2019年04月07日 朝の礼拝説教「良い実を結ぶために」

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良い実を結ぶために

日付
説教
細田眞 牧師
聖書
ルカによる福音書 6章43節~45節

聖書の言葉

43「悪い実を結ぶ良い木はなく、また、良い実を結ぶ悪い木はない。44木は、それぞれ、その結ぶ実によって分かる。茨からいちじくは取れないし、野ばらからぶどうは集められない。45善い人は良いものを入れた心の倉から良いものを出し、悪い人は悪いものを入れた倉から悪いものを出す。人の口は、心からあふれ出ることを語るのである。」ルカによる福音書 6章43節~45節

メッセージ

ルカによる福音書の6章は、主イエス・キリストのなさったいわゆる平地の説教を伝えています。少し前の6章17節には、主イエスが十二人の使徒を伴って、山から下りられたことが伝えられています。平らな所にお立ちになった主イエスを大勢の弟子とおびただしい群衆が待ち受けていました。イエスはそこで詰めかけた大勢の人々に向かって説教をなさいました。その様子は差し詰め山の麓で開かれた大伝道集会のようだったと思われます。現在の大伝道集会は野球場などの大きな施設を借り切って行われます。スタジアムの真ん中で説教者が語るのは、もっぱら信仰の初心者向けのメッセージです。あるいは、求道者を対象とした説教です。

しかし、主イエスが山の麓の平地でなさった説教は、主イエスにつき従うことを決意した弟子に向けての説教でした。主イエスの弟子に求められることは主イエスの御心を行うことです。そして、その行いによる実を結ぶことです。主イエスは弟子たちに向けて木とその実のたとえの説教をなさいました。6章の43節からです。43「悪い実を結ぶ良い木はなく、また、良い実を結ぶ悪い木はない。44木は、それぞれ、その結ぶ実によって分かる。茨からいちじくは取れないし、野ばらからぶどうは集められない。45善い人は良いものを入れた心の倉から良いものを出し、悪い人は悪いものを入れた倉から悪いものを出す。43節がこのたとえの中心メッセージであると言って良いでしょう。44節からは、それを別のたとえによって際立たせています。

このように三つのたとえが続けて語られているわけですが、一貫しているのは、良い実を結ぶのは良い木であり、悪い実を結ぶのは悪い木であるということです。両者は全くの別ものであるということです。

43節の初めに「悪い実を結ぶ良い木はなく」と記されています。この「悪い実の」の「悪い」と訳されている元の言葉は、「腐っている」あるいは「腐敗している」という意味のギリシア語です。

皆さんもよくご存知のウェストミンスター小教理問答の問18は、人間の罪性、罪の性質について言い表しています。そこでは、「人間の堕落について、人間の性質全体の腐敗、つまり、いわゆる原罪があることだ。」と言い表しています。この問18は、さらに、「そこから様々な具体的な罪が生じる。」と語っています。木を人間の人格、実をその人格が生じる言葉や業と考えるならばどうでしょうか。人格は腐敗していて、原罪に根ざしたものであれば、その人格から生じる言動は、必然的に罪性を帯びたものとなります。

45節の後半に、主イエスが「人の口は、心からあふれ出ることを語るのである。」と言われたことが記されています。人格が腐敗しているのであれば、その口から発せられる言葉も腐敗したものにならざるをえないのです。マタイによる福音書の15章の18節では、主イエスがペトロにお話になった御言葉が記されています。しかし、口から出るものは、心から出て来るので、これこそ人を汚す。19悪意、殺意、姦淫、みだらな行い、盗み、偽証、悪口などは、心から出て来るからである。つまり主イエスは、「口から入るものではなく、心から生じ、口から出るものがその人を汚す。」と断定されたのです。

ですから、悪い木にたとえられています悪しき人格 は、悪い実にたとえられる悪しき言動しか生むことができないのです。良い木になることでしか、良い実を結ぶことができないのです。私たちはこのたとえを読む時に、良い実を結ぶのは良い木であり、悪い実を結ぶのは悪い木であるというように、人間の二つのタイプが言い表されていると理解しがちです。しかし、主イエスは、このたとえを通して、人はいかにして良い実を結ぶ良い木になることができるのか、を問いかけておられるのです。

