2021年08月08日「洗礼の祝福」

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洗礼の祝福

日付
日曜朝の礼拝
説教
小峯明 牧師
聖書
ガラテヤの信徒への手紙 3章26節~27節 出エジプト4:21-23

聖書の言葉

ガラテヤの信徒への手紙 3章26節~27節 出エジプト4:21-23

メッセージ

オリンピックも今日が閉会式となります。新型コロナ・ウイルスの感染

者が日毎に増加していく中での大会でしたし、オリンピックそのものが商

業主義と結びつき、またそれぞれの国の愛国心との関係も否定はできませ

んので様々な意見があると思います。その上で、わたしは開会式を見てい

て、各国の選手団のユニフォームが洗練されていて素敵だなあと思いまし

た。閉会式でもそれぞれの国の選手たちが公式のユニフォームを着て行進

すると思います。日本選手団の表彰式の時のオレンジのジャージも印象的

でした。1.キリストを着る

 今朝共に聞きましたところに「洗礼を受けてキリストに結ばれたあなた

がたは皆、キリストを着ているからです」と記されています。実は、キリ

スト者にもユニフォームがあり、洗礼を受けるとわたしたちにそのユニフ

ォームが与えられます。それはキリストだとパウロは語りました。キリス

トを外套のようにわたしたちは着るというのです。

 何色の衣装なのかはわかりませんが、ヨハネ黙示録6:11には殉教者

の魂の幻が記されており、「その一人一人に、白い衣が与えられ」と書か

れています。そして7:14には「その衣を小羊の血で洗って白くしたの

である」と記されていました。     

 小羊の血は主イエスが十字架上で流された血であり、主イエスの十字架

の犠牲によって救われた者、主イエスを信じて告白して洗礼を受けた者に

与えられる白い衣と語られています。血で洗うと赤くなるわけですが、十

字架の血による救いによって罪から完全に清められた者として白い衣が与

えられるわけです。後の時代に、教会では、復活日の明け方に、洗礼式が

行われ、洗礼を受けた人が、白い衣に着替えて、朝日の差し込む会堂に入

り、礼拝に集い最初の聖餐に与るということがドラマチックに行われまし

た。そのために礼拝堂は東に向かって建てられて上る朝日の光が会堂に差

し込んで通路を照らすように建てられるようになりました。講壇を東向き

にして会堂を建てることをオリエンテーションと言うようになりました。

パウロの時代には洗礼後の着替えが行われていたかどうかは明らかでは

ありません。けれども、わたしたちが洗礼によって新しくされる時に、古

い自分の肉の体を脱ぎ、新しくキリストを着るわけです。

 この着るという言葉は、また役者が役になりきって演じるという意味合

いもあります。それが役に成りきっていないと大根役者になってしまいま

す。その意味でキリストを着ることはキリストに成りきることを意味して

います。役者の場合は、その舞台が終われば、次の役作りのために練習を

重ねていきますが、わたしたちはキリストと共に生涯歩み続け、キリスト

に似ていく者とされていくわけです。

 確かに、キリストと言うユニフォームを着ていたとしても、わたしたち

の目にも、外からも見えないわけです。オレンジのジャージで歩いていれ

ば日本の選手だとわかりますが、わたしたちがキリストを着ているのかど

うかは見た目だけではわかりません。

 けれども、着ていれば、主イエスのように主イエスの役を演ずる役者の

ように愛に生きて行きますから示されていくでしょう。その具体的な愛の

勧めはこの後5章で語られますが、わたしたちが古い体を脱ぎ捨てて、キ

リストを着て生きる時に、キリストを着ていることが示されるわけです。

 その際、パウロは旧約聖書の伝統をも念頭においていただろうと指摘す

る学者もあります。そこで引用されていたのは士師記のギデオンがイスラ

エルの士師、指導者として遣わされる箇所です。士師記6:34「主の霊

がギデオンを覆った」と語られています。今、わたしたちがキリストを着

ることは、キリストの霊がわたしたちを覆い、わたしたちを神の民として

くださることだと言うことです。

 キリストを着ることをパウロは、既に2:20では「生きているのは、

もはやわたしではありません。キリストがわたしの内に生きておられるの

です」と語っていました。洗礼を受けて罪の赦しを示す新しい白い衣を着

ることは、わたしたちの中身もまた清められて、主の霊がわたしたちの内

に生きてくださるということです。そうでなければ、キリストのように生

きることはできないからです。

 それが洗礼において起こることです。ここで、「キリストに結ばれて」

と訳されている言葉は、「キリストの中に」(英語ではinto)と語ら

れています。この前置詞は、方向性を示す意味があり、洗礼を受けることによってキリストの中に入っていく、沈み込んでいくという意味がありま

す。結ばれるということはキリストとの結合ということですが、それはキ

リストの中に入ることでありキリストの一部になるということでしょう。

      

2.洗礼のために

 それでは洗礼を受けるためにはどうしたらよいでしょうか。それはキリ

スト・イエスを救い主と信ずることです。ガラテヤの信徒たちも、後から

来たユダヤ人キリスト者の伝道者たちもキリストを救い主と受け入れてい

ました。そこで問われていることは信仰です。その前の段落までに論争と

なっていた律法の行い、割礼の実施ではありません。そのことをここでパ

ウロは「あなたがたは皆」と二人称複数で語りかけています。その前の2

3-25節の段落では「わたしたちは」とパウロ自身ユダヤ人である「わ

たしたちは」と語っていました。主イエスが来られるまでユダヤ人は律法

を大切にして来ました。そして律法は、罪を教えると共に、罪を抑制し、

ユダヤ人を外国人と区別する壁の役割を担ってきました。律法はキリスト

が来られるまで、ユダヤ人が成人になるまでの養育係としての役割を果し

て来たわけです。

 しかし、主イエスが来られてキリストへの信仰が明らかになりましたの

で養育係の役割は終わり、人々は養育係から卒業することになりました。

そこで卒業認定はどのようになされるかと言いますと、信仰により、キリ

スト・イエスに結ばれることによると言うわけです。これはただイエス・

キリストを信ずる、救い主として信じることによります。律法を実行する

ことによるものではありません。

 こうして主イエスを信じた「あなたがた」の中にはガラテヤの異邦人キ

リスト者もいれば、まだガラテヤで活動しているユダヤ人キリスト者も含

まれているわけです。「あなたがたは皆」、信仰により、キリスト・イエ

スに結ばれて神の子とされているわけです。

 アブラハムも信仰によって義とされました。そして神はそのアブラハム

に割礼を命じました。しかし、キリストが現れた時には、アブラハム同様

信仰によるわけですが、今度は割礼ではなく洗礼が執行されます。

 それにより異邦人も神の子とされます。もともと旧約聖書では、ユダヤ

人が神の子と語られています。出エジプト4:22に記されています。その同じ神の子に今度は、異邦人も招かれるわけです。その鍵はキリストで

す。約束のアブラハムの子孫であるキリストが来られて、キリストへの信

仰によって誰もが、神の子とされるわけです。

     

3.キリストの中に(エン クリストウ)

 ここでキリスト・イエスに結ばれてと訳されている言葉は、もともとの

言葉ではキリストの中にと語られています(英語ではin)。27節は、

同じ結ばれてと訳されていましたが、こちらは英語で言えば、intoで

した。このinという前置詞は、もともとのギリシャ語でも、中に、間、

内に、手段や方法を現す多様な意味があります。そして「中に」という基

本的な意味との関連で、一つの固有な存在領域を表すと辞書に記されてい

ました。

 わたしたちは主イエスを信ずるまでは世という領域の中にいました。場

所としては世界です。その世をパウロは1:4では「この悪の世からわた

したちを救い出そうとして」と語っていました。この世界、それは主イエ

スに敵対する世界です。そこにいた時に、わたしたちは4:3では、「世

を支配する諸霊に奴隷として仕えていました」と語られています。

 しかし、そのことは、わたしたちがキリストの中に移されて始めて分か

ったことです。生まれた時から主イエスと対立している世界で生きていれ

ば、それが日常になり、当たり前になってしまいます。ところが、キリス

トが来られて、信ずるわたしたちをキリストの支配の中に移してください

ました。確かに、inをキリストに結ばれてと訳すことはキリストとの結

合を意識させますから悪い訳ではありませんが、文字通りにはキリストの

中に、とありますので、キリストの支配の中にと理解することも可能だと

思います。

 信仰によって、わたしたちはキリストの支配領域に移されて生きる者と

されました。それはわたしたちの主人が、罪や貪欲ではなく、主イエスに

なられたということです。その信仰を外的に示す儀式が洗礼です。そして

洗礼を受けた者は、キリストの中へとさらに覆われて、キリストを着る者

とされます。洗礼は、わたしたちがキリストの中に生かされ、そのご支配

のもとに置かれキリストを着ていることを保証し、表しているのです。祈

ります。