2024年06月23日 朝の礼拝「勝利の後の苦い水」

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2024年06月23日 朝の礼拝「勝利の後の苦い水」

日付
説教
堂所大嗣 牧師
聖書
出エジプト記 15章1節~27節

聖句のアイコン聖書の言葉

15:1 モーセとイスラエルの民は主を賛美してこの歌をうたった。主に向かってわたしは歌おう。主は大いなる威光を現し/馬と乗り手を海に投げ込まれた。
15:2 主はわたしの力、わたしの歌/主はわたしの救いとなってくださった。この方こそわたしの神。わたしは彼をたたえる。わたしの父の神、わたしは彼をあがめる。
15:3 主こそいくさびと、その名は主。
15:4 主はファラオの戦車と軍勢を海に投げ込み/えり抜きの戦士は葦の海に沈んだ。
15:5 深淵が彼らを覆い/彼らは深い底に石のように沈んだ。
15:6 主よ、あなたの右の手は力によって輝く。主よ、あなたの右の手は敵を打ち砕く。
15:7 あなたは大いなる威光をもって敵を滅ぼし/怒りを放って、彼らをわらのように焼き尽くす。
15:8 憤りの風によって、水はせき止められ/流れはあたかも壁のように立ち上がり/大水は海の中で固まった。
15:9 敵は言った。「彼らの後を追い/捕らえて分捕り品を分けよう。剣を抜いて、ほしいままに奪い取ろう。」
15:10 あなたが息を吹きかけると/海は彼らを覆い/彼らは恐るべき水の中に鉛のように沈んだ。
15:11 主よ、神々の中に/あなたのような方が誰かあるでしょうか。誰か、あなたのように聖において輝き/ほむべき御業によって畏れられ/くすしき御業を行う方があるでしょうか。
15:12 あなたが右の手を伸べられると/大地は彼らを呑み込んだ。
15:13 あなたは慈しみをもって贖われた民を導き/御力をもって聖なる住まいに伴われた。
15:14 諸国の民はこれを聞いて震え/苦しみがペリシテの住民をとらえた。
15:15 そのときエドムの首長はおののき/モアブの力ある者たちはわななきにとらえられ/カナンの住民はすべて気を失った。
15:16 恐怖とおののきが彼らを襲い/御腕の力の前に石のように黙した/主よ、あなたの民が通り過ぎ/あなたの買い取られた民が通り過ぎるまで。
15:17 あなたは彼らを導き/嗣業の山に植えられる。主よ、それはあなたの住まいとして/自ら造られた所/主よ、御手によって建てられた聖所です。
15:18 主は代々限りなく統べ治められる。
15:19 ファラオの馬が、戦車、騎兵もろとも海に入ったとき、主は海の水を彼らの上に返された。しかし、イスラエルの人々は海の中の乾いた所を進んだ。
15:20 アロンの姉である女預言者ミリアムが小太鼓を手に取ると、他の女たちも小太鼓を手に持ち、踊りながら彼女の後に続いた。
15:21 ミリアムは彼らの音頭を取って歌った。主に向かって歌え。主は大いなる威光を現し/馬と乗り手を海に投げ込まれた。
15:22 モーセはイスラエルを、葦の海から旅立たせた。彼らはシュルの荒れ野に向かって、荒れ野を三日の間進んだが、水を得なかった。
15:23 マラに着いたが、そこの水は苦くて飲むことができなかった。こういうわけで、そこの名はマラ(苦い)と呼ばれた。
15:24 民はモーセに向かって、「何を飲んだらよいのか」と不平を言った。
15:25 モーセが主に向かって叫ぶと、主は彼に一本の木を示された。その木を水に投げ込むと、水は甘くなった。その所で主は彼に掟と法とを与えられ、またその所で彼を試みて、
15:26 言われた。「もしあなたが、あなたの神、主の声に必ず聞き従い、彼の目にかなう正しいことを行い、彼の命令に耳を傾け、すべての掟を守るならば、わたしがエジプト人に下した病をあなたには下さない。わたしはあなたをいやす主である。」
15:27 彼らがエリムに着くと、そこには十二の泉があり、七十本のなつめやしが茂っていた。その泉のほとりに彼らは宿営した。日本聖書協会『聖書 新共同訳』
出エジプト記 15章1節~27節

原稿のアイコンメッセージ

Ⅰ:賛美の歌
 前回の14章では、神が海の水を二つに分けて、イスラエルの民がその乾いた地面を歩いて渡ったという「海渡り」の奇跡の場面を読みました。この奇跡によって、神によるエジプトに対する完全な勝利が実現したのです。しかし、彼らの歩みはそれで終りではありません。むしろここから、神が与えると約束されたカナンの地へと向かう、神の民の新しい旅が始まることになりますが、今日の箇所は、その新しい旅立ちをしたイスラエルの民を襲った最初の試練の出来事です。
 その試練に目を向ける前に、まずは前半の賛美の歌に目を向けてみましょう。今日の箇所の賛美の歌の冒頭にあるように、イスラエルの民は自分たちが体験した出来事を、神が自分たちに代わってエジプトに勝利して、栄光を現わされた奇跡として受けとめたのです。そして、そのご栄光を現わされた神が「わたしの父の神」となってくださったことを喜んで賛美の詩を歌ったのです。ですから、海が二つに割れたという奇跡自体に意味があるのではなく、その奇跡を通して神の栄光が人々の前に現され、私の神と褒め称える信仰へと導く時に、その奇跡には始めて意味があるのです。
 
Ⅱ:神の栄光を表す奇跡
 神の栄光は、「奇跡」というような特別な事柄の中にのみ現れるのではありません。それは私たちが普段当たり前のように通り過ぎている一つ一つの出来事の中にも現れているのです。その日々の生活の中に現わされている神の栄光を、信仰の目をもって見ることが出来るなら、私たちの日々は「奇跡の連続である」と言えるのではないでしょうか。大切なことは、目の前で起きている事がたとえ自然現象であろうと、あるいは超自然的な出来事であろうと、その事の中にも働いておられる神の栄光を見上げて、このお方を「わたしの神」「わたしの救い」として崇め賛美する信仰へと導かれる事なのです。そして、13節から16節の言葉は、この後、イスラエルの民が荒野を超えてカナンの地へと向かう道のりが示されています。この賛美の歌を通して、目の前の出来事に神の栄光を見て、その神を賛美し、そして今日経験した神の御業を、未来の神に対する信頼と信仰へと繋げていく、そういうイスラエルの信仰が表明されているのです。

Ⅲ:最初の試練
 しかし、その彼らの信仰は、残念ながら長くは続きませんでした。葦の海を旅立って荒野に入ったイスラエルの民は「生きるために必要不可欠な水がない」という困難に直面しました。そして、三日の間荒れ野をさ迷った挙げ句、彼らはようやく水を見つけることが出来ましたが、その水は、苦くて飲み水に適さない水でした。そこで民はモーセと、モーセの背後に立つ神に対して「何を飲んだらよいのか」と不満を訴えたのです。彼らが出エジプトに際して経験した様々な奇跡は、結局のところ、彼らを今、目の前にある試練を乗り越えさせる力とはならなかったのです。
 ここには、奇跡を根拠としている信仰が、いかに脆く危ういものであるかが現れているのではないでしょうか。なぜなら、もし私たちの信仰の根拠が、自分が体験した奇跡にあるのなら、次にまた困難な出来事に出会った時にも同じように奇跡が起こらなければ、その信仰は拠り所を失うからです。
 
Ⅳ:神の掟と法
 では、そういう奇跡や目に見える現象ではない私たちの信仰の源泉があるとすれば、それは一体何でしょうか。この時、モーセが神に向って叫ぶと、神は一本の木を示されて、その木を水の中に投げ込む水が甘くなって、飲める水に変りました。25節の「示す」という言葉は、“ヤーラー”というヘブライ語で、この言葉から派生して生まれたのが「トーラー」という律法やモーセ五書を指す言葉です。信仰とは、神が目に見える奇跡によって、ご自分が神であることを証明してくれたら信じることではありません。それは神の掟と法に耳を傾けて、そこに示されている神のみ旨に従うことです。あるいは、自らの修練や努力で、神の掟を守ることが拠り所となっている信仰もまた、信仰の試練に出会う時に、それに打ち勝つことの出来ないひ弱な信仰者を生み出します。

Ⅴ:キリストという泉
 「奇跡という水」や、「神の掟に従って正しい生きるという水」で自らの渇きを癒そうとしても、それらのものは結局、私たちに自らの弱さを思い知らせる「苦い水」としかならないのです。しかし、今日の新約朗読の箇所で主イエスが「わたしが与える水を飲む者は決して渇かない。わたしが与える水はその人の内で泉となり、永遠の命に至る水がわき出る。」と語っておられるように、キリストこそが、「律法」の苦い水を私たちを本当に生かす甘い命の水へと変えてくださる、真の命の泉です。そしてこのキリストに結びつけられているという事が、私たちの信仰の源泉であり、拠り所なのです。 
 私たちが神を信じるのは、この御方が病気を治したり、私たちが抱えている問題を解決してくださるお方だからではありませんし、その教えを守って生きれば幸せになれるから、神を信じるのでもないのです。キリストこそが、私たちの信仰の土台であり、私たちが神を信じる根拠なのです。この罪深い、目に見える者しか信じることが出来ず、神の教えに従うことの出来ない私たちのために、ご自分の命の水を与えてくださるキリストにあって私たちは、天の神を私の父なる神と告白するのです。

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