自由の安息
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- 細田眞 牧師
- 聖書 ルカによる福音書 6章1節~5節
1ある安息日に、イエスが麦畑を通って行かれると、弟子たちは麦の穂を摘み、手でもんで食べた。2ファリサイ派のある人々が、「なぜ、安息日にしてはならないことを、あなたたちはするのか」と言った。3イエスはお答えになった。「ダビデが自分も供の者たちも空腹だったときに何をしたか、読んだことがないのか。4神の家に入り、ただ祭司のほかにはだれも食べてはならない供えのパンを取って食べ、供の者たちにも与えたではないか。」5そして、彼らに言われた。「人の子は安息日の主である。ルカによる福音書 6章1節~5節
福島教会の日曜礼拝は10時30分から始まります。この礼拝は誰でも参加できます。クリスチャンでなくとも構いません。不安な方は一度教会にお問い合わせください。
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私たちは、日曜日には、それぞれ仕事を休みにして教会に集まり、礼拝をお献げいたします。もうご存知のように、この日曜日というのは、外国語の翻訳です。英語のSundayのsunは、太陽あるいは日、という意味です。それをそのまま日本語に置き直して、日曜日としたのです。フランス語では、この週の最初の日のことを「ディマーンシュ」と言います。この「ディマーンシュ」というのは、「主の日」という意味です。興味深いことに、私たちがよく知っている英語ではなくて、フランス語が、この週の最初の日を「主の日」というふうに言い表わしているのです。
教会は、その始まりの頃から、主の日・日曜日を、 主イエス・キリストを、そして、父なる神を礼拝する日として、重んじてきました。しかし、最初からこの日を休息の日として、仕事を休んで、礼拝を献げていたわけではありません。それは、ユダヤの安息日の理解が、ローマの社会で受け入れられるようになってからの話です。それは紀元後4世紀に入ってからのことであると言われます。つまり、キリスト教の信仰がローマ帝国で公認された頃の話であります。私たちが住んでいる日本でも、日曜日が休息の日として理解されて、それが実施されるようになったのは比較的新しいことです。
使徒言行録には、教会の最初の時代、主の日に、人々が礼拝に集まった様子が伝えられています。その20章の7節からは、パウロがトロアスの町で行った礼拝の様子が記されています。この7節は、「週の初めの日」という書き出しで始まっています。これは日曜日を指します。「週の初め日、わたしたちがパンを裂くために集まっていると、パウロは翌日出発する予定で人々に話をしたが、その話は夜中まで続いた。」当時は、一日というのは、夕方から始まると考えられていました。ですから今日の数え方で言えば、人々は土曜日の夜に集まったことになります。
一日の労働を終えた人々が集まりました。疲れた体を引きずるようにしてではありますが、人々はたくさんの灯火(ともしび)がつけられた一番上の部屋に集まりました。そして、彼らはパンを裂いて、聖餐の食卓に集まりました。さらに、人々はパウロの語る説教に耳を傾けたのでした。この時、パウロは夜明けまで長い間語り続けました。同席していたエウティコという青年が、窓に腰掛けて話を聞いていましたが、やがて眠気を催して、三階から落ちてしまった(19節)ことも、ここでは、伝えられています。
こうしたハプニングはありましたけども、人々はこの夜パウロの説教に聞き入っていたのです。日が昇れば、また、労働につかなくてはなりません。眠りを取っていない体で職場に行かなくてはならないことは承知の上で、人々は夜通しの礼拝を守りました。おそらく、当時の信仰者たちは、礼拝を守らなくてはならないという義務感以上のものを感じていたのでしょう。
教会と言っても、今日のような教会の建物があったわけではありませんが、彼らは信仰の兄姉姉妹の誰か一軒の家に集まったのです。彼らは、疲れた体を引きずってでも、その信仰の仲間の家に行き、礼拝をお献げしたいこういう気持ちに駆られていたのです。使徒言行録は、初代の教会に漲(みなぎ)っていたこうした自由と喜びを私たちに伝えています。
現在では想像しにくいことですけども、今から約 半世紀前に、この国の教会――私たちの教会――は、青年の教会と呼ばれていました。それは、50年前の教会に青年が多く集まっていたからです。当時の青年たちは、教会にいることが楽しくて仕方がないという様子だったようです。