実はこのルカによる福音書には、もう一人、実を結ぶことについて語った人物を登場いたします。主イエスの先駆者でありました洗礼者ヨハネは、彼から洗礼を授けてもらおうとして出て来た群衆に向かって、大変激しい説教をいたしました。3章の7節に、その説教の語り出しが記されています。「蝮の子らよ、差し迫った神の怒りを免れると、だれが教えたのか。8悔い改めにふさわしい実を結べ」。このようにヨハネは、実を結ぶことを人々に迫ったのです。

悔い改めにふさわしい実を結ぶように迫られた群衆は、「では、わたしたちはどうすればよいのですか。」とヨハネに尋ねました。この時、ヨハネは群衆に「下着を二枚持っている者は、一枚も持たない者に分けてやれ。」と言い渡されました。さらに、徴税人には、「規定以上のものは取り立てるな」と命じました(12節)。兵士には、「だれからも金をゆすり取ったり、だまし取ったりしてはならない。自分の給料で満足せよ。」(14節)と告げました。

このように洗礼者ヨハネが語ります悔い改めにふさわしい実というのは、いわゆる生活を改善する域を出ていないことが分かります。確かに人が慣れ親しんだ生活を変えることは容易ではないかもしれません。しかし、洗礼者ヨハネが人々に迫った悔い改めにふさわしい実というのは、従来の生活を改善すること以上のことは語っていないのです。

それに対して、主イエスがこの平地の説教の中で弟子たちに要求しておられる信仰の結ぶ実は、全く趣を異にしています。一続きになっていますこの平地の説教の6章27節以下の所で、主イエスはこうおっしゃっています。敵を愛し、あなたがたを憎む者に親切にしなさい。28悪口を言う者に祝福を祈り、あなたがたを侮辱する者のために祈りなさい。さらに、主イエスは35節で、重ねてこう語っておられます。しかし、あなたがたは敵を愛しなさい。人に善いことをし、何も当てにしないで貸しなさい。そうすれば、たくさんの報いがあり、いと高き方の子となる。このように、主イエスは、敵を愛すること、返してもらうことを当てにしないで与え、貸すことをお命じになっているのです。こうしたことを実行するためには、私たちの常識とは異なる動機付けが必要になるのではないでしょうか。先程触れました洗礼者のヨハネの説教とは全く別の動機が必要になるのです。

既に一ヶ月半も前のことになりますが、私たち東北中会の2.11集会が開かれました。私も2月16日に仙台教会にまいりまして、講演に耳を傾けました。今回は長谷部弘長老が講師になってくださり、「天皇制とキリスト教」という講演をしてくださいました。長谷部長老は集会の時間全体を使って、充実した内容の講演をしてくださいました。講演を聞きました私が特に印象に残ったのは講演の最後の方の部分でした。

長谷部長老はそこで、矢内原忠雄が戦後間もない時期に行った「日本精神の反省」という講演を引用されました。この講演の中で、矢内原忠雄は日本精神の問題性を指摘して、日本精神によってあの戦争が引き起こされたと指摘をしています。しかしそうであるからと言って、矢内原は日本精神を退けるようなことはしていないのです。むしろ、彼は日本精神を反省して、これを立派なものに仕上げる力はキリスト教であると持論を展開しているのです。

矢内原は、法律や制度では人間が変わらないことを知っていたのではないでしょうか。日本人を、ひいては、人間をその内側から造り変える力が福音にあることを彼は認識していたのではないでしょう。矢内原忠雄の木曽福島国民学校での講演には、彼の戦後の日本人に対する祈りにも似た切実な思いが込められていたと思います。

宗教改革者のマルチン・ルターは、『キリスト者の自由』という書物を著しました。この書物はルターが宗教改革の運動に携わった初めの頃の1520年に著わしたものです。この書物の中で、彼は「人は行いではなく信仰によって義とされる」ことを何度も語ります。そして「義とされた人だけが自由に喜びを持って、そして、進んで善い業に励むことができる。」と説くのです。この『キリスト者の自由』は、その題名どおりに、信仰者の自由と喜びを美しく簡潔に言い表しています。そうした理由からだと思いますが、この書物は、ルターの著作の中で最も多くの人々に愛され、そして、現在も読み継がれています。

