2019年07月14日 朝の礼拝説教「海を従わせるおかた」

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海を従わせるおかた

日付
説教
細田眞 牧師
聖書
ルカによる福音書 8章22節~25節

聖書の言葉

22ある日のこと、イエスが弟子たちと一緒に舟に乗り、「湖の向こう岸に渡ろう」と言われたので、船出した。23渡って行くうちに、イエスは眠ってしまわれた。突風が湖に吹き降ろして来て、彼らは水をかぶり、危なくなった。24弟子たちは近寄ってイエスを起し、「先生、先生、おぼれそうです」と言った。イエスが起き上がって、風と荒波とをお叱りになると、静まって凪になった。25イエスは、「あなたがたの信仰はどこにあるのか」と言われた。弟子たちは恐れ驚いて、「いったい、この方はどなたなのだろう。命じれば風も波も従うではないか」と互いに言った。ルカによる福音書 8章22節~25節

メッセージ

教会はその初めの頃から、自らを舟にたとえてきました。向こう岸であります神の国に向けて、歴史という海を航海する舟に自らを見立ててきたのです。その舟の乗組員は私たち教会員であるわけですが、見落としてはならないのは、この舟の中には主イエス・キリストがいらっしゃるということです。こうした教会を舟に見立てる考え方の一つの拠所となったのが、先程聞いていただきましたルカによる福音書の8章の22節から25節です。

実は、教会を舟に見立てる考えは、現代の教会にも受け継がれています。世界教会協議会という団体があります。プロテスタントの緒教派、さらに東方正教会も加わっています世界規模の超党派の団体です。通常は英語名の頭文字を取って、WCCと呼ばれています。実はこのWCCのシンボルマークが舟なのです。風に帆をはらませた小さな舟がWCCのマークには描かれています。古い時代の教会に描かれた舟の絵と現在のWCCのマークに描かれた舟を見ていて気の付くことがあります。それはいずれも小さな舟が描かれているということです。

主イエスの時代にも、大きな船はありました。船の両側から何十本も延びる艪を大勢の人が漕ぐ大きな船がありました。甲板には海を駆け抜ける風を一杯に受け止めるために、大きな帆が張られていました。しかし教会はこうした大きな船ではなく、ガリラヤ湖に浮かぶ小さな舟に自らをなぞってきたのです。大海原を走る船であろうと、湖に浮かべた小さな舟であろうと、風や大波といった自然の驚異は襲いかかってきます。とりわけ大きな嵐の前では、小さい舟などはひとたまりもないように見えたはずです。しかし、教会は、歴史を通じて自らを小さな舟に見立ててきました。それはこの小さな舟の中に、主イエス・キリストが乗り込んでおられるという信仰を持っていたからです。教会は、初めの頃から主イエスが、小さい舟である自分たちの教会に乗り組んでくださるという信仰を持っていました。そして、この御方が教会に襲いかかってくる様々な歴史の嵐と戦ってくださるという信仰を保ってきたのです。

主イエスと弟子たちはガリラヤ地方の町々を巡って、神の国の伝道をしました。ある日のこと、弟子たちと一緒に舟に乗り組まれた主イエスは、「湖の向こう岸に渡ろう」と言われました。この湖というのはガリラヤ湖のことです。ガリラヤ湖はガリラヤ地方の東の端に位置する湖です。この湖を挟んで、東の対岸には、デカポリスという地方が広がっていました。このデカポリス地方というのはゲラサ人という人々が住む、言わば、異邦人の土地でした。主イエスは新しい宣教の地を求めて、「湖の向こう岸に渡ろう」と呼びかけられたのです。

主イエスの一行が舟で漕ぎ出したガリラヤ湖は地中海の水面から約200メートル低い所にあると言われています。低い所に位置しますこの湖は周りを大地に囲まれています。そして、その大地の背後には幾つもの大きな山が聳えているのです。湖を囲む大地には何本もの川が流れています。これらの川が大地を削って、谷を造り、その谷が山から吹き降ろしてくる風の通り道となっているのです。

23節の中程の「突風が吹き降ろして来て」というのは、山おろしの風が谷を通って湖に吹き付けたことを表わしています。普段は漁業も営まれて、のどかな表情を見せるガリラヤ湖です。しかし一旦山からの風が谷を通って湖の表面に吹き付ければ、次々と大波が起こります。そうなりますと、湖のあちらこちらで、波と波がぶつかり、波が逆巻く様子が見受けられることになります。湖全体が激しく揺さぶられる様相を示すことになります。おそらく主イエスの一行が乗り組んだ舟は波間に浮かんだ木の葉のようだったと思われます。吹き付ける風と打ち寄せる波によって、舟は上へ下へと激しく揺さぶられました。そればかりでありません。打ち付ける波によって、舟の上の弟子たちはずぶ濡れになってしまったのです。

今回の説教を準備するために、何種類かの翻訳の聖書を読みました。その中には英語訳の聖書も含まれていました。英語訳の聖書の幾つかは、主イエスが弟子たちと一緒に乗り込まれた舟のことを boatと訳しています。私たちがよく知っているship ではなく、boat と訳しているのです。

