死人を起こすイエス
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- 説教
- 細田眞 牧師
- 聖書 ルカによる福音書 7章11節~17節
11それから間もなく、イエスはナインという町に行かれた。弟子たちや大勢の群衆も一緒であった。12イエスが町の問に近づかれると、ちょうど、ある母親の一人息子が死んで、棺が担ぎ出されるところだった。13主はこの母親を見て、憐れに思い、「もう泣かなくともよい」と言われた。14そして、近づいて棺に手を触れられると、担いでいる人たちは立ち止まった。イエスは、「若者よ、あなたに言う。起きなさい」と言われた。15すると、死人は起き上がってものを言い始めた。イエスは息子その母親にお返しになった。16人々は皆恐れを抱き、神を賛美して、「大預言が我々の間に現われた」と言い、また、「神はその民を心にかけてくださった」と言った。17イエスについてのこの話は、ユダヤ全土と周りの地方一帯に広まった。ルカによる福音書 7章11節~17節
福島教会の日曜礼拝は10時30分から始まります。この礼拝は誰でも参加できます。クリスチャンでなくとも構いません。不安な方は一度教会にお問い合わせください。
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私たち牧師は、神学校で準備教育を受けます。神学校では、説教を学ぶための授業もあります。私は東京神学大学で準備教育を受けました。東京神学大学では、新入生のために説教学序論という講義が開かれていました。この説教学序論で最初に取り上げられたのが聖書朗読でした。礼拝でふさわしい聖書の読み方について、説教学の先生がお話しくださいました。それを巡って出席していた神学生たちもそれぞれに思う所を語り合いました。そして講義の最後に、私たち神学生にある課題が出されました。それは来週までに指定された聖書の箇所について自分なりに朗読の仕方を考えてきなさいという課題でした。その箇所にふさわしい音の強弱、声の抑揚を考えて朗読をしなさいという宿題でした。実は、その時に、指定された聖書の箇所が、先程聞いていただきましたルカによる福音書の7章の11節から17節だったのです。
一週間後の授業では、先生に指名された何人かの神学生が自分の聖書朗読を披露しました。ある神学生は、この箇所の1節1節に思いを込めて朗読をしていました。別の神学生は13節の「もう泣かなくともよい」という主イエスのみ言葉を特別な情感を込めて読み上げていました。私もこの課題に取り組む中で、この箇所を何度も読み返しました。何度も読み直すうちに気がついたのは、この7章の11節から17節が実に簡潔な表現をしているということでした。主イエスのナインの町への訪問、一人の若者の葬りとの出会い、そして、その若者を生き返らせたことが淡々と伝えられています。しかし簡潔であっても、決して無味乾燥だというわけではないようです。この箇所には、先程も触れましたように、読む者にある情感を呼び起こす「もう泣かなくともよい」という御言葉が記されています。また、主イエスのほとばしり出るような思いを伝える御言葉も記されているのです。
このルカによる福音書の7章の11節から17節は、主イエスのガリラヤ伝道の一コマを伝えています。主イエスの一行はナインの町にやって来られました。11節を読んでみますと、この時の主イエスには弟子たちや大勢の群衆が付き従っていたことが分かります。主イエスはガリラヤの町々を巡るにつれて、その教えと御業にひかれて、多くの人々が付き従うようになっていました。主イエスの一行はガリラヤ地方の最も南に位置しますナインの町にやって来ました。このナインからもう少し南に進みますと、サマリア地方に足を踏み入れることになります。