ルターは『キリスト者の自由』の前半で、彼が内なる人と呼んでいる私たちの人格がどのようにして義とされるのかについて語ります。彼はこういうふうに指摘しています。「信仰は魂を神の御言葉と等しくさせる。あらゆる恵みで満たし、自由に幸いにするばかりでなく、ちょうど花嫁と花婿を結ばせるように、魂をキリストに結合させる。こうして、キリストの恵みと義が信仰者のものになる」。さらに彼は、人の罪はキリストの中に飲み込まれて、おぼれさせられてしまうというようなことも書いています。それぐらいにキリストの義は強いと彼は強調するのです。そして「信仰だけが人間の義であり、あらゆる掟の実現である。」と結論づけるのです。

この信仰の義という真理に出会うまで、ルターは苦闘の人生を辿りました。修道士だったルターは模範的な修道士たろうと努めました。彼は厳格な戒律を守り、さらに自分に鞭打って徹夜や断食を課しました。そのあげくに彼は体を壊してしまいます。しかし魂の平安は得られないままでした。

そのような心境を抱えながらルターは聖書の研究に向かいます。その頃の彼は一つ一つの御言葉と格闘するように聖書を読んだと言われています。そして、ついにある日、聖書の言葉が向こうから開くようにして、ルターに信仰による義の真理を明らかにしたのです。その時の彼は飛び上がらんばかりだったと言われています。

ルターは、この『キリスト者の自由』の後半で、こうして義とされた信仰者の業について語ります。その際に彼が引用したのが、主イエスの木とその実のたとえであります。今回私たちはルカによる福音書の6章の43節から45節を読み進んできました。ルターが引用しているのは平行箇所であるマタイによる福音書の7章17節です。そこには、「すべて良い木は良い実を結び、悪い木は悪い実を結ぶ。」と記されています。それに続いて彼は「信仰によって内なる人が義とされる。満ち足りた人だけが善い実を結ぶ」と記しています。それはかつてのルターのように、自分が義と認められるために励む業ではありません。主イエス・キリストによって義とされ、恵みで満たされたからこそ生じる業であり、それらが結ぶ実なのです。

その業というのは、ただただ神に喜んでもらうことを願って行う業です。報いを求めずに、隣人に良かれと思うことを進んで行う業であります。この業が信仰者の生活を通して、良い実を結ぶのです。私たちは実を結ぶということが念頭にありますと、どうしてももっと働かなくてはならない――もっと多くの仕事をこなさなければならない――というふうに考えがちです。そして自分のスケジュール帳に多くの予定を詰め込まなければというようなことを考えてしまいます。しかし大切なことは、自分がどのようにして義とされ、良い木とされているのか。そのことを繰り返し思い返すことではないでしょうか。

今回は、ルターの言葉の引用が多くなってしまいますが、彼はこういう言葉を残しています。「御言葉とキリストを自分の中にしっかり刻み込み、この信仰を絶えず練り強めることが、当然、すべてのキリスト者のただ一つの行いであり、努めとなるはずである」。自分の信仰によって義とされて、キリストのすべての恵みを与えられていることを繰り返し思い返すことが信仰者の努めであることを彼は強調します。そして、そこにこそ、信仰者の帰って行く所があると、彼は言うのです。

読み進んでまいりましたこの木と実のたとえを含む平地の説教は、一続きの説教とたとえ話から成り立っています。その説教の一つであります6章41節から、こういうことが語られています。あなたは、兄弟の目にあるおが屑は見えるのに、なぜ自分の目の中の丸太に気づかないのか。42自分の目にある丸太を見ないで、兄弟に向かって、『さあ、あなたの目にあるおが屑を取らせてください』と、どうして言えるのだろうか。主イエスはこう問いかけた上で、弟子たちに向かって、「偽善者よ、まず自分の目から丸太を取り除け。そうすれば、はっきり見えるようになって、兄弟の目にあるおが屑を取り除くことができる。」と言い渡されているのです。

