のしるしとして命じたのが割礼です。創世記17: 7「わたしは、あなたとの間に、また後に続く子孫との間に契約を立て、 それを永遠の契約とする。そして、あなたとあなたの子孫の神となる」と 語られています。そして、この契約の一員とされた者は割礼を受けること が続けて語られています。10-11「あなたたち、およびあなたの後に 続く子孫と、わたしとの間で守るべき契約はこれである。すなわち、あな たたちの男子はすべて、割礼を受ける。包皮の部分を切り取りなさい。こ れが、わたしとあなたたちとの間の契約のしるしとなる」とあります。 ユダヤ人たちにとって割礼の根拠は、アブラハムに命じられた神の言葉 にあります。しかし、ここで興味深いのは、この割礼をガラテヤのキリス ト者に勧めているのはユダヤ教徒ではないということです。ユダヤ教徒が ユダヤ教に入信したい外国人に割礼を勧めるなら、それは分かります。そ れはユダヤ人のしるしであり、ユダヤ教徒として生きるために不可欠であ ったからです。 しかし、ここで割礼を勧めているのはキリスト者です。ただユダヤ人キ リスト者でした。ですから、ユダヤ人キリスト者は、この永遠の契約がキ リストによって実現し、キリストを信ずれば、アブラハムの子孫となり、 契約に入れられると理解していたことが分かります。 そしてキリスト者となった自分たちこそ正真正銘のアブラハムの子孫で あり、永遠の契約の相続者であるという自覚でした。しかし、そのしるし である割礼もキリスト者となるために不可欠であるという理解です。それ では結局キリスト者でも、限りなくユダヤ教徒に近くなります。むしろユ ダヤ教徒と遜色なく生きて欲しいと願いました。それはユダヤ教徒たちに 対する弁明の意図がありました。外国人も、ユダヤ教徒のように割礼を受 けているのだから、彼らとの付き合いを大目に見てほしいという自己保身 的な思いです。 というのも、この時代、ユダヤ教徒は、外国人排斥運動を強行に押し進 めていましたので本国ユダヤのキリスト者は異邦人宣教をすればするほど 愛国的ユダヤ人からテロの対象にされる危険がありました。それを背後に 隠しながら、アブラハムの実践を勧める議論に対して、パウロは、創世記 15:6を基にここで反駁していくわけです。 2.信仰義認とアブラハム 相手が割礼の根拠をアブラハムから説明するのであれば、こちらは信仰 義認をやはり同じアブラハムの姿から説明するというわけです。結論から 言えば、割礼は、17章で、アブラハムに対する信仰義認は15章ですか ら信仰が先だということです。そしてそれだけで十分だという議論です。 割礼を受けないと義とされないのであれば、15章で既に割礼義認になっ ていなければおかしいではないかと言うわけです。そうすると、それでは 義とされたしるしは何かと言えば、それは聖霊による洗礼であり、それは 水を用いた洗礼です。主イエスがそれを弟子たちに命じています。 割礼は今や洗礼に置き変わりました。洗礼を受けて割礼をする必要はも はやないということです。創世記15章を見ますと、神はアブラハムに子 孫の繁栄を約束しました。アブラハムはこの時既に75歳を過ぎた今で言 えば後期高齢者です。サラは10歳若いとは言え、65歳ですから、妻が 妊娠して出産する年齢は過ぎていました。 そしてこの二人は既に、その年齢の時に12章で神様の招きを受けて神 様を信じて故郷を離れて遠路、カナン、今のイスラエル、パレスチナに旅 してきたわけです。ですから、もともと神様を信頼して従った言わば信仰 の夫婦でした。彼らの信仰の生涯は、15,17章も含めて波瀾万丈で、 生涯、神への信頼を学び続けた人生でしたが、既に神様と共に生きる幸い の中にありました。 そのアブラハムに神様は、子孫を約束します。アブラハムは、親族から 養子を迎えるか、僕が家の後を継ぐものだと考えていました。