私が小学生の頃に、住んでいた町に別所沼公園という公園がありました。町の中心から少し離れた住宅街の中に別所沼公園はありました。別所沼という名前からも分かりますように、このあたり以前は沼が広がっていました。この沼の名残が公園の中にあった池でした。この池にはボートが備え付けられていました。大人が二人・三人乗れば、一杯になってしまうような小さいボートが何艘も浮かべられていました。短い桟橋から、ボートに足を降ろした瞬間に、気の付くことは揺れるということでありました。地面から揺れてボートに足を移しますと、舟底の板の下には水が広がっていることを感じました。池でありますから、足を伸ばせば、池の中に立つこともできたでしょう。しかし、この舟の下に、もし湖や海が広がっていたならばと考えると、急に怖くなったことを覚えています。

繰り返しになりますが、教会は小さい舟であり、教会は神の国に向けて、歴史の大海原を旅しているのです。大海原で嵐に遭おうものならば、舟も乗組員も、砕け散って、海の藻屑となってしまうかもしれません。しかし教会は「こうした不安定極まりない航海に、主イエスが同行してくださる」と信じたのです。小さい舟である自分たちの教会に主イエスが乗り組んでいてくださる。このことを信じたのであります。

湖に浮かびました主イエスの一行が乗り組んだ舟は風と荒波に晒されました。恐怖に駆られた弟子たちは主イエスに近寄り、彼を起こして、こう言いました。先生、先生、おぼれそうです。弟子たちの呼びかけに、主イエスは眠りから覚めて、立ち上がれます。そして、風と荒波とをお叱りになると、たちまちにしてそれらは静まり、湖は凪になったのです。凪というのは、風と波が止んで、湖が静かになった状態を指します。主イエスが発せられた一言が、弟子たちに襲いかかろうとしていた風と波の自然の恐怖から弟子たちを守ったのです。

ある人は、「この箇所は旧約聖書の出エジプト記の14章が伝えます葦の海の奇跡を思い起こさせる。」と言います。エジプトを脱出したイスラエルの人々をエジプト軍が追いかけて、葦の海の手前で追い着いた時のことです。エジプト人は今にも、イスラエルの人々の背後から襲いかかろうとしていました。人々の前には海が横たわっていて、逃げようがないように見えました。こうした危機の中で、主はモーセに向かって、「杖を高く上げ、手を海に向かって差し伸べて、海を二つに分けなさい」(16節)こう言われたのです。「そうすれば、イスラエルの民は海の中の乾いた所を通ることができる」(16節)こう告げられたのです。

モーセは言われたとおりに、手を海に向かって差し伸ばしました。すると、主はよもすがら激しい東風をもって海を押し返されました。海は乾いた地に変わり、水は分れたのでした(21節)。イスラエルの人々は海の中の乾いた所を進んで行き、エジプトの軍隊から逃れることができたのです。出エジプト記はこの時のことを、水は彼らの右と左に壁のようになった(29節)と伝えています。

この出来事はひとえに神の御業です。イスラエルを救うために、主なる神が行われた奇跡でした。モーセは言われるままに、杖を高く上げただけです。イスラエルの人々は何もしていません。突風と荒波に翻弄される舟に乗り込んだ弟子たちをお救いになったのは、主イエス・キリストでありました。主イエスは激しく揺さぶられる舟の中にお立ちになって、風と荒波をお叱りになりました。そして、それらを静めてしまわれました。弟子たちは舟の中で怯えているばかりでした。主イエスが弟子たちに襲いかかろうとしていた自然の脅威と戦ってくださいました。そして彼らを危機の中から救い出してくださったのです。

実は、このルカによる福音書は、今回お読みしています8章の22節から新しい内容が始まると言われています。ここで、繰り返し問われるのは、「イエスとはどなたであるか」ということです。弟子たちは主イエスが風と荒波とを静められるのを目の当たりにして、「いったい、この方はどなたなのだろう。命じれば風も波も従うではないか」と互いに言い合いました。25節です。

湖の向こう側のゲラサ人の土地に上陸された主イエスは悪霊に憑かれていた男から悪霊を追い出してしまわれました。その際に男は、「いと高き神の子、かまわないでくれ。頼むから苦しめないでほしい」と大声で言ったことが伝えられています。28節です。さらに主イエスは亡くなっていたヤイロの娘に「娘よ、起きなさい」と声をかけられます。すると、娘は息を吹き返したというのです。55節から伝えています。

主イエスがこうしたいやし・奇跡をなさるたびに、周囲の人々は恐れ、驚きました。まだ弟子たちは「いったい、この方はどなたなのだろう」という思いを強くしました。主イエスはこうした数々の御業を通して、御自分が人間を超えた御方、つまり、神の御子であることを証しされたのです。そして、それらの証しはやがて弟子たちの信仰の告白という実を結びます。9章の20節に、主イエスがペトロに「それでは、あなたがたはわたしを何者だと言うのか。」と尋ねられたことが記されています。この時、ペトロは、「神からのメシアです。」とお答えしています。

