Ⅰ:狼と羊
前回の箇所で主イエスは、弟子たちに対して伝道における基本的な心得を語られましたが、続く今日の箇所では、無関心や冷淡であるということとはまったく違う、迫害や暴力といったよりはっきりした敵意が想定されています。ここで主イエスは弟子たちを迫害する者たちを「狼」と呼んでいます。そしてその「世の狼たち」によって、弟子たちがどのような迫害に遭い、苦しめられるかについてもはっきりと弟子たちに告げておられます(17、18節)。一方で弟子たちは「羊」に例えておられます。羊は、狼や猛獣に抵抗できる牙や爪を持たない動物です。狼の群れの中に入って行けば、たちまち八つ裂きにされてしまうのがオチです。主イエスは、弟子たちを世に遣わすのは、そのような残忍な狼の群れの中に羊を送り込むようなものだ、と言われるのです。羊が、凶暴な狼の群れの中で生き残るには、自らも牙や爪を備えて、世の狼よりも強くて残忍な狼とならなければ、弱肉強食の世を生き抜くことは出来ない、それが私たちの生きている世界のルールです。
しかし主イエスは弟子たちに、世の狼たちよりも強い狼となって、彼らを打ち負かせとは命じられませんでした。なぜなら、敵と戦うのは羊たち自身ではないからです。羊のために狼や猛獣と戦い命と安全を守るのは、羊自身ではなく羊飼いの役目です。羊の強さは、羊飼いが共にいるという点にこそあるのです。16節で主イエスが「わたし」という言葉を強調して言われるように、この羊飼いは、自分の羊を狼の群れの中に放り出すのではなく、羊飼いとして共にあり、敵から守るり続ける「良い羊飼い」だからです。
ですから羊自身は、世の狼に対抗して自らの牙や爪を磨いたりする必要はありませんし、ましてや自分自身が狼になるべきではありません。信仰者は自分の牙や爪を頼りとせず、「わたしがあなたを守る」と約束してくださる良い羊飼いに信頼し、その声に聞き従うことによって、恐れずに失われた羊たちの下へ遣わされていくことが出来るのです。
Ⅱ:蛇と鳩
では、そのように弱く力のない羊である私たちは、自分は何もせずに、ただ羊飼いの庇護の下にいれば良いのでしょうか。主イエスはここで弟子たちに対して「蛇のように賢く、鳩のように素直になりなさい」と勧めておられます。「蛇」は、知恵と賢さの象徴と言えますが、一方で聖書においては「狡猾さ」「ずる賢さ」という否定的なイメージもつきまといます。しかしこの言葉は決して、そういう「ずる賢く立ち回ること」を勧めているのではありません。キリスト者に求められる「賢さ」とは、たとえば17節で「人々を警戒しなさい」と言われているように、この世の悪や人間の持っている罪について熟知し、それを注意深く避けるという賢さです。私たち信仰者は、決して単なる世間知らずのお人よしであってはなりません。罪や悪の危険を避けるために、この世の悪や人間の罪について無知であってはならないのです。更に23節では、危険を素早く見抜き、時にはそれを避ける知恵を持つことが求められているのです。
そしてそのようなキリスト者の持つ賢さは、人間的な知恵ではなく、神の持っておられる知恵のことです。神は、私たち人間の持っている罪や、その罪が生み出すこの世の現実を私たち以上にご存じでありながら、なおその罪深い世界においてご自分の正義を立てられ、憐れみ深い業を成し遂げることがお出来になります。それが神の持っておられる「神の賢さ」なのです。この世の知恵にではなく、神の知恵に信頼することが「蛇のように賢く生きる」という、キリスト者の知恵のあり方です。
そしてもう一つ、「鳩のように素直でありなさい」とも命じられています。ここでは信仰者の「素直さ」の象徴として「鳩」という鳥が挙げられています。この場合の「素直さ」とは、相手の言うことを何でも鵜呑みにして信じることではありません。人の言葉や意見に従順はなく、神の言葉にまっすぐに聞き従い、神に一途に信頼する「純粋さ」のことです。ですから「蛇のように賢く、鳩のように素直であれ」という言葉は、場面に応じて「蛇」と「鳩」を使い分けるように教えているのではありません。どちらも「神の言葉に聞き従う者であれ」という事なのです。
Ⅲ:私たちが語るべき言葉
そしてそのようなキリスト者の持つ賢さが最も明らかになるのが、私たちが世の迫害や困難に晒されて、そこで福音を証ししなければならない時です。19節「で「言うべきことは教えられる」と言われているのは、私たちの意志や感情と無関係に、聖霊が私の口を通して語ってくれる、という事ではありません。神は、伝道者の物質的、経済的な必要をご存じでそれを満たしてくださると同時に、それ以上に霊的な必要にも配慮してくださるということです。そこで神から与えられる言葉とは、イエス・キリストの「十字架の愛について」です。私の代わりに最高法院に引き出されて、鞭うたれ、総督ピラトやヘロデ王の前に立たされ、世の狼たちによってその身を十字架で切り裂かれてくださった神の小羊に示された、「神の愛」こそ、私たちが語るべき言葉なのです。それは、私たちが自分の知恵や力に頼ることをしない、弱い「羊」だからこそ語ることが出来るのです。
しかし凶暴な狼たちが支配するこの世の中で、か弱い羊の群れとして生き続けるということには、様々な困難や恐れが伴います。そこで主イエスは今日の箇所の最後で、私たちの信仰の戦いと忍耐には、必ず終わりがあるということを告げています。それは人の子、すなわちキリストが来られる時に実現するのです。その日が来るまで、教会の働きは終わりません。信仰者の忍耐は、ただ苦しみを耐え忍ぶだけの辛い日々ではありません。それはこの羊飼いなるイエス・キリストがいつも共にいて下さり、その羊飼いの声に励まされて、人々に真の命の言葉、十字架の愛を伝えに行く、希望に満ちた恵み多い旅路、喜びの旅路なのです。