弟子たちは、自分たちが偽善者と言われて、驚いたと思います。さらに「自分の目から丸太を取り除け」と言われて、途方に暮れたかもしれません。弟子たちに限らず、誰しもが、「自分の目から丸太を取り除け」と言われれば、困惑をしますし、途方に暮れるでしょう。私たちは自分自身では、自分の目の中にある丸太に気が付きませんし、自力ではその丸太を取り除くことができないからです。それどころか、自分の目の中のおが屑を誰かに指摘されようものならば、指摘した人に腹を立てるのが私たちであります。

私たちは、自分の目の中に厳然と横たわっているこの丸太を、この私に代わって取り除いてくださる御方に出会う時に、自分の目をそれまで塞いでいた丸太に気づくのであります。

主イエス・キリストは、十字架におかかりになって、私たちに代わって、私たちの罪の償いを成し遂げてくださいました。この主イエスの十字架の死によって、私たちは、自分の内側に根を張っていた罪の大きさを知ります。それと共に、この罪の支配から、今や、自分自身が解放されたことを知るのです。

「あなたはわたしの罪をすべてあなたの後ろに投げ捨ててくださった。」という御言葉があります。イザヤ書の38章17節の御言葉です。神はご自分に敵対していた私たちを赦し、義とし、救うために、御子イエスキリストをお送りくださいました。かつての私たちは神を知ることを拒み、自分が罪人であるということを拒むような輩でありました。そのような私たちのために、御子イエスは十字架におかかりになりました。そして、肉を裂かれ、血を流して、死んでくださったのです。そのようにして神は、のイスラエルの預言者が言い表したように、私の罪をすべて後ろに投げ捨ててくださったのであります。

この恵みに私たちの信仰のが開かれる時、私たちはこの御方の恵みに感謝をし、さらに、この御方の御心に生きようとするのではないでしょうか。たとえ、それが敵を愛し、請われるままに貸し与えるというようなみ言葉であってでも、であります。私たちは神の恵みに眼が開かれる時、その恵みの込められている神の愛を知ります。その愛は私たちを神の御心に生きるようにと促します。そのようにして私たちが神の御心に生きる時、生きようと努める時に、私たちが通り過ぎた人生の歩みの後には、信仰の結ぶ良い実が残されているのであります。

お祈りいたします。(31分28秒)

父なる神様、

尊い御子イエスキリストをお送りくださり、

その方の御言葉によって、

私たちの信仰の眼を開いてくださることに、

恐れを覚えると同時に、感謝をいたします。

かつて、私たちは、あなたを知ることを拒み、

また、自分が罪人であることを知ることを拒んだ

そのような輩でありました。

そのような私たちの信仰の眼を

あなたは、私たちを義とし、そして、子とし、

さらに、清めてくださる中で、

徐々に開いてくださいました。

どうぞ、神様、あなたの恵みに感謝し、

そこに憩うと同時に、

どうか、恵みに感謝して、

恵みに生きる者とさせてください。

何よりも、あなたの御心を知ることに努め、

あなたの御心と自分の思いを一つにして、

生き、良い実を結ぶ者となるように

私たちを造り変えてください。

この祈りを私たちの主イエス・キリストの御名によってお祈りいたします。

アーメン。(33分03秒)

讃美歌 546番(せいなるかな)

39番(ひかげしずかに)

    369番(主よわが主よ)

543番(ちちみこみたまの)

『読者のみなさんへ』

  

4月7日に、細田先生に仙台教会での夕拝の奉仕をいただき感謝しております。細田先生の文字化説教が完成し、みなさんにお届けできますことを感謝します。

福島伝道所は、依然として非常に厳しい状況にあります。引き続き福島伝道所に礼拝者が与えられますように祈ってまいります。また、細田先生の働きのためにも祈ってまいります。みなさんにもご加祷くださるようにお願いいたします。

主イエスと細田先生と皆さまに感謝して。

主の2019年4月13日

日本キリスト改革派仙台教会 星 光信

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