Ⅰ:言葉による伝道と行いによる伝道
10章で語られているのは、十二人使徒を遣わすにあたって主イエスが語られた「伝道者の心得」です。そして伝道の使命は、決して使徒や牧師といった一部の人だけに与えられている働きではなく。それはキリスト者として召されている者すべてに与えられている使命です。その意味で、この主イエスの言葉は、すべてのキリスト者が耳を傾ける必要があります。
今日の箇所で、主イエスが弟子たちに命じられた働きは、第一に『天の国は近づいた』と人々に宣べ伝えることです。「天の国(神の国)」とは、神が支配し、神の権威が表されているところです。その神の国は、神の御子がこの地上にお生まれになったことによって、この世界に正に実現しつつあるのです。伝道の第一の働きは、この「神の国」を人々に告げ知らせる「言葉による伝道」です。
一方で福音伝道の働きは、「言葉による伝道」だけに限定されるのではありません。神の国の訪れの福音は、言葉で告げ知らされると同時に、信仰者の具体的な愛の行いと奉仕によっても証しされなければなりません(8節)。この二つの伝道は一体的なものであって、どちら一方が欠けていても不十分なものとなります。
「言葉の伝道」において大切なのは、私たちが自分の主張や哲学を語るのではなく、主イエスが語られた言葉を語るということです。現代の教会において言えば、聖書を土台として、聖書が教える福音を語るという事です。同じように、「行いによる伝道」もまた、それは私自身の立派な態度や熱心さによって、人々を変えようとすることではありません。弟子たちはあくまで、その主イエスが行われた愛の業を受け継ぎ、それを継続して行うに過ぎません。その意味で、私たちの伝道の働きの土台となるのは、この主の日の礼拝です。礼拝において聖書の御言葉を学び、交わりを通して愛や奉仕について具体的に学び、訓練されるということによって、私たちは始めて外に向かって伝道の働きが出来るのです。
Ⅱ:恵みを運ぶ空の器として
そして今日の箇所で示されているもう一つのことは、伝道とは、私たちが神から与えられた恵みを、そのまま次の人に手渡すことである、ということです。使徒パウロも手紙の中で「わたしがあなたがたに伝えたことは、わたし自身、主から受けたものです。」と語っていますように、大切なのは私たちが、キリストの福音という宝を受け取って、それを人々の前に差し出すための『器』になるということです。器自体は、見栄えのしない土の器であったとしても、そこに入れられているのが本当の宝であれば、その器の働きには価値があります。伝道の働きにおいて、福音を語る人自身の能力や立派さは問題ではありません。必要なのは、キリストの福音をという宝を受け取って、そしてその宝をそのまま相手に届ける「空の器」なのです。
そこで9節以下では、弟子たちに対して旅の荷物を持っていかないように戒められています。
それは、キリストの弟子は質素で貧しく、禁欲的でなければならないということを命じているのではありません。「旅に必要なものを自分であれこれ心配して、余分な荷物を持って行く必要はない」と言われているのです。彼らが、その伝道の使命を果たすために必要不可欠なもの、それは主イエスから与えられた御言葉と霊的な権威と賜物だけです。その他の旅に必要なものは、それもまた神が備えていてくださるものです。主イエスは、金銭や生活の思い煩いによって弟子たちの本来の使命が妨げられないように、余分な荷物は持って行ってはならないと警告しているのです。
Ⅲ:すべてが神のご支配のなかにある
なぜなら「神の国」が実現したことを信じる信仰とは、日々の食事を含めた、具体的な必要も神のご支配の中で備えられていると信じることだからです。その意味で、今日の箇所で主イエスが語っておられる言葉は、山上の説教において弟子たちに語られた富や思い悩みについての教えと、深いところで繋がっています。神の支配と恵みは、心の平安といった内面的な事柄には留まらないのです。私たちが生きるために必要なすべての物は、神が与えてくださるのです。その神のご支配と配慮に信頼して、自らの全生活を神に捧げて生きること、それが「献身する」ということの本当の意味なのです。そうであれば、10節の終りで主イエスが「働く者が食べ物を受けるのは当然である。」と述べている意味も、自ずと明らかになります。この言葉もまた、牧師や伝道者として働いている者が、給料をもらって生計を立てるのは当然だ、という意味で受け取られることも少なくありません。
しかし、ここで働く者を養い、食べ物を与えてくれるのは、教会員や伝道される人々のことではありません。それは神のことです。神の国の進展のために働く者には、神が生きるために必要なものを備えていてくださるのです。
私たちの心の霊的な養いだけではなくて、私たちの体や健康を守り、物質的な必要を満たしてくださるのも神なのです。その神のご配慮と恵みを信じて、神に信頼して、自らの全生涯を捧げる献身者には、神が必ず必要なものを与えて下さり、その信頼に答えてくださる、そのことを主イエスはここで教えておられるのです。
Ⅳ:私たちの人生が伝道そのもの
主イエスが、そして弟子たちが宣べ伝えた「神の国」は、私たちの現実の生活や、現実に私たちが抱えている問題とは無縁の、遠い場所に存在しているのではありません。神の国は、私たちの目の前の困難の中に、あるいは日常の生活の中に現れて、私たちの人生を変え、生き方を変え、私たち自身を作り変える力を持っているのです。その神の国の訪れの善き知らせを告げる「神の国を告げる使者」として、今日も私たちはそれぞれの家庭や職場、地域や学校に遣わされていくのです。この礼拝を通して委ねられた、キリストの福音と、聖霊の賜物という真の宝を「私」という土の器に携えて、それぞれの生活の場で主と共に生きる、その私たち献身者の人生そのものが、神の国の訪れを証しする伝道の生涯となるのです。