聖書の言葉 エジプト記20:18-21ガラテヤの信徒への手紙 3章19節~20節 メッセージ 律法という言葉を国語辞典で見ますと、第一の意味は「仏教の戒律と同 じ」と記されていました。戒は自発的に守る規則で、律は罰則のある規定 とのことです。読み方も歴史的仮名遣いでは「りっぽふ」と記されていま した。そして二番目の意味として「神により祭司や預言者を通して与えら れる宗教や倫理生活上の規範、ユダヤ教のトーラーやイスラム教のシャリ ーアなど」と記されていました。ですから、法律ではなく宗教的な規則と して聖書の戒めを日本語で律法と訳したのでしょう。律法は、旧約聖書で は民法、刑法から礼拝儀式の様々な規則、犠牲の規則、また倫理道徳にか かわる規則まで含まれています。日本では国会で法律が定められますが、 旧約聖書は神がユダヤ人に与えたものであり、絶対的な意味を持っていま した。ですから、律法が重んじられていたわけです。しかし、ここではそ の律法と神の契約、約束とが対比されています。 1.律法か約束か。 パウロがこの手紙で強調していることは、人は旧約聖書の律法を実践す ることで神との契約に入れられるのではなく、イエス・キリストを信ずる 信仰だけで神との契約に入れられるということです。神との契約に入れら れることが救いであり、悪の世からの解放です。 それをパウロはアブラハムと神との契約に基づいて語り、アブラハムが 信仰によって義とされたことを引用して証明しました。そのことはユダヤ 人キリスト者の伝道者たちもよく知っていました。しかし、問題はそれだ けでは不十分と考えたことです。なぜなら、アブラハムは契約の後で割礼 を行い、その後神はモーセの時代に細かい律法、規則を与えたからです。 そこでは、食べ物についての規則もありました。それらの律法は、ユダヤ 人と他の民族とを区別する役割も果たしました。 そこでユダヤ人キリスト者は、ガラテヤの異邦人の信徒たちに、周囲の 異邦人たちと同じように生活するのではなく、ユダヤ人が大切にしている 律法を守り、異邦人とは区別した生活をすることが大切だと語ったのでし ょう。もちろん、彼らも近所の異邦人と同じように偶像礼拝を続けること はしませんが、まったく付き合わないというわけにもいきません。断絶し てしまえば、伝道もできませんし、地域では浮いた存在になってしまいま す。 2.律法とは何か それでは律法とは何かということになるわけです。律法は、聖書全体か ら見ますと三つの働きがあります。一つは、わたしたちの社会の秩序を維 持する働きです。十戒の後半は人間関係の戒めです。殺人の禁止、姦淫の 禁止、盗みの禁止、偽証の禁止、貪欲の禁止は、キリスト者でなくても理 解できることでしょう。その意味で律法はキリスト者以外の社会でも通用 する内容を持っています。 第二は、わたしたちに罪を教える働きです。この後24節で「律法はわ たしたちをキリストのもとへと導く養育係となったのです」と語られてい ます。罪を教え、わたしたちをキリストに導く働きです。律法があるから 罪が確になるわけです。国も、想定外の犯罪が起きた場合にはそれを罰す る法律がないと罪に問えません。想定外の犯罪が起きるたびに、それらの 罪に対応する法律が作られてきました。法律がなければ、事件を未然に防 ぐこともできませんし、法がないと違反を問えないわけです。しかし、神 の律法は、行為だけでなくわたしたちの心をも問いますので、わたしたち が心の底から罪人であることを教えます。 第三は、キリスト者の感謝の生活の規範です。これについてパウロはこ の後5:14で「律法全体は、『隣人を自分のように愛しなさい』という 一句によって全うされるからです」と語ります。救われたわたしたちは、 愛の律法を感謝の基準としているわけです。 それではこのところでパウロが語る律法は何を意味しているのでしょう か。ここでパウロは全ての律法の意味を説いているわけではありません。 この文脈の中で、語られている律法の意味です。それは約束の後に、モー セの時代に与えられた律法の意味であり、働きです。それは約束と同じで はなく、約束の後で必要になったので与えられたものでした。 もともとの言葉では、「それは数々の違反が付け加えられるために」と 冒頭に語られています。この数々の違反は、人間の具体的な罪を述べてい ます。しかし、これだけでは意味が分かりにくいので新共同訳聖書は「明 らかにするために」という言葉を補って訳しました。