御存知のとおり、メシアというのは救い主のことです。この時、ペトロは主イエスが神であることを認めて、こう告白したのであります。そして、その告白――メシアであるイエス、つまる神なるイエス――が自分たちの中におられるという弟子たちの信仰、ひいては教会の信仰につながっていくのです。

先程まで、風と荒波によって主イエスの一行が乗っていた舟をあれほど翻弄していた湖が、あれよあれよと言う間に静まってしまいます。主イエスと弟子たちの前には、凪になった湖が姿を見せていました。主イエスは、湖の様子に釘付けになっていたであろう弟子たちにこう言われます。あなたがたの信仰はどこにあるのか。主イエスにお従いして、まだそれ程時の経っていない弟子たちに、この問はいささか厳し過ぎるようにも思います。

注意しなくてはならないのは、この時、主イエスは弟子たちに「あなたがたには信仰がない」というふうに断罪されているというのではないということです。主イエスは舟に乗り込まれ、舟が湖を渡って行く内に、眠ってしまわれました。それにつれて、弟子たちの信仰もいつしかまどろんでしまいました。そして風と荒波が襲ってくる中で、弟子たちは驚き、慌ててしまったのです。主イエスはこのことを弟子たちに指摘されたのです。

もし弟子たちが風と荒波によって揺れ動く舟の上で信仰を保っていたら、どのように振る舞っていたでしょうか。おそらく弟子たちは舟の中でそれぞれの持ち場を守り続けたことでしょう。ある者は舟の舵を握って、何とか向こう岸に向かうように、懸命に舟を操ったはずです。またある者は舟を目に進めるために、力一杯艪を漕いだはずです。風と荒波が行く手から押し寄せてきて舟は進みあぐねたかもしれません。しかし弟子たちは舟の中に主イエスがおられることに望みをつないで、ひたすらに艪を漕いだはずです。

今から約半世紀前、50年ぐらい前のことであります。当時の東ヨーロッパの社会主義の国の中にチェコスロバキアという国がありました。社会主義の体制の中で、チェコスロバキアの教会にも多くの圧迫が加えられました。この時、教会は厳しい信仰の戦いを強いられました。この頃のチェコスロバキアの教会を訪ねた人が「こんなに暗い教会は他にないほどであった」と、この時のことを伝えています。

この訪問者はある牧師夫人と出会って、「こんな所であなたはよく耐えておられますね。」こういう質問をしたそうであります。随分と不躾(ぶしつけ)な質問であります。これを聞いた婦人は、しばらく返事をためらった後に、こう答えてくれたそうです。「私たち夫婦も、子供たちも、『ここにいることを神が欲しておられる』と信じています。だから、私たちはここに留まるのです。私たちの意志ではありません。神が欲しておられる以上、必ず何とかなると信じています」。傍目(はため)には暗く、困難に満ちた状況であっても、神が欲しておられるので自分たちはここにいると言うのです。神の御意志であるという以上、神が何とかしてくださると言うのです。

こうした類いの信仰の証しは何も海外まで行かなくても、私たちの身近な所でも、見出すことができるのではないでしょうか。神の御旨に従って、自分に与えられた立場に留まり、黙々と仕える人が私たちの周りにもいます。どれほどの困難に囲まれても、いずれ神がなんとかしてくださると信じる人々です。それは決して諦めではありません。神への信仰に支えられて黙々と自分の務めにいそしむ人々であります。

繰り返してお話ししてきましたけれども、教会は今も神の国に向けて、歴史の大海原を進み続ける舟であります。ただそれは小さな舟です。歴史の大波が打ち寄せてくるならば、たちまち飲み込まれてしまいそうな小さな舟です。事実、教会という舟には、その歴史を通じて、迫害、教会の分裂、十字軍、宗教改革、そして、二度の世界戦争など歴史の大波が次々と打ち寄せてきました。そのために教会は激しく翻弄されました。すんでの所で、歴史の大波に飲み込まれてしまうかのように見えたこともありました。

しかし、ある人が言うように、「舟は揺れる。しかし、沈まない」のであります。教会という舟は揺れます。しかし、沈まないのであります。それはこの舟に主イエス・キリストが乗り組んでいてくださるからであります。そして、この御方が湖の上で、舟に降りかかってくる風と荒波を静めてしまわれたように、教会に降りかかる危機と戦ってくださるからであります。この御方に信仰を寄せて、各々に与えられた務めに励みたいと思います。

お祈りいたします。         (28分27秒)

主イエス・キリストの父なる神様、

私たちに御言葉をお与えください。

私たちの教会は歴史の波間を進む舟であります。

様々な歴史の大波が打ち寄せるごとに

私たちは、恐れ、また、おののいてしまいます。

時に、望みを見失ってしまうことさえ、あります。

どうぞ、その私たちが、この教会という舟に

主イエス・キリストが乗り組んでおられることに

思いを向けることができるようにさせてください。

どうぞ、この御方と歴史の大海を旅する安らかさを

私たちが失うことがないようにさせてください。

イエス・キリストの御名によって祈ります。

アーメン。(29分41秒)

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