主イエスの一行がナインの町に近づかれた時の様子が12節に記されています。イエスが町の問に近づかれると、ちょうど、ある母親の一人息子が死んで、棺が担ぎ出されるところだった。その母親はやもめであって、町の人が大勢そばに付き添っていた。主イエスがナインの町の問に近づいて行かれますと、門の内側から棺を担いで葬りに向かう人々が出て来たところでした。12節は、簡潔な伝え方をしておりますが、読む者に母親が頼みにしていた一人息子を失ったことを切々と訴える響きをもっています。この母親にとって一人息子は彼女の生活を支え、彼女を庇護し、守ってくれる唯一の身内でした。この一人息子を失ったことは、彼女にとって生きる希望を失ったことに等しいことでした。
遺体を埋葬する場所は、人々の生活の場である町の中にはなく、町の外側に設けられていました。ですから、棺を担いだ人々は町の門から出て来たのです。死は人々の日常生活の視野から遠ざけられて、町の外に追いやられていました。ちなみにここで棺というふうに言われておりますのは、私たちが想像します箱の形をした棺(ひつぎ)ではなく、担架のようなものであったと思われます。町の外の葬りの場に向かう一つの流れが動き出そうとしていました。この時主イエスは一人息子を葬りに出す母親に目を留められました。おそらく主イエスは悲嘆に暮れる彼女の心境をも察せられたのでしょう。13節に、「主はこの母親を見て、憐れに思い、『もう泣かなくともよい』と言われた。」と記されています。
私たちが読んでおります新共同訳聖書は、この時の主イエスのご様子を「主はこの母親を見て、憐れに思い」と、いささかあっさりと伝えています。そのため私たちは、この「憐れに思い」をすんなりと読み過ごしてしまうことがあります。実はこの「憐れに思い」と訳されています元の言葉は、内蔵を表わす言葉からきています。ですからこの「憐れに思い」となっているところは、「内蔵が揺さぶられる」こういうふうにも訳することができるのです。他の日本語訳聖書では、この13節の前半を「すると主は彼女を見て、彼女に対して腸(はらわた)がちぎれる思いに駆られる」というふうに訳しているのです。内蔵が揺さぶられると言い、あるいは、腸がちぎれる思いに駆られる言い。そこには随分と激しい事態が起こっていることがうかがわれます。
当時のユダヤ人は、人間の感情というものは人間の内臓がつかさどっていると考えていました。ユダヤ人たちは、内蔵が揺さぶられ、時には激しく突き動かされることによって、悲しみや怒りの感情が表面化すると考えていたようです。この時の主イエスのように、腸がちぎれる思いに駆られるというふうになるならば、内蔵の奥底から突き上げてくるような激情に突き動かされ、ということになるのではないでしょうか。
実はここに聖書の伝える神のご性質があります。一人息子を失った母親の悲しみ・嘆きを主は受けとめられました。彼女の悲しみ・嘆きが主イエスの臓腑・内蔵を激しく揺さぶられました。この時主イエスは、彼女の思いを、内蔵が揺さぶられるような痛みを持って、受けとめられたのです。
これと同じ頃にギリシア人が信仰していた神は、「これとは全く異なる神であった。」と言われています。ギリシア人たちが信じていた神はこうした人間の感情を超越した神だったようであります。ギリシア人たちは、「人間の感情に動かされる神などは神に価しない。」と考えていたようです。この世からも、この世に生きる人々の感情からも超然とした神というものをギリシア人たちは思い描いていたようです。それに対して聖書は、人間の抱える苦悩を自らの臓腑が揺さぶられるような痛みを持って受けとめられる神を伝えているのです。
この憐れむという言葉の意味を国語辞典で調べてみますと、「かわいそうに思う」でありますとか、「不憫に思う」というふうに記されています。「憐れむということは相手をかわいそうに思う、あるいは、ある対象を不憫に思うことだ。」というふうに解説しているのです。
私はこうした言葉遣いの中に、どこか相手を上から眺める視点があることに気がつきます。あるいは、自分を安全な所に置いて、対象を眺めているとニュアンスがあることを感じます。ある人が私たちの抱く憐れみというものは、どこか限界づけられたものであるということを語っていたことを思い起こします。