これはローマ4:1 5で「実に、律法は怒りを招くものであり、律法のないところには違犯も ありません」と語られている言葉との関連での理解です。ですから、この 理解は、先程も触れたわたしたちに罪を教えキリストへと導くための養育 係としての律法の意味を示しています。「ために」という言葉を律法の与 えられた目的として理解する理解です。 しかし、この箇所を律法が後から与えられたことの理由と見る理解もあ ります。それは、アブラハムと契約を結びましたが、その後契約の民とし て人数が増えて行く中で、ユダヤ民族の中にも様々な罪の問題が起こり罪 を抑制する必要が出てきました。シナイ山の麓で、モーセが律法を貰いに 山に登っている間に人々は不安になり、金の子牛を作り偶像礼拝を始めま した。このような罪を抑制するために律法は与えられたという理解です。 パウロの時代のユダヤ人たちも律法は社会正義の維持と罪を抑制するた めに与えられたと理解していました。これは当時のギリシャ世界でも同様 の理解であり、わたしたちの社会でも社会秩序の維持のために法律が制定 されています。こちらの理解で言えば、律法は社会的な義を示す意味にな ります。律法には多様な意味と目的がありますのでどちらかに区別するよ りも、両方の意味合いで考えることができると思います。 3.律法の働きの期間 さらに、その律法の有効期間についてパウロは「約束されたあの子孫が 来られるときまで」と語りました。「あの子孫」は15節「この『子孫』 とは、キリストのことです」と語られています。主イエスです。ですから 、シナイ山での契約において与えられた律法は主イエスが来られる時まで 有効ということです。ユダヤ人キリスト者たちがこだわる割礼や食物規定 はもはやキリスト者を拘束することはないということです。 シナイ山で与えられた律法は十戒を代表としていますが、それ以外にも 礼拝の規則、動物の犠牲の規則など様々な儀式にかかわる律法がありまし た。それらは主イエスによってすべて成就されましたので、キリスト者は 拘束されません。ですから、わたしたちは教会で羊を犠牲にしたり、牛を 犠牲にしたりはしないわけです。そして主イエスは過越しの祝いを主の 晩餐とし、割礼を洗礼に切り替えました。 さらに、改めて主イエスがわたしたちに与えた律法が、十戒に記されて いる道徳律法と呼ばれる規則です。これを主イエスは神への愛と隣人への 愛として要約されました。ですから、ここでパウロはそのことに触れませ んが、わたしたちがキリスト者として生きていく時に、愛の戒めを感謝の 基準として重んじ、従います。ただし、愛の戒めを守るから救われるとい うことではありません。 4.律法の価値 さらにパウロは、律法は神に由来するものですが、アブラハムに対して は神が直接語りアブラハムの信仰を義とされたと語ります。約束は神とア ブラハムとの間で結ばれました。しかし、律法が与えられた時は、モーセ が仲介者として間に入り、神はモーセを通して民に律法を与えています。 ここにも約束と律法との扱いの違いがあるとパウロは語ります。旧約聖書 の出エジプト記20:18-21を共に聞きましたが、律法付与の時に、 人々は神と直接交わることを恐れてモーセに代理を頼みました。しかし、 出エジプト記にも、申命記にも、モーセのほかに天使たちがいたことは記 されていません。けれども、当時のユダヤ人たちはその際、天使たちも律 法を与えるときに奉仕をしたと理解していました。使徒言行録7:38に は「この人が荒れ野の集会において、シナイ山で彼に語りかけた天使とわ たしたちの先祖との間に立って、命の言葉を受け、わたしたちに伝えてく れたのです」と語られています。 その理解がここでのパウロの言葉の背後にあるわけです。それが20節 で語り直されて、律法の場合には仲介者と天使によって与えられたが約束 の場合は神ひとりで行われたので、約束が律法よりも重要であり、律法に 拘泥することは約束を損なうことになるとパウロは語っているわけです。 約束はただ神からの愛の働きかけによるものです。わたしたちは、約束 への招きを主イエスを信ずる信仰によって受け止めるだけで十分であると いうことです。そして神の民とされたわたしたちは、主イエスの教えに聞 き従い、神を愛して隣人を自分のように愛して生きるわけです。 神の約束、契約は神の愛に基づいています。神はわたしたちを愛して救 うために一人ですべてのことをなし遂げてくださり、主イエスを遣わし、 聖霊を遣わしてわたしたちに信仰を与えてくださったのです。祈ります。