ある教会役員の方から、当時の青年たちの様子をうかがったことがあります。青年たちは、日曜日の朝に、教会に来て、日曜学校の手伝いをしたそうです。それから、彼らは十時半からの礼拝に出席しました。青年たちは、教会で昼食を取った後は、青年会を毎週のように開いたということです。その青年会の場で、聖書の勉強をしたり、議論をしたり、歌を歌ったそうです。そして、夕方には、牧師館で夕食をいただいて、夕礼拝に出席したそうです。青年の中には、その後も、教会に居残って、牧師と議論をする者もいたそうです。要するに、青年たちは、日曜日には、教会に入り浸りだったのです。当時の青年たちにとって、教会は生活の一部だったようです。そうした青年たちの中から、後に、教会の役員となって教会にお仕えする人が何人も現われたそうです。教会が自由と若さに溢れていた時代のことです。
初代教会のトロアスの教会のこと、そして、今から半世紀前に青年が多く集まっていた頃の日本の教会のお話をいたしました。それは、彼らの自由と喜びに溢れた姿が、主イエス・キリストの弟子たちの姿と重なり合うからです。
先程皆さんにお聞きいただきました6章の1節に、こう記されていました。「ある安息日に、イエスが麦畑を通って行かれると、弟子たちは麦の穂を摘み、手でもんで食べた。」主イエスの弟子たちは随分と自由に振る舞ったようです。麦の穂を摘んで手でもんで食べたくらいでは、空腹は満たされません。おそらく、彼らは、軽い気持ちでこういうことをしたのでしょう。
また、少し前の5章の33節からの箇所では、主イエスの弟子たちが断食をしないことが人々から指摘をされていました。「洗礼者ヨハネの弟子たちも、ファリサイ派の弟子たちも、断食をしています。それなのに、あなたの弟子たちは、飲んだり、食べたりする。」と人々から浴びせられました。
こうしたことから、主イエスの弟子たちが、習慣に捕らわれたり、人の目をいたずらに恐れたりすることなく、自由に振る舞ったことが分ります。しかし、その姿は、人々に、とりわけ、ファリサイ派の人々の目には、型破りと映ったようです。彼らは、主イエスの弟子たちを、宗教家らしくない、と見なしました。さらに、彼らは、弟子たちの振る舞いを敬虔な信仰者にはあるまじきことと考えたようです。
麦の穂を摘んで手でもんで食べた弟子たちを見たファリサイ派の人々が問題にしたのは、彼らが他人の畑に勝手に入って、麦を摘んだことではありませんでした。そうではなくて彼らが安息日に労働をしたことを、ファリサイ派の人々は、問題にしたのです。2節の「ファリサイ派のある人々が、『なぜ、安息日にしてはならないことを、あなたたちはするのか』と言った。」というのはそれを指しています。
主イエスの弟子たちは麦の穂を摘みました。それは刈り入れという労働にあたると見なされました。さらに、弟子たちは麦の穂を手でもんで、実を出し、口にしました。それは脱穀という労働にあたると見なされたのです。そうした労働は安息日には禁じられているというのがファリサイ派のある人々の言い分でありました。
安息日というのは、ご存知のように、主なる神が天地万物を創造されて、第七日(なのか)の日に、ご自分の労働を完成されたことによって、安息をなさったことに起源を持ちます。それは、十戒の第四戒にも加えられていて、主の民イスラエルの信仰と生活の規範ともなりました。第四戒は、「安息日を心に留め、これを聖別せよ」という戒めで始まります。それに続いて、「主の安息には何の業もしてはならない」ということが命じられています。「それはあなたの家族、僕、そして、家畜にまでも当てはまる」というふうに言われています。
ユダヤ人たちは、その歴史を通じて、この安息日を尊(とうと)んできました。彼らは、安息日には仕事を止めて、神の言葉である律法に耳を傾けたのでした。しかし、ユダヤ人たちは、何時(いつ)の頃か、この安息日をどのように休むのかということに心が奪われるようになっていきました。
実は、主イエスがいらした頃には、律法を守るために、その律法に付随して定められた規則が600以上あったと言われています。その600以上ある規則の幾つかは、この安息日に関わる規則でした。その規則のあるものは、人が安息日に外出する際の歩数を定めていたそうです。安息日には、何歩以上は戸外に出てはならないと。ユダヤ人は戸外に出て、決められた歩数に達すると、そこで引き返して家に帰ったそうです。ある規則では、安息日には、煮炊きなどの料理はしてはならないと定めていました。料理をすることを労働と見なしていたからです。そのために、料理をすることは、前の日に済ませておくように定められていました。ファリサイ派の人々には、こうした日常生活に張り巡された規則を落ち度なく守り行っているという自負がありました。彼らはその規則に定められたやり方に従って、この安息日を過ごしていました。
私たちは、こうしたファリサイ派の人々に対して、ある特定のイメージを被(かぶ)せて、理解をしているところがあります。それは、偽善的で、さらに、主イエスを陥れようとする悪辣な宗教家というイメージです。しかし、実際のファリサイ派の人々は、市井の人々との日常生活の中で、神の民としての生き方を実践しようとした人々であります。安易に時流に流されることなく、主の律法に従う生き方を全うしようとした人々でありました。当時のイスラエルの良心とも呼んでよい人々でありました。