このルカによる福音書の中で、憐れむという言葉が使われている箇所を調べてみますと、15章の11節からの放蕩息子のたとえが浮かび上がってきます。父親の財産を分けてもらった下の息子は遠い国に出かけて行きます。彼はそこで放蕩の限りを尽して、財産を無駄遣いしてしまいます。その後の彼はさまざまな苦労を重ねたあげくに、父の家に帰ることを決意します。
家に帰り着こうとする息子を迎える父親の姿が20節の途中から伝えられています。ところが、まだ遠く離れていたのに、父親は息子を見つけて、憐れに思い、走り寄って首を抱き、接吻した。ここに「父親は息子を見つけて、憐れに思い」と記されています。おそらく父親は内蔵が激しく揺さぶられるような感情の高まりを経験したのではないでしょうか。息子を憐れに思った父親は、父親としての威厳や体面をかなぐり捨てるようにして、息子に走り寄りました。そして、息子の首を抱き、彼に接吻をしたのでした。
今日このたとえを解釈する時、この父親のことをイエス・キリストと取る理解が大方の見方であります。主イエスは、憐れみをおかけになる相手に、ご自分の方から近づいて行かれるのです。
ナインの町の門に近づいて行かれる主イエスの前を、遺体を乗せた棺を担ぐ人たちと彼らに付き従う人々の行列が通りかかります。棺に載せられた遺体、その傍らで悲嘆に暮れる母親、そして打ちひしがれた人々の姿がそこにはありました。その人々の列は町の外の葬りの場に向かって進んで行こうとしていました。それはまさに死が支配する所でありました。
しかしそのただ中に主イエスはおい出になったのです。主イエスが一行に近付いて、棺に手をお触れになると、担いでいた人たちがそこに立ち止まりました。さらに主イエスが「若者よ、あなたに言う。起きなさい。」と御言葉をかけられると、棺に横たわっていた若者は立ち上がったのです。そして彼はものを言い始めたのです。この時、主イエスは死が支配する現実の中にお立ちになりました。そして遺体を載せて葬りに向かう列をお止めになりました。さらに、亡くなっていた若者に御言葉をおかけになって、彼を生き返らせられたのであります。
このルカによる福音書の7章の11節から17節が説教される時に、併せて読まれる旧約聖書の箇所の一つに、列王記の上の17章の17節から24節があります。ここには預言者エリヤがサレプタのやもめの息子を生き返らせたことが伝えられています。重病だったやもめの息子が息を引き取りました。エリヤは母親のふところから息子を受け取り、自分の部屋の寝台に寝かせます。さらに彼は子供の上に三度自分の身を重ねて「主よ、わが神よ、この子の命を元に返してください」と祈りを献げたのです。
主なる神はこのエリヤの祈りに耳を傾けられました。17章の22節は、この時の様子をこんなふうに伝えています。主はエリヤの声に耳を傾け、その子の命を元にお返しになった。エリヤは祈りを尽し、その祈りによって、主なる神の憐れみを引き出しました。そして子供の命を救い、母親に返したのでした。
もうお分りのように、この列王記上の17章17節からの箇所と、今回私たちが読み進んでまいりましたルカによる福音書の7章の11節からの箇所は似通っている点がいくつかあります。両方の箇所とも、やもめの息子の死を伝えています。そして、その死に接した神の人、列王記ではエリヤであり、ルカによる福音書では主イエスでありますけれども、神の人によって失われた命が取り戻されたことが伝えられている点です。
しかしこの二つの箇所で決定的に異なるのは、エリヤが命の主である神に祈り願っているのに対して、主イエスは自らが命の主であることを明らかにされている点であります。主イエスは悲しむ母親に「もう泣かなくともよい」と声をかけられます。そして、棺に横たわる息子に「若者よ、あなたに言う。起きなさい。」と御言葉をかけられたのです。この御言葉によって主イエスは、死の力によって母親から奪われた息子を取り戻してくださったのです。そして主イエスは命を取り戻した息子を母親にお返しになったのです。