しかし、神 様は「あなたから生まれる者が跡を継ぐ」と約束されました。しかも、そ の子孫の数は星の数程になると言うわけです。 この言葉をアブラハムは信じました。「アブラムは主を信じた。主はそ れを彼の義と認められた」とあります。つまり、信仰によって彼は義と認 められたということです。義と認められるということは、神様と共に、生 きる者とされるという意味があり、神に受け入れられるということを意味 しています。ですから、罪の赦しが与えられて、無罪宣告を受けるという 意味も含んでいます。 既に神様がアブラハムを選んで招いているわけですが、ここで改めてア ブラハムの信仰を問われました。それは神様の言葉を信ずるか、否かとい う単純なことです。信仰はそもそもとても単純なことです。アダムは、神 様の言葉ではなくヘビの偽りの言葉を信じて食べてはいけないと言われた 木の実を食べて堕落し、死ぬことになりました。食べても死なないと嘘を つかれて、嘘を信じてヘビの言うとおり食べた結果、人類は今も罪と悲惨 の中にあります。その罪と悲惨からわたしたちを助けるために神はアブラ ハムを呼び出し、アブラハムの信仰を問い、彼は神の言葉を信じました。 神の約束を信じたわけです。 信仰は、わたしたちが主体で、わたしたちが神を必要とするか否かを自 分で判断すると考えがちですが、聖書はもともとはそうではなく、神がわ たしたちを愛して、神を礼拝する存在としてわたしたちを創造し、礼拝を 中心として世界を治めて神の栄光を表す者としてつくり出してくださった ことを教えています。神の愛の選びと招きが先にあります。 ですから、主語は常に神です。わたしたちではありません。ところが、 ヘビに騙されて堕落したので、わたしたちは自分が神を選択できるという 傲慢な罪人になってしまいました。しかも、その傲慢さが分かりません。 それが罪の罪たる所以です。 しかし、神はアブラハムを天から選ばれ呼び出されたように、わたした ちを天から選ばれ呼び出しておられます。そこで、わたしたちも神の約束 を聞く者とされました。アブラハムは信じて義とされましたが、その信仰 がこの後、訓練を受けて鍛えられます。その間失敗もありますが、神様は 赦してご自身の約束を全うされます。そしてその約束は、今や主イエスに よって全うされ、わたしたちは主イエスを信ずる時に、アブラハムの子孫 として神の永遠の契約に入れられます。神の招きを受け止め、神の約束を 信じることで、わたしたちも義とされ、罪の赦しに与ります。祈ります。
5月は春の伝道礼拝と聖霊降臨日があり、それぞれ別の聖書の箇所から
聞きましたのでガラテヤ書に戻るのは3週間振りになります。パウロが伝
道して誕生したガラテヤ地方の諸教会に、パウロの後に来たユダヤ人キリ
スト者の指導者たちが、パウロの使徒としての権威を否定し、それゆえに
パウロの教えも不十分であり、キリスト者と言えどもユダヤ人の律法に従
う必要があることを教えました。
それに対するパウロの反論を続けて聞いています。パウロは、結論から
言えば、主イエス・キリストを信ずる信仰だけで誰でも救われ、神に受け
入れられることを語り、そのためにユダヤ人の律法を実践する必要はない
ことを語っています。具体的には割礼と食物規定、エルサレムでユダヤ人
たちが実践しているユダヤ人の暦に従う生活でした。
そこで、ユダヤ人キリスト者の影響を受けたガラテヤの諸教会に、パウ
ロはまず共に体験した聖霊の導きを思い起こさせました(3:1-5)。
それは彼ら自身霊を受けた体験であったようです。しかし、その霊の働き
はイエス・キリストの十字架を異邦人たちに示し、心に刻む働きでした。
そのような聖霊体験は、割礼を施したからではなく、パウロが語った主
イエス・キリストの福音を聞いて信じることによるものでした。ガラテヤ
の信徒たちは、もともと異教徒たちですからユダヤ人の習慣や律法につい