しかし、そのファリサイ派の人々が、福音書の中では、主イエスの弟子たちを謗(そし)る人々として登場するのです。さらに、主イエスと鋭く対立する人々として、度々その姿を現わしているのです。その対立は、時を追うに従って、深刻なものとなり、やがて、彼らは、主イエスに対する憎しみをさえ抱くようになるのです。
これまでお話ししてきましたように、ファリサイ派の人々には、自分たちは律法を落ち度なく守っているという自負がありました。おそらく、人々の目からも、落ち度のない立派な信仰者と映っていたと思います。しかし、肝心なことは、その生き方が、果たして神の御心に適っているかということであります。
ある人が、「聖書の字面に捕らわれて、そこにある神の御心を悟らない愚か」ということを言いました。この言葉をファリサイ派の人々に当てはめると、こうなるのではないでしょうか。律法を守り行いながらも、そこに込められた神の御心を悟らない愚かさ。
ファリサイ派の人々は、主イエスの弟子たちが自由に振る舞うことを理解することができませんでした。また、彼らは 主イエスが罪人を含む人々と催した宴会の喜びに加わることをしませんでした。神の近くにいるというそういう自負を持っていた彼らが、実は、神から遠い所にいたのであります。そればかりか、自分たちの信仰から、神を閉め出していたのです。
主イエスは、弟子たちが麦の穂を摘んで食べたことを咎めるファリサイ派の人々に、弟子たちに代わって、お答えになります。「ダビデが自分も供の者たちも空腹だったときに何をしたか、読んだことがないのか。4神の家に入り、ただ祭司のほかにはだれも食べてはならない供えのパンを取って食べ、供の者たちにも与えたではないか。」サムエル記上の21章に、この物語は記されています。ダビデがイスラエルの王になる以前の出来事です。当時、ダビデは、サウル王に追われて、逃亡の日々を過ごしていました。追い詰められたダビデは、自分と家来の飢えを忍ぶために、既に神に献げられていたパンを祭司から受け取りました。そしてその五つのパンを分けて、飢えをしのいだのであります。
なぜそんな大胆なことをしたのか。おそらく、この時、ダビデは、既に自分がイスラエルの王になるように定められたことを確信していたからでありましょう。当時のイスラエルでは、「王には法を超える自由がある。」と考えられていました。
ダビデの故事を引用した主イエスの真意はこうであります。ダビデが、王であるという理由で、自分や伴の者たちにも、飢えを防ぐために、定めを破ったのであれば、神から遣わされた人の子である自分が安息日を支配するのは当然である。こうお考えになったのでしょう。
その上で、主イエスは、ファリサイ派の人々に、こう宣言をされます。「人の子は安息日の主である。」ある英語訳の聖書では、この「安息日の主」というのを「Master of the Sabbath」というふうに訳しています。「Sabbath」というのは「安息日」のことであります。そして、主を「Master」と訳しているのです。この「Master」を英和辞典で調べてみますと、一番最初に、「所有する者」という意味が載せられています。
今や、主イエスは、「ご自分が安息の所有者となられた。」こう宣言されているのです。それは、一度は、ファリサイ派の人々を初めとする宗教家のものになりかかっていた安息日を、ご自分のものへと取り戻されたことを表わしています。
主イエスは、決して力づくで、ファリサイ派の人々から安息日をご自分の元へ取り戻されたわけではありません。ここで、主イエスは、ご自分のことを、人の子と呼んでおられます。ルカによる福音書を読んでみますと、主イエスは、ご自分の死と復活を予告される際に、この人の子という言い方を用いられていることに気がつきます。主イエスがご自分の死と復活を三回目に予告された18章の33節では、「彼らは人の子を、鞭打ってから殺す。そして、人の子は三日目に復活する。」と記されているのです。
ご存知のように、人の子である主イエスを十字架にかけることに加担したのは、ファリサイ派の人々、そして、祭司長たち、民の長老たちであり、また、ローマの総督でありました。彼らの多くは、当時の安息日を重んじ、守ってきた人々であります。しかし、その人々が、主イエスを、十字架の死に追いやったのです。
実は、主イエスは、「この安息日にこそ、ファリサイ派の人々、律法学者、ひいては、祭司長に代表される宗教家の罪が現われる。」とお考えになっていました。こうした人々は、聖なる日である安息日を守るために、多くの規則を作って、それらを守ろうとしていました。しかしその熱心さの中で、それらの規則を守ることに心が奪われて、いつしか、神と共にある安息の意味を見失っていました。敬虔で、規則に則っているようではありますが、信仰そのものが、いつの間にか、空洞化していきました。