二週間前に私たちは復活日・イースターの礼拝をお献げいたしました。私たちはイースターの礼拝で、主イエス・キリストが墓に葬られて、三日後に復活をされたことを覚えました。まさに主イエスは復活をなさって、私たちの命の主であることを明らかにされたのです。読み進んでまいりましたナインの町の出来事は、主イエスが復活される以前のことではあります。しかし、この時主イエスは亡くなった息子を生き返らせることを通じて、ご自分が命の主であることを前もって明らかにしてくださったのです。
私たちが信仰生活を送る中で、この命というものを最も意識させられるのは、教会で行う葬儀の時ではないでしょうか。もうだいぶ以前のことですが、私は、ある方から「教会の葬儀は明るいですね。」と言っていただいたことがあります。それまでの私と言えば、葬儀の折は、牧師として式を務め、弔辞を語ることで精一杯でありました。
ですから葬儀がどのような雰囲気に包まれているかについて気を配る余裕を持てませんでした。あるいは、参列者が教会の葬儀にどのような印象を持たれているのかについて顧みることもありませんでした。私が葬儀の式を執り行う際に、葬儀を包みます雰囲気について気を配るようになったのは、それからのことでした。
ある時私が葬儀の司式をしながら気がつきましたのは、教会の葬儀には不思議な明るさがあるということでありました。それはふわふわしていて、吹けば飛んでしまうような明るさではありません。それは落ち着きのある、しかもしっかりとした明るさでありました。
私は教会の葬儀はこの明るさに包まれているので、無常観であるとか、あるいは、死に対する諦めといった感情が入り込む余地がないのだというふうに思わされました。
教会によっては、教会で行う葬儀のことを葬儀礼拝というふうに呼んでいるようであります。礼拝が礼拝であります由縁(ゆえん)は、そこに主イエス・キリストが臨在されることにあります。主イエスは死が支配しているように見える葬儀のただ中に臨在をしてくださいます。そしてこれから死の世界に赴こうとしている者を引き受けてくださるのであります。
繰り返しになりますが、主イエスはナインの町から葬りの場に進もうとしている棺の行列を止めてしまわれました。そして、棺に横たわる若者に、「若者よ、あなたに言う。起きなさい。」という御言葉をおかけになって、彼を生き返らせられたのです。教会の葬儀のただ中に臨在される主イエス・キリストは死者を引き受けてくださると共に、終わりの日に「起きなさい」という御言葉と共に、彼を復活させてくださるのであります。
お断りしておきますが、ナインの町で息を吹き返した若者は蘇生、一時息を吹き返したのであって、復活をしたのではありません。彼は後に死を迎えることになります。しかし教会の葬儀のただ中に立たれるのは復活の主である御方です。この御方が臨在してくださるので、教会の葬儀は不思議な明るさに包まれるのです。
そしてこの御方が私たちの死を受け止め、終わりの日に、私たちをよみがえらせてくださる――復活させてくださる――ことを約束してくださるのであります。まさにこの御方、主イエス・キリストによって、私たちにとっての死は、ある教理問答が言い表していますように、永遠の命への入り口となるのであります。この御方を信じることのできます幸いを覚えたいと思います。そして、この御方に心からの賛美と感謝をお献げしたいと思います。
お祈りいたします。(30分13秒)
父なる神様、御名をほめたたえます。
二週間ほど前私たちは復活日イースターの礼拝を
お献げいたしました。
あなたは墓に葬られた御子イエス・キリストを
あなたのみ力によって、
死の中からよみがえらせてくださいました。
よみがえり、復活された主は、
今や、私たちにとって命の主であります。
確かに、見える所では死の力が
私たちの人生に影響を及ぼします。
また、私たちの日常生活に影を落とすこともあります。
しかし、この死の力をくつがえす復活の命を
主イエス・キリストは明らかにしてくださいました。
この御方を信じる幸いを覚えさせてください。
そして、この御方に心からの賛美と感謝を
お献げする者とならせてください。
イエス・キリストの御名によって祈ります。
アーメン。(31分28秒)
讃美歌 546番(せいなるかな)
49番(ゆうひおちて)
20番(主をほめよわがこころ)
543番(ちちみこみたまの)