Ⅰ:賛美の歌
前回の14章では、神が海の水を二つに分けて、イスラエルの民がその乾いた地面を歩いて渡ったという「海渡り」の奇跡の場面を読みました。この奇跡によって、神によるエジプトに対する完全な勝利が実現したのです。しかし、彼らの歩みはそれで終りではありません。むしろここから、神が与えると約束されたカナンの地へと向かう、神の民の新しい旅が始まることになりますが、今日の箇所は、その新しい旅立ちをしたイスラエルの民を襲った最初の試練の出来事です。
その試練に目を向ける前に、まずは前半の賛美の歌に目を向けてみましょう。今日の箇所の賛美の歌の冒頭にあるように、イスラエルの民は自分たちが体験した出来事を、神が自分たちに代わってエジプトに勝利して、栄光を現わされた奇跡として受けとめたのです。そして、そのご栄光を現わされた神が「わたしの父の神」となってくださったことを喜んで賛美の詩を歌ったのです。ですから、海が二つに割れたという奇跡自体に意味があるのではなく、その奇跡を通して神の栄光が人々の前に現され、私の神と褒め称える信仰へと導く時に、その奇跡には始めて意味があるのです。
Ⅱ:神の栄光を表す奇跡
神の栄光は、「奇跡」というような特別な事柄の中にのみ現れるのではありません。それは私たちが普段当たり前のように通り過ぎている一つ一つの出来事の中にも現れているのです。その日々の生活の中に現わされている神の栄光を、信仰の目をもって見ることが出来るなら、私たちの日々は「奇跡の連続である」と言えるのではないでしょうか。大切なことは、目の前で起きている事がたとえ自然現象であろうと、あるいは超自然的な出来事であろうと、その事の中にも働いておられる神の栄光を見上げて、このお方を「わたしの神」「わたしの救い」として崇め賛美する信仰へと導かれる事なのです。そして、13節から16節の言葉は、この後、イスラエルの民が荒野を超えてカナンの地へと向かう道のりが示されています。この賛美の歌を通して、目の前の出来事に神の栄光を見て、その神を賛美し、そして今日経験した神の御業を、未来の神に対する信頼と信仰へと繋げていく、そういうイスラエルの信仰が表明されているのです。
Ⅲ:最初の試練
しかし、その彼らの信仰は、残念ながら長くは続きませんでした。葦の海を旅立って荒野に入ったイスラエルの民は「生きるために必要不可欠な水がない」という困難に直面しました。そして、三日の間荒れ野をさ迷った挙げ句、彼らはようやく水を見つけることが出来ましたが、その水は、苦くて飲み水に適さない水でした。そこで民はモーセと、モーセの背後に立つ神に対して「何を飲んだらよいのか」と不満を訴えたのです。彼らが出エジプトに際して経験した様々な奇跡は、結局のところ、彼らを今、目の前にある試練を乗り越えさせる力とはならなかったのです。
ここには、奇跡を根拠としている信仰が、いかに脆く危ういものであるかが現れているのではないでしょうか。なぜなら、もし私たちの信仰の根拠が、自分が体験した奇跡にあるのなら、次にまた困難な出来事に出会った時にも同じように奇跡が起こらなければ、その信仰は拠り所を失うからです。
Ⅳ:神の掟と法
では、そういう奇跡や目に見える現象ではない私たちの信仰の源泉があるとすれば、それは一体何でしょうか。この時、モーセが神に向って叫ぶと、神は一本の木を示されて、その木を水の中に投げ込む水が甘くなって、飲める水に変りました。25節の「示す」という言葉は、“ヤーラー”というヘブライ語で、この言葉から派生して生まれたのが「トーラー」という律法やモーセ五書を指す言葉です。信仰とは、神が目に見える奇跡によって、ご自分が神であることを証明してくれたら信じることではありません。それは神の掟と法に耳を傾けて、そこに示されている神のみ旨に従うことです。あるいは、自らの修練や努力で、神の掟を守ることが拠り所となっている信仰もまた、信仰の試練に出会う時に、それに打ち勝つことの出来ないひ弱な信仰者を生み出します。
Ⅴ:キリストという泉
「奇跡という水」や、「神の掟に従って正しい生きるという水」で自らの渇きを癒そうとしても、それらのものは結局、私たちに自らの弱さを思い知らせる「苦い水」としかならないのです。しかし、今日の新約朗読の箇所で主イエスが「わたしが与える水を飲む者は決して渇かない。わたしが与える水はその人の内で泉となり、永遠の命に至る水がわき出る。」と語っておられるように、キリストこそが、「律法」の苦い水を私たちを本当に生かす甘い命の水へと変えてくださる、真の命の泉です。そしてこのキリストに結びつけられているという事が、私たちの信仰の源泉であり、拠り所なのです。
私たちが神を信じるのは、この御方が病気を治したり、私たちが抱えている問題を解決してくださるお方だからではありませんし、その教えを守って生きれば幸せになれるから、神を信じるのでもないのです。キリストこそが、私たちの信仰の土台であり、私たちが神を信じる根拠なのです。この罪深い、目に見える者しか信じることが出来ず、神の教えに従うことの出来ない私たちのために、ご自分の命の水を与えてくださるキリストにあって私たちは、天の神を私の父なる神と告白するのです。