ですから、彼らは主イエスを受け入れることができませんでした。そればかりか、ことある毎に、主イエスと衝突し、やがて、主イエスに対する憎しみを募らせていくようになりました。主イエスは、こうした安息日をめぐるファリサイ派の人々、そして、当時の宗教家のあり方、ひいては、彼らを取り巻くユダヤ人の姿の中に、ご自分が死ななくてはならないほどに罪を見ておられたのであります。
そのため、人の子である主イエスは、鞭打たれた末、十字架におかかりになり、そして、亡くなられたのであります。そして、その人の子は、三日後によみがえられたのであります。よみがえられた主イエスは、その血によってあがなってくださった民のために、新しい安息の日をお定めになりました。
ご存知のように、ユダヤ人は、週の七日目、今日で言う、土曜日を安息日としていました。それに対して、教会は、その初めから、週の初めの日、今日で言う日曜日を主の日としてきました。それは、主イエス・キリストが、週の初めに、復活をなさったからです。主イエスは、十字架におかかりになり、そして、復活をなさることを通して、主の日を、教会の安息の日にしてくださったのであります。
宗教改革者のジャン・カルヴァンは、「キリストが来られたことによって、安息日に定められた儀式は既に廃止をされた。」と語っています。「安息に関わるすべての儀式・細かい規則は、キリストが来られることによって、廃止された。」とカルヴァンは言うのです。その上で、カルヴァンは、信仰者にとって、残された主の日の意義は、その霊的安息にあると言います。
カルヴァンは、1542年に、『ジュネーブ教会信仰問答』を著しています。彼は、この信仰問答の中で、霊的安息について、こう語っています。「それはわれわれのうちに主がみ業を行われるために、われわれ自身のもろもろの業をやめることです」。私たちが日常の業を止めて、神の御前に出る時に、神はその御言葉と聖霊によって私たちの内に新しい御業を始められます。
まさに、それが主の日であり、教会に与えられた安息の意義であります。また、それは神の自由の御業に私たちがあずかる時であります。神の自由の御業にあずかることによって、私たちも自由になります。それは人間の作る規則や儀式によって取って代わることができない神の御業であります。
神の言葉は、私たちが、今や、神の子とされたことを告げます。そして、そこには、私たちが神を「アバ父よ」と呼ぶことができる新しい交わりが生まれます。「アバ父よ」というのは、いささか堅苦しい言い方ですが、かみ砕いて言えば、「お父さん」あるいは、「お父ちゃん」ということになるでしょうか。
父なる神が私たちに語りかけてくださり、私たちが「お父さん」とお呼びすることができる。それは、主イエスの弟子たちの無邪気な姿を彷彿させるものであります。その御言葉と聖霊によって育まれることによって、やがて、私たちの内側には、主イエス・キリストの似姿が形づくられるのです。このように主が備えてくださった安息日というのは、私たちが新しく造り変えられる再創造の日になるのであります。
安息日に代わって、主イエス・キリストがお定めくださった主の日というのは、そのような神様がお働きになる機会であります。その主の日の安息に私たちは招かれているのであります。
お祈りいたします。(34分27秒)
私たちのために尊い独り子をお遣わしくださり、
あなたとあなたの御心を明らかにしてくださいます
父なる神様、御名をほめたたえます。
時に、私たちは、信仰を持ち、その信仰を
私たちが作り出した様々な規則や習慣によって
見映えのよいものに仕立てあげようといたします。
しかし、何よりも肝心なことは、この安息の日を設け、
安息に招いてくださったあなたが、
私たちに何をなさろうとしているか
ということでございます。
私たちをあなたの子としてくださり、
さらに、私たちを御子イエス・キリストに似た者へと造り変えてくださるこの主の日の安息を
私たちが、尊び、また、喜ぶことができるように
させてください。
日々の生活の中では、様々な自分の弱さに
つまずきや、時に、苛立ちや、絶望を
覚える私たちであります。
そうした私たちを見捨てることなく
繰り返し主の日の安息に招き、
御言葉と聖霊を与えてくださるあなたの御業に
信頼を寄せ続けることができるように
させてください。
イエス・キリストの御名によって祈ります。
アーメン。(36分07秒)
讃美歌 546番(せいなるかな)
51番(ひかげしずかに)
526番(主よわが主よ)
543番(ちちみこみたまの)
『読者のみなさんへ』
3月3日に、細田先生に仙台教会での夕拝の奉仕をいただき感謝しております。前回と同様に、細田先生とのメールの遣り取りで、細田先生の文字化説教が完成し、みなさんにお届けできますことを感謝します。
福島伝道所は、依然として非常に厳しい状況にあります。引き続き福島伝道所に礼拝者が与えられますように祈ってまいります。また、細田先生の働きのためにも祈ってまいります。みなさんにもご加祷くださるようにお願いいたします。