て知識はあったかも知れませんが、自分たちとは関わりのないことだと思
っていましたし、パウロ自身もユダヤ人の実践は伝えていませんでした。
ですから、ユダヤ人のようになるはずはないにもかかわらず、後にエル
サレムから来た指導者たちの言葉を受け入れしまったわけです。そこでパ
ウロはさらに旧約聖書に基づいて信仰のみの教えを語ります。
1.アブラハムの例
それがここで引用されている創世記15:6の言葉です。この時、旧約
聖書ではアブラハムはまだアブラムという名前でしたが、創世記17章で
アブラハムと改名します。ここで、パウロが旧約聖書に基づいて論証する
のは、ガラテヤの信徒たちを惑わしたユダヤ人キリスト者たちの主張を前
提としているからでしょう。割礼の問題は5:2でも再度取り上げられま
す。そこでは「もし、割礼を受けるなら、あなたがたにとってキリストは
何の役にもたたない方になります」とあります。
ガラテヤの諸教会の信徒たちは、それほど旧約聖書に精通していたわけ
ではなかったでしょう。わたしたちも、ここでいきなりアブラハムの話が
出てくることに違和感を覚えるかも知れません。
けれども、この時ユダヤ人キリスト者が割礼を勧めた時にその根拠とし
たのがアブラハムと神様との契約でした。神様がアブラハムとその子孫に
神の民のしるし、契約のしるしとして命じたのが割礼です。創世記17:
7「わたしは、あなたとの間に、また後に続く子孫との間に契約を立て、
それを永遠の契約とする。そして、あなたとあなたの子孫の神となる」と
語られています。そして、この契約の一員とされた者は割礼を受けること
が続けて語られています。10-11「あなたたち、およびあなたの後に
続く子孫と、わたしとの間で守るべき契約はこれである。すなわち、あな
たたちの男子はすべて、割礼を受ける。包皮の部分を切り取りなさい。こ
れが、わたしとあなたたちとの間の契約のしるしとなる」とあります。
ユダヤ人たちにとって割礼の根拠は、アブラハムに命じられた神の言葉
にあります。しかし、ここで興味深いのは、この割礼をガラテヤのキリス
ト者に勧めているのはユダヤ教徒ではないということです。ユダヤ教徒が
ユダヤ教に入信したい外国人に割礼を勧めるなら、それは分かります。そ
れはユダヤ人のしるしであり、ユダヤ教徒として生きるために不可欠であ
ったからです。
しかし、ここで割礼を勧めているのはキリスト者です。ただユダヤ人キ
リスト者でした。ですから、ユダヤ人キリスト者は、この永遠の契約がキ
リストによって実現し、キリストを信ずれば、アブラハムの子孫となり、
契約に入れられると理解していたことが分かります。
そしてキリスト者となった自分たちこそ正真正銘のアブラハムの子孫で
あり、永遠の契約の相続者であるという自覚でした。しかし、そのしるし
である割礼もキリスト者となるために不可欠であるという理解です。それ
では結局キリスト者でも、限りなくユダヤ教徒に近くなります。むしろユ
ダヤ教徒と遜色なく生きて欲しいと願いました。それはユダヤ教徒たちに
対する弁明の意図がありました。外国人も、ユダヤ教徒のように割礼を受
けているのだから、彼らとの付き合いを大目に見てほしいという自己保身
的な思いです。
というのも、この時代、ユダヤ教徒は、外国人排斥運動を強行に押し進
めていましたので本国ユダヤのキリスト者は異邦人宣教をすればするほど
愛国的ユダヤ人からテロの対象にされる危険がありました。それを背後に
隠しながら、アブラハムの実践を勧める議論に対して、パウロは、創世記
15:6を基にここで反駁していくわけです。
2.信仰義認とアブラハム
相手が割礼の根拠をアブラハムから説明するのであれば、こちらは信仰
義認をやはり同じアブラハムの姿から説明するというわけです。結論から
言えば、割礼は、17章で、アブラハムに対する信仰義認は15章ですか
