Ⅰ:イスラエルの失われた羊たち
5節で主イエスは、弟子たちの伝道の対象を純粋なユダヤ民族だけに限定して、他の民族(外国人)のところに言ってはならないと命じておられます。なぜなら、救い主がやがて来られるという約束は、旧約聖書を通してイスラエルの民(ユダヤ人)に与えられていた約束だからです。 しかもユダヤ人たちはこの時「飼い主のいない羊のように弱り果て、打ちひしがれている」状態でした。ですから、まずその神の民に福音を知らせるのが約束の救い主である主イエスに課せられた第一の使命です。ですから、その主イエスの代理者たる弟子たちも、ユダヤ人を差し置いて外国人のところに行ってはならないのです。
しかし、今日の箇所で主イエスが弟子たちに「異邦人の道に行ってはならない」と言われたのは、決して恒久的な命令ではありません。マタイ福音書の結論は、ユダヤ人だけでなく、全世界のあらゆる人々に福音を宣べ伝えなさい、というものでした。福音は今や、ユダヤ人だけではなく、全世界の人々に告げ知らせられなければなりません。現代の教会における「イスラエルの失われた羊」とは、私たちの身近にいる家族や友人たちから始まって、同じ社会に住む同胞たち、更には国や人種を超えた全世界にいる神を知らない人々をも含んでいるのです。その意味で、確かに私たちの前には、神の救いを必要とする多くの収穫が、福音を告げ知らされるのを待っているのです。とは言え、教会が限られた人員や時間の中で伝道という働きを行う以上、私たちは、自分たちの力で世界の全ての人に福音を宣べ伝えることは、現実的には不可能です。ですから、実際に伝道の働きをなすにあたっては、今私たちのために神が備えられている「イスラエルの失われた羊」とは誰なのかを示してくださるように神に祈ることが必要です。
Ⅱ:ひとりの下に留まり続ける
そして11節では、どこかの「町や村に入ったら、そこで、ふさわしい人はだれかをよく調べ、旅立つときまで、その人のもとにとどまりなさい」と教えています。では、ここで言う「ふわさわしい人」とは、一体どのような人のことなのか。その後の12節以降を見ますと、弟子たちの目にも、その家の人が平和を受けるのにふさわしいかどうかは、最後まで分からないのです。
ですから、とにかく滞在する家を決めたなら、その土地を離れるまで、別の家に移ってはならないと命じておられるのです。そしてその家の人に対して「平和があるように」と挨拶しなさいと教えています。ここで言われている「平和」とは、この世的な意味での戦争や戦いがない状態だけを指すのではありません。それは何よりもまず「神との間に平和があるように」という意味です。そして信仰者が、キリストの名によって「平和があるように」と祈る時に、その言葉は単なる挨拶や気休めの言葉では終わらずに、実際的な変化や影響を及ぼす力があるのです。この神の言葉の持つ力、人を変えることが出来る力を信じて、「キリストにある平和」を語り続け、祈り続けることが、私たちのなすべき伝道の働きなのです。
私たちの伝道の働きは、いつも良い結果が得られるとは限りません。しかし、たとえ好意的な反応が返ってこないとしても、私たちは簡単に相手を見限って語ることをやめてしまってはならないのです。伝道の働きは、人間の目には伝道が困難に思える人に対しても、しかし忍耐強く関わり続け、福音を語り続けることなのです。
Ⅲ:時過ぎぬ間に福音を伝える
さて、こうして主イエスは、弟子たちに対して、見返りを求めずに、忍耐強く伝道の働きをするようにと励しておられるのですが、しかし14節では「あなたがたを迎え入れもせず、あなたがたの言葉に耳を傾けようともしない者がいたら、その家や町を出て行くとき、足の埃を払い落としなさい」とも述べておられます。この「足の塵を払い落す」というのは、その相手との関係を絶つというユダヤ式のジェスチャーです。更に、もし最後まで福音を拒み続けるなら、「裁きの日には、この町よりもソドムやゴモラの地の方が軽い罰で済む」と警告されるのです。
なぜなら、ソドムとゴモラの時代には、神の御子はまだこの世界に来られていませんでしたが、 しかし、これから弟子たちが遣わされていく町の人々は、聖書に約束された救い主がこの地上にお生まれになったという知らせを聞きながら、最後までそれを受け入れようとしなかったからです。私たち信仰者が語る言葉は、聞いた人がそれをどう受け留めて、どう答えるかによって、その人の行く道が決定的に分かれていく、重たい宣告なのです。確かに「今は恵みの時、救いの日」です。しかし、明日はどうか、明後日はどうなるか分かりません。「明日信じよう」と言って、神の国の福音を受け入れることを先延ばしにしていたら、いつか神御自身が「あなたはわたしは無関係だ」と言われて、足の塵を払われる日が来るかも知れません。その時が来たら、もう遅いのです。私たちは、時がある間にこの福音を信じるように、私たちの家族や大切な人たちに真剣に福音を伝えなければならないのです。
Ⅳ.平和の福音を携えて
しかし誤解してはならないのは、人に対して最終的な裁きを降す権威を持っておられるのは、あくまで神ただお一人であって、弟子たちに許されているのはあくまで「平和を祈る」ことであって、相手を「裁いたり」「呪ったりする」ことではないのです。神が私たちのために備えておられる「イスラエルの失われた羊たち」は、私たちの目には福音を受けるのに相応しい人には見えないかも知れません。しかし、たとえ私たちの目から見て福音を聞くのに相応しかろうと、相応しくなかろうと、その人のために「平和があるように」と祈り続けることが、私たちに委ねられている使命なのです。きっと皆さんの周りにも「神の失われた羊たち」が大勢いて、皆さんが福音を告げ知らせるのを待っているでしょう。私たちは、自分の働きや能力の限界を自覚しつつ、その結果はすべて収穫の主である神の御手に委ねて、私たちのための「イスラエルの失われた羊たち」にキリストの平和を告げ知らせるために、ここから遣わされて行こうではありませんか。