律法という言葉を国語辞典で見ますと、第一の意味は「仏教の戒律と同
じ」と記されていました。戒は自発的に守る規則で、律は罰則のある規定
とのことです。読み方も歴史的仮名遣いでは「りっぽふ」と記されていま
した。そして二番目の意味として「神により祭司や預言者を通して与えら
れる宗教や倫理生活上の規範、ユダヤ教のトーラーやイスラム教のシャリ
ーアなど」と記されていました。ですから、法律ではなく宗教的な規則と
して聖書の戒めを日本語で律法と訳したのでしょう。律法は、旧約聖書で
は民法、刑法から礼拝儀式の様々な規則、犠牲の規則、また倫理道徳にか
かわる規則まで含まれています。日本では国会で法律が定められますが、
旧約聖書は神がユダヤ人に与えたものであり、絶対的な意味を持っていま
した。ですから、律法が重んじられていたわけです。しかし、ここではそ
の律法と神の契約、約束とが対比されています。
1.律法か約束か。
パウロがこの手紙で強調していることは、人は旧約聖書の律法を実践す
ることで神との契約に入れられるのではなく、イエス・キリストを信ずる
信仰だけで神との契約に入れられるということです。神との契約に入れら
れることが救いであり、悪の世からの解放です。
それをパウロはアブラハムと神との契約に基づいて語り、アブラハムが
信仰によって義とされたことを引用して証明しました。そのことはユダヤ
人キリスト者の伝道者たちもよく知っていました。しかし、問題はそれだ
けでは不十分と考えたことです。なぜなら、アブラハムは契約の後で割礼
を行い、その後神はモーセの時代に細かい律法、規則を与えたからです。
そこでは、食べ物についての規則もありました。それらの律法は、ユダヤ
人と他の民族とを区別する役割も果たしました。
そこでユダヤ人キリスト者は、ガラテヤの異邦人の信徒たちに、周囲の
異邦人たちと同じように生活するのではなく、ユダヤ人が大切にしている
律法を守り、異邦人とは区別した生活をすることが大切だと語ったのでし
ょう。もちろん、彼らも近所の異邦人と同じように偶像礼拝を続けること
はしませんが、まったく付き合わないというわけにもいきません。断絶し
てしまえば、伝道もできませんし、地域では浮いた存在になってしまいま
す。
2.律法とは何か
それでは律法とは何かということになるわけです。律法は、聖書全体か
ら見ますと三つの働きがあります。一つは、わたしたちの社会の秩序を維
持する働きです。十戒の後半は人間関係の戒めです。殺人の禁止、姦淫の
禁止、盗みの禁止、偽証の禁止、貪欲の禁止は、キリスト者でなくても理
解できることでしょう。その意味で律法はキリスト者以外の社会でも通用
する内容を持っています。
第二は、わたしたちに罪を教える働きです。この後24節で「律法はわ
たしたちをキリストのもとへと導く養育係となったのです」と語られてい
ます。罪を教え、わたしたちをキリストに導く働きです。律法があるから
罪が確になるわけです。国も、想定外の犯罪が起きた場合にはそれを罰す
る法律がないと罪に問えません。想定外の犯罪が起きるたびに、それらの
罪に対応する法律が作られてきました。法律がなければ、事件を未然に防
ぐこともできませんし、法がないと違反を問えないわけです。しかし、神
の律法は、行為だけでなくわたしたちの心をも問いますので、わたしたち
が心の底から罪人であることを教えます。
第三は、キリスト者の感謝の生活の規範です。これについてパウロはこ
の後5:14で「律法全体は、『隣人を自分のように愛しなさい』という
一句によって全うされるからです」と語ります。救われたわたしたちは、
愛の律法を感謝の基準としているわけです。
それではこのところでパウロが語る律法は何を意味しているのでしょう
か。ここでパウロは全ての律法の意味を説いているわけではありません。
この文脈の中で、語られている律法の意味です。それは約束の後に、モー
セの時代に与えられた律法の意味であり、働きです。それは約束と同じで
はなく、約束の後で必要になったので与えられたものでした。
もともとの言葉では、「それは数々の違反が付け加えられるために」と
冒頭に語られています。この数々の違反は、人間の具体的な罪を述べてい
ます。しかし、これだけでは意味が分かりにくいので新共同訳聖書は「明
らかにするために」という言葉を補って訳しました。これはローマ4:1
5で「実に、律法は怒りを招くものであり、律法のないところには違犯も
ありません」と語られている言葉との関連での理解です。ですから、この
理解は、先程も触れたわたしたちに罪を教えキリストへと導くための養育
係としての律法の意味を示しています。「ために」という言葉を律法の与
えられた目的として理解する理解です。
しかし、この箇所を律法が後から与えられたことの理由と見る理解もあ
ります。それは、アブラハムと契約を結びましたが、その後契約の民とし
て人数が増えて行く中で、ユダヤ民族の中にも様々な罪の問題が起こり罪
を抑制する必要が出てきました。シナイ山の麓で、モーセが律法を貰いに
山に登っている間に人々は不安になり、金の子牛を作り偶像礼拝を始めま
した。このような罪を抑制するために律法は与えられたという理解です。
パウロの時代のユダヤ人たちも律法は社会正義の維持と罪を抑制するた
めに与えられたと理解していました。これは当時のギリシャ世界でも同様
の理解であり、わたしたちの社会でも社会秩序の維持のために法律が制定
されています。こちらの理解で言えば、律法は社会的な義を示す意味にな
ります。律法には多様な意味と目的がありますのでどちらかに区別するよ
りも、両方の意味合いで考えることができると思います。
3.律法の働きの期間
さらに、その律法の有効期間についてパウロは「約束されたあの子孫が
来られるときまで」と語りました。「あの子孫」は15節「この『子孫』
とは、キリストのことです」と語られています。主イエスです。ですから
、シナイ山での契約において与えられた律法は主イエスが来られる時まで
有効ということです。ユダヤ人キリスト者たちがこだわる割礼や食物規定
はもはやキリスト者を拘束することはないということです。
シナイ山で与えられた律法は十戒を代表としていますが、それ以外にも
礼拝の規則、動物の犠牲の規則など様々な儀式にかかわる律法がありまし
た。それらは主イエスによってすべて成就されましたので、キリスト者は
拘束されません。ですから、わたしたちは教会で羊を犠牲にしたり、牛を
犠牲にしたりはしないわけです。そして主イエスは過越しの祝いを主の
晩餐とし、割礼を洗礼に切り替えました。
さらに、改めて主イエスがわたしたちに与えた律法が、十戒に記されて
いる道徳律法と呼ばれる規則です。これを主イエスは神への愛と隣人への
愛として要約されました。ですから、ここでパウロはそのことに触れませ
んが、わたしたちがキリスト者として生きていく時に、愛の戒めを感謝の
基準として重んじ、従います。ただし、愛の戒めを守るから救われるとい
うことではありません。
4.律法の価値
さらにパウロは、律法は神に由来するものですが、アブラハムに対して
は神が直接語りアブラハムの信仰を義とされたと語ります。約束は神とア
ブラハムとの間で結ばれました。しかし、律法が与えられた時は、モーセ
が仲介者として間に入り、神はモーセを通して民に律法を与えています。
ここにも約束と律法との扱いの違いがあるとパウロは語ります。旧約聖書
の出エジプト記20:18-21を共に聞きましたが、律法付与の時に、
人々は神と直接交わることを恐れてモーセに代理を頼みました。しかし、
出エジプト記にも、申命記にも、モーセのほかに天使たちがいたことは記
されていません。けれども、当時のユダヤ人たちはその際、天使たちも律
法を与えるときに奉仕をしたと理解していました。使徒言行録7:38に
は「この人が荒れ野の集会において、シナイ山で彼に語りかけた天使とわ
たしたちの先祖との間に立って、命の言葉を受け、わたしたちに伝えてく
れたのです」と語られています。
その理解がここでのパウロの言葉の背後にあるわけです。それが20節
で語り直されて、律法の場合には仲介者と天使によって与えられたが約束
の場合は神ひとりで行われたので、約束が律法よりも重要であり、律法に
拘泥することは約束を損なうことになるとパウロは語っているわけです。
約束はただ神からの愛の働きかけによるものです。わたしたちは、約束
への招きを主イエスを信ずる信仰によって受け止めるだけで十分であると
いうことです。そして神の民とされたわたしたちは、主イエスの教えに聞
き従い、神を愛して隣人を自分のように愛して生きるわけです。
神の約束、契約は神の愛に基づいています。神はわたしたちを愛して救
うために一人ですべてのことをなし遂げてくださり、主イエスを遣わし、
聖霊を遣わしてわたしたちに信仰を与えてくださったのです。祈ります。