ら信仰が先だということです。そしてそれだけで十分だという議論です。
割礼を受けないと義とされないのであれば、15章で既に割礼義認になっ
ていなければおかしいではないかと言うわけです。そうすると、それでは
義とされたしるしは何かと言えば、それは聖霊による洗礼であり、それは
水を用いた洗礼です。主イエスがそれを弟子たちに命じています。
割礼は今や洗礼に置き変わりました。洗礼を受けて割礼をする必要はも
はやないということです。創世記15章を見ますと、神はアブラハムに子
孫の繁栄を約束しました。アブラハムはこの時既に75歳を過ぎた今で言
えば後期高齢者です。サラは10歳若いとは言え、65歳ですから、妻が
妊娠して出産する年齢は過ぎていました。
そしてこの二人は既に、その年齢の時に12章で神様の招きを受けて神
様を信じて故郷を離れて遠路、カナン、今のイスラエル、パレスチナに旅
してきたわけです。ですから、もともと神様を信頼して従った言わば信仰
の夫婦でした。彼らの信仰の生涯は、15,17章も含めて波瀾万丈で、
生涯、神への信頼を学び続けた人生でしたが、既に神様と共に生きる幸い
の中にありました。
そのアブラハムに神様は、子孫を約束します。アブラハムは、親族から
養子を迎えるか、僕が家の後を継ぐものだと考えていました。しかし、神
様は「あなたから生まれる者が跡を継ぐ」と約束されました。しかも、そ
の子孫の数は星の数程になると言うわけです。
この言葉をアブラハムは信じました。「アブラムは主を信じた。主はそ
れを彼の義と認められた」とあります。つまり、信仰によって彼は義と認
められたということです。義と認められるということは、神様と共に、生
きる者とされるという意味があり、神に受け入れられるということを意味
しています。ですから、罪の赦しが与えられて、無罪宣告を受けるという
意味も含んでいます。
既に神様がアブラハムを選んで招いているわけですが、ここで改めてア
ブラハムの信仰を問われました。それは神様の言葉を信ずるか、否かとい
う単純なことです。信仰はそもそもとても単純なことです。アダムは、神
様の言葉ではなくヘビの偽りの言葉を信じて食べてはいけないと言われた
木の実を食べて堕落し、死ぬことになりました。食べても死なないと嘘を
つかれて、嘘を信じてヘビの言うとおり食べた結果、人類は今も罪と悲惨
の中にあります。その罪と悲惨からわたしたちを助けるために神はアブラ
ハムを呼び出し、アブラハムの信仰を問い、彼は神の言葉を信じました。
神の約束を信じたわけです。
信仰は、わたしたちが主体で、わたしたちが神を必要とするか否かを自
分で判断すると考えがちですが、聖書はもともとはそうではなく、神がわ
たしたちを愛して、神を礼拝する存在としてわたしたちを創造し、礼拝を
中心として世界を治めて神の栄光を表す者としてつくり出してくださった
ことを教えています。神の愛の選びと招きが先にあります。
ですから、主語は常に神です。わたしたちではありません。ところが、
ヘビに騙されて堕落したので、わたしたちは自分が神を選択できるという
傲慢な罪人になってしまいました。しかも、その傲慢さが分かりません。
それが罪の罪たる所以です。
しかし、神はアブラハムを天から選ばれ呼び出されたように、わたした
ちを天から選ばれ呼び出しておられます。そこで、わたしたちも神の約束
を聞く者とされました。アブラハムは信じて義とされましたが、その信仰
がこの後、訓練を受けて鍛えられます。その間失敗もありますが、神様は
赦してご自身の約束を全うされます。そしてその約束は、今や主イエスに
よって全うされ、わたしたちは主イエスを信ずる時に、アブラハムの子孫
として神の永遠の契約に入れられます。神の招きを受け止め、神の約束を
信じることで、わたしたちも義とされ、罪の赦しに与